第5話 ゆきと夕さんのそれから

あれから、渡川さんの私への態度は明らかに変わった。


今までは名前を呼ばれることなんて、1日に3回あるかないか。


データ入力か、コピーか、資料探しか…。


私、あのハーブティーに何か混ぜたかな?


「柳井さん、ここのデザイン、案1と案2のどちらが好みかな?できれば理由と一緒にメモを下さい。」


「柳井さん、私、今から出張後直帰になります。急用や私への連絡ありましたら社用携帯にメールお願いします。」


仕事の話ならまだしも…


「柳井さん、申し訳ないです。今顧客管理システムに入っていてインターネットをつなげないんです。これからの天気は調べられます?」


「あ、はいちょっと待ってくださいね!」


律儀に急いで検索をかけながら、


「出張ですか?降りそうな空ですね。」


なんて声をかけてみると、


「ただでさえあまり気が乗らない出張なのに、雨なんて降られたらスタバでコーヒーをゆっくり飲むぐらいの報酬がなければ、確実にキャンセルの電話をしてしまいそうな感じです。」


なんて、

絶対にキャンセルなんてしないだろうに、笑いながらそんなことを言ったりする。


そして私は、渡川さんが自分のスマホで調べれば良いのに、

ということに気が付いているくせにそんなことは言わずに、

「15:00からの降水確率40%、微妙ですね。」


ちょっと面白がった感じで返してみる。


お隣の華江ちゃんはすかさず、

「渡川さん!ご自分の携帯で調べたらいいじゃないですか!?」


と正論を言う。


「ああ!そうか。」


本当にうっかり、

みたいに渡川さんが笑うので、このやり取りが何となしに耳に入っていただけの周りの人達も一同に笑い、華江ちゃんの

「実は天然なんですか~?こんなに仕事できるのにー」

というコメントと、渡川さんの

「もうばれちゃったなんて残念です…この部署、あまり長くいられないですね…完璧なサラリーマンを目指しているんですよ。」

という返しがその場を盛り上げる。


渡川さんが来る前のオフィスは、仕事以外の会話はあまりなくて、私はチームのみんなのプライベートなんて知るよしもなく、一緒に食事に行くこともなかった。

お誘いする雰囲気ですらなかったのだ。


「家のかみさんもスマホいじりながら、テレビに向かって早く天気予報やってよ~とか文句言ってんだけど、アホかって突っ込みたいよね。」


「あれ?勝本さん、突っ込みたいってことは突っ込めないんですか?奥さまにしかれちゃってるんですか!?」


「えー、結婚したらどこも同じじゃないの?」


「私は亭主関白、貫きますよ。」


「佐藤、お前そんなこと言ってられるの新婚のうちだけだからな、覚悟しておけ、お前の思い通りにいくものなんて何も無くなる!」


「言い切ります!?先輩怖いな…」


皆が一同に大きな声で笑い、この会話のきっかけになったはずの渡川さんも、もうすっかり話を聞く側の人、という穏やかな笑顔で私の前に座っている。


私は、こういう雰囲気の職場が好きだな。とただ嬉しく思って、今まではどうして好きじゃなかったのか、とか、誰のおかげとか、そんなことは考えないで、ただ小さく声を出して笑いっていた。


パソコン画面に視線を戻すと、何となく見られている気がして視線を移す。


渡川さんと目が合う。


瞬間、渡川さんが満足そうな笑顔を浮かべ、すぐに視線をそらす。



ああー何だろうこの感覚。


もじもじしてしまう。


多分今のは、私と目が合うまで待っていた。

それもとんだ思い上がりかもしれない。


どうしたらいいの?私!


そしてもじもじしてしまうのは、明らかに相手に好かれたいと思っているからだ。


相手の思い通りの私になりたい。

だから今の行動の真意を必死に探る。


真意がわからなければ、どう返せば喜んでもらえるかもわからない!


たがらもじもじしてしまうんだ。


答えは出ないままそっと仕事に戻るフリをしてしまった。

ふり。

だって今はとても仕事のことなんて考えられない。


そしてまた、会社の人には内緒で二人で会っているところを想像しては、何度でも胸が生ぬるくなる。

熱くならないのは、期待はずれだった時の逃げ道を残そうと努力しているから。


「おいおいおまえら、おしゃべりもたまにはいいけど、仕事もちゃんとしてくれよー」


「はーい!すみません!」


「たまには良いよ、たまにはなー」


またチーフの偉そうな要らない一言。


それすらも今は許せる私の心の広さ。


これって依存?

違うよね。でも今、このチームから渡川さんがいなくなることなんて、多分誰も考えられない。

同じことを思っていたらしいお隣の華江ちゃんはとても素直に、


「渡川さんがチーフになればいいのにね。」


と私にさえ聞き取れるかどうかの、ため息のような声で呟いた。


初めて意見が一致した。


「そうだね。」


と、私は大きな声で返してみた。


華江ちゃんは驚いた顔でこちらを向いて、

「聞こえました!?」


と言うので、「本人には絶対に聞こえてないよ。」と初めて先輩面笑顔を浮かべてみた。


「柳井さん、明日一緒に訪問する山地家具の担当さんの名刺です。目を通して、部署名とか、下の名前とか、念のため覚えておいて下さい。」


そんなコソコソ話をしている私と華江ちゃんのディスプレイの間から、渡川さんが少し身を乗り出して、手をこちらに伸ばし名刺を差し出してきた。


「あっ!はい!」

さすがに凄くドキドキして(単に驚いた)、無駄に大きな声で返事をしてしまった。


慌てて差し出された名刺を受けとろうと手を伸ばす。

華江ちゃんもばつが悪そうにパソコン画面に視線を移す。


渡川さんの表情は相変わらず穏やかな笑顔で、

「よろしくお願いします。」


という。


名刺を受け取った瞬間、裏側に何か張り付けてあるのが、人差し指の感覚でわかった。


椅子に深く腰掛けるのと同時に、自分の手帳をデスクの上に出し、名刺の内容を書き写しながら、そっと自然な動作を心がけて裏返す。

貼られた付箋には私へのメモ。


すぐにはがして手帳に貼り直す。引き出しから付箋を一枚とり、出来るだけ丁寧な字で、走り書きをする。


こういうレスポンスは早い方がいい。


相手に、気付いたか、気付いていないかとヤキモキさせてはいけない!


同じように付箋を裏に貼り、渡川さんに声をかける。


「渡川さん、ありがとうございました。内容を控えました。」


そう言ってまた華江ちゃんと私のディスプレイの間に手を伸ばした。


渡川さんは「いいえ。」

と優しく微笑みながら受け取る。そのあとの行動は大きなディスプレイのせいで見えなかったので、私の方がヤキモキしてしまった…。


【明日の出張後、白菜鍋いかがですか?】


【ありがとうございます。出張が楽しみなのは初めてです。】

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