第11話 ゆきと夕さんの一つ屋根の下のはなし

残暑が厳しいと予報されていた年だけあって、9月末だというのに陽射しが痛い。それでも木陰に入れば風は心地よく、香りも真夏とは違うな、と思う。


6月の事件(と言えるかはわからないけれど、私には充分事件。)から三ヶ月たった。


夕さんとは今も同じチームで働いている。

七月には人事部から呼び出しがあり、私の意向を確認された。今のチームのままやらせてほしいと伝え、希望が受理されたかたちだ。


もちろんチーフが異動になったけれど、山地の件は自分で対処してから去っていった。まさかの、私の作品の採用となった。

チーフは、私が夕さんから話を聞いたあの日の午前中、自ら山地に赴いて事情の説明と私の案に変更する手続きをして帰ってきた。らしくない行動なのに、妙に上司らしく思えて少しざらざらとした気持ちが残ったのを良く覚えている。

本心が読めなくて気持ち悪かったのだ。


けれど、私に頭を下げに来ることも無かった。

相手が求めるなら柳井の作品で構わない。自分は勝本さんを評価していただけ。何も悪いことはしていない。

これが言い分だ。そしてこの言い分は何も間違っていない。感性の部分を攻めることなど誰にも出来ない。


人事部も大事にはしなかった。私も希望通り残してもらえた事で、別段訴えたいとか会社からいなくなってほしいとか、そんなことはいっさい考えなかった。


そんな穏やかな私の事を夕さんはとても誉めてくれた。


「好きな仕事が続けられればそれ以上のことはないよね。」


と伝えたときの夕さんの顔が優しく誇らしげで好きだった。


大したことではない。むしろ私が心を動かせる作品を作れなかったのがいけない。

許せる自分が嬉しかった。

怒りや憎しみに心を持っていかれなかった自分が好きだった。


夕さんの存在が大きいのは言うまでもなく。私の中で夕さんという支えは自分でも想像しないほど重要になっていた。


私と夕さんは結局同じチームで働いているけれど、何のためらいもなく、当たり前のように、八月に大型の夏期休暇を取り、アパートを探した。


お互いに、互いに寄り添っていることが心地よかった。

それまでは自立した女性でありたいと思っていて、それが一番格好良いと思っていた自分の価値観は覆され、誰かのお陰で自信を持って生きていられるということもまた、人間らしい生き方なのかもしれないと、近頃は思っている。


「どこかで休む?」


「飲み物を買って公園のベンチでも座る?」


「いいね、中央公園の木陰だね。」


自販機で冷たい飲み物を買って向かいの公園のベンチに座る。

子供達は汗をかいて、前髪がびしょ濡れのまま笑顔で走っている。

日曜日の昼過ぎ、特に予定もなく、時間も何も気にせずに二人でベンチに座っている。


平日の仕事に追われた生活からは信じられない。そして今までだったら、二人で居るのに何もしない休日だなんて考えられない。せっかくの休日、どこかへ行かなくては、何か目的がなくては、と考えてしまうのが当たり前だった。


それなのに、同じ場所から出発して、同じ場所に帰るとなると、なぜか「散歩でもする?」というなんの目的もないお出掛けが成立する。むしろ何もないゆったりとした時間が何よりも素晴らしい目的に思えてしまう。


不思議だな。


なんてぼんやり考えながら、払っても払っても近づいてくる蚊をやっつけようと、パチンと手を鳴らす。


「もー!蚊!五月の蝿でうるさいと読むなら、九月の蚊でしつこいだね。」


「ははは、どこでなに話してても面白いね。ゆきはホントに何にでも好かれるね、羨ましいよ。変わりたいとは思わないけどね。」


「酷い~。」


「良いことだよ。誉めたんだよ。じゃあ家に帰るか。」


「夕飯の支度を買ってからにする。」


「了解。」


自然に私の手をとる夕さん。

手を繋いで並んで歩く気恥ずかしさと、子供の頃に戻ったような甘えたい気持ちが共存して不思議な感覚に陥ることは、同じことを何度繰り返しても無くならない。


私はこの感覚が好きだし、夕さんに触れている奇跡に何度だって感動できる。


「ゆーうさん、今日なに食べたい?」


「うーん、今日は私が作る?」


「本当に!?やった~!!お手伝いするよ。」


「ゆきは甘え上手になってきたね。いい事だ。」


夕さんは嬉しそうに微笑んで私を見ている。

あわせて笑顔を返す。


「お陰さまでね。」


「甘えんぼうゆきは私だけでお願いしますよ。」


「あたりまえでしょー!」


はははははと大きな声で笑う夕さん。

ためらいなく大きな口を開けて笑う夕さんは、会社ではあまり見ることはなくて、そんな特別な感じのするこの顔は特別好きだなーと横顔を見つめる。


つられて笑ってしまい、慌てて下を向く。

居心地の良い帰り道だった。




「ねえ夕さん、私聞きたいことがたくさんあるの。」


メニューは鶏肉と大葉のあっさり餃子。たねを作ってくれたので、テーブルでチマチマと皮に包みながら、カウンター向こうでお味噌汁とサラダの用意をしている夕さんに話しかける。


「なに?」


「1年ほど前まで実家にいて、どうしてお料理がこんなにできるの?雑誌とか、全く読まないけれど、髪型とか洋服とか、どうやって情報を得てるの??今まで、どんな人を好きになった?」


「ゆきが一番聞きたいのは何?」


最後の質問に顔を上げて、とても面白そうに意地悪な笑顔を浮かべている。


そうなるだろう事はわかっていても聞きたかったんだ。


「どれも!」


「仕方ないな…始めから話すと、実家のお隣に定食屋があって、母ととても仲の良い友人が経営していたんだ。そこで高校生の時から就職するまでバイトをしてた。通勤時間1分の最高のバイトでしょ?お陰で少しなら料理も作れるようになったしね。」


「お料理教室にお金払って行くOLさんがバカバカしく思えるね。」


「あれも誰かの為に役に立つなら良いよね。やったという自己満足だけだとちょっと寂しいね。次に髪形だっけ?ずっと行きつけの美容師さんに任せっぱなしだよ。たまに遊ばれてる。芸能人の誰かの髪形のマネとか言って。きっかけはお金の無い大学時代にカットモデルで声をかけてもらって、喜んで切ってもらい始めてからずっとそこ。今はちゃんとお金払ってるよ。」


「カットモデル!?スカウト!?切っただけ?写真とかも撮ったの?」


「そんな大袈裟なことじゃないよ。フリーペーパの店舗紹介の欄にほんの小さく写真が載った程度。それで3回はタダで切ってもらったかな。ありがたかったな。」


視線は手元のお料理だけれど、懐かしそうに優しい声で話す様子はとても楽しそうで、何だか充実した人生なのかなーと、今まで想像もしなかった夕さんの学生時代に思いを巡らせる。


「服も、大学時代には少しは意気がって、雑誌とかを見て買いに行ったりもしたよ。そろそろ自分の好みとか、どんなのが無難に似合うかとか、わかってきたから冒険はもうしないよね。」


「わかる!私も同じだな。流行より、自分に似合うかどうかがわかってきちゃうんだよね。喜ぶべきか、悲しむべきか…」


「女の子は特に流行がコロコロ変わるから大変だよね。男は10年前のスーツも普通に着られるからな。体型さえ変わらなければね。」


「そこ重要ね。」


「最後の質問はなんだっけ?」


わかっているくせに。また嬉しそうな顔で私をちらっと見て、クスクス笑いながらまな板を鳴らす。


「今まではどんな女性を好きになってきたんですか!?」


ぶっきらぼうに、でもまっすぐに、意地悪な夕さんを睨み付けながら大きな声で聞いてみた。


「ごめんごめん。あんまり可愛いからついからかいたくなっちゃったんだよ。」


「はぐらかしてるでしょ…言いたくない過去があるのねー。」


「うーん。そうだね。内緒。」


「え!?2回も言わせておいて本当に内緒なの?やっぱり夕さんはひどい~」


「だって、ゆきの私以前の彼の話なんて、興味はあるけれど聞きたくはないな。もう全く関係ないとわかっているのに、絶対に嫉妬してしまうからね。」


「…。」


睨み付けた視線をはずせないのは、夕さんの本気の切なそうな顔。


私の顔はきっとすぐに情けない表情になって、今は真っ赤だろう。


「ずるいな…」


「おいおいね。伝える日が来たりするよ。今はゆきと私は一緒にいる。それが何よりうれしいから。一つ言えることは、過去に何もなかった何て事は無いんだけど、どうしても手に入れたくて、自分から必死で行動したのはゆきが始めてです。部署異動を申請してしまうほどだからね。これでゆきがフリーでなかったら、私どうしただろう?諦めるなんて言葉は意味がわからないからなー。略奪という言葉の意味は詳しく知っているんだけどね。」


「悪い顔してるよ!」


「良いこと言ったでしょ?」


「途中丁寧語になってたよ。」


「本心を言うときはいつだって緊張するだろ?」


少しの間をおいて、二人気持ちよく同じタイミングで笑いだす。


「餃子、包み終わったよ。」


笑いながら、弾む声でそう言って、お皿を持ってキッッチンヘ向かう。


夕さんはお皿を受けとるときれいに並べた餃子を見て、

「ゆきはさすがクリエイターさんだね。見た目にもこだわるし、手先も器用だから何でもできるね。」

と、子供をあやすように誉めてくれる。

だけどこれが単純な私にはたまらなく素敵なご褒美で、自分から背伸びして夕さんの顔に自分の顔を近づける。


夕さんは私の洋服が汚れないよう、レタスを洗って濡れた手を私の体から少し離して、でも少しかがんでにっこり微笑んでくれる。


軽く触れるほどのキスをして、顔を見上げる。


「えー」


「もっと?」


「もっと。ほら、腰がいたくなるから早く。」


ぱくっと唇を食べるようにキスをすると、私の顔の近くで夕さんが吹き出す。


「たまらないね。こんな時間、おかしくなりそうなほど頭の中、花畑だよ。」


「その表現…なんかわかっちゃう。誰かに見られたら凄い恥ずかしいほどバカップルだね。」


「ホントだね。さあ、ゆきの包んでくれた餃子焼こう。」


こんな毎日がずっと続くわけじゃない。そんなことは今までの経験からわかってはいる。でも、この厚い綿にくるまれた甘く穏やかな時間の中では、やがてこれが日常になってしまうことなど到底思い描けなくて、ただ今は何も考えずに暖まっていようと思っていた。


柔らかいものは押されればつぶれる。温かいものもやがて常温になる。穏やかなものは激しい流れの中にその姿を失い、巻き込まれる時が来る。甘いものも与えられ続ければいつかは飽きて見向きもしなくなる。

恋人同士のスタートの時間なんて、夢のように儚く脆いからこそ、いつまでも人はそれに憧れて、求めていくのだろう。

『真実の愛』さえも日常という武器には脆く崩れ去るものなんだから。


いつか来るその時のために予防線を張る。


幸せに浸りきれないのは面白くない性格だな。

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