第4話 ゆきと夕さんのはなし
締め切りの近い案件に、チーム全員で追い込みをかけていた。
イライラとした空気はもう誰にもどうしようもなかった。クライアントがひどく気分屋なのが今のこのチームのくすんだ雰囲気に追い討ちをかけた。
時計の音がやたら大きく感じて、「今何時?」と聞くチーフの声も、ただそれだけの台詞なのに刺々しく痛かった。
つい、
大きな息を吐いてしまった。
チーフは聞き逃すはずもなく、
「柳井~もう3年目だよな。もちっとましな仕事できんの~?」
とか、東京生まれ東京育ちのくせによくわからない言葉でからんでくるから、自分の気持ちもささくれだって、いったいどうしたら良いか路頭に迷っていた。
「失礼しました。」
ゆっくりめに話して、手元のカラー見本のページをめくる。
今の自分だって相当感じ悪い。
もう嫌だな。
そんな空気を一変させ、後に皆が、この人がチーフになるべきだ、と思うようになった出来事は、この時に起こった。
「チーフ。」
「渡川?どうした?」
「私、天才かもしれません。」
ずっとパソコンとにらめっこしていた渡川さん、2、3分おきぐらいにすごいスピードでキーボードをたたく音が聞え、実はさっきから何をしているのか、気になっていた…。
今とりかかっている案件はパンフレットの校正作業。そんなにたくさん文章を打つ必要もなく。
クライアントにいくつかの見本を提出しても全てダメ出しをされ、とはいえ何がダメなのかはっきりと指摘してくれない。
曖昧にダメ出しをされるとほんとにまいってしまう。
雰囲気が気に入らないだなんて言われたら、一からやり直しになる。
皆、テーマの変更や文字のフォント決め、色の変更などに頭を悩ませていた中、渡川さんだけが軽快にキーボードを叩いていたのだ。
「クライアントと仲良くなりました!」
「は?」
「私ももう煮詰まりまして、先方にメールを送らせていただきました。お忙しいのでメールが良いとのことで。」
「ああ」
「我々もベストを尽くした結果を提示しているわけですから、当てもなくイジれば状況は悪化する一方です。という内容を柔らかな表現で、それから、修正のヒントを下さい。とお願いして、会議室では言いたいことも言いづらいでしょうから、週末ご都合の良い日に釣りでもいかがですか、とお誘いしてみましたら、状況が好転しました。」
「は?釣り?何で釣りなんだよ?」
皆固唾を飲んで渡川さんの話しに耳を傾ける。
そこに挟んでくるチーフの声や台詞はあまりに滑稽で、もうこの人、何も話さなければ良いのにと思う。
チーフに目を向けたら絶対に睨み付けてしまう自信があったから、
目をそらし、目の前の渡川さんを見つめる。
眼鏡の奥の瞳は切れ長でとてもきれいだ。
『整っている』
かっこいいや、イケメンより、整っているという表現がしっくりくるような気がする。
隣には並びたくないな。比べられたらたまらない。
またそんなどうでもいいことを考えながら話を聞く。
「はい。あちらの会社の会議室、カレンダーが釣用品店の物だったのを思い出したんです。私も祖父が大好きで、少しは嗜みがあったので数回メールのやり取りをしていましたら、、」
「こちらのデザイン案はどれも満足のいくものであると、ただ、初めからあまりに完成されたものが出てきたので、叩けば更に良くなるのではと思われたそうです。」
「悩ませてしまっているのであれば申し訳なかったと。案2を、もう少しクラシカルなイメージに変更できれば、採用を考えたいとのことです。」
オフィスの空気が一変する、空気に色がついていたら間違いなくグレーがシルバーに輝いた。
すごい!
すごすぎる‼
気持ちが高揚して安堵の笑顔がこぼれる。
チームの皆も同様に肩を撫で下ろし、口々に「ありがとう」
「助かったよ渡川~」
と感謝の言葉を口にする。
私はといえば、自分の考えた案は何度も没になり、このプロジェクトに何の貢献もせず、「助かりました」や「ありがとう」を言うことさえおこがましい立場。
ただただ渡川さんを見つめ、
尊敬の念を送り続けることしかできない。
「サンキュー、よくやったな。」
というえらそーなチーフの一言で渡川さんへの賞賛は終わり、それぞれがこれからの役割分担を口にし始めた頃。
ふと渡川さんと目が合う。
ニッコリと笑って、作り笑顔ではなく、
「お疲れ様でした」
と伝えた。
渡川さんはさっきまでの真剣な表情ではなく、少し穏やかな目になった。
「柳井さん、これ見てもらっていいですか?」
と左手でパソコン画面を指差しながら、右手で『おいで、おいで』の振りをする。
席をたち渡川さんのデスクへ回る。
立ち上げられたword画面に書かれた文字、そして今打ち込まれている文字、、、
【正直疲れました!
この前のハーブティー、とても気に入って
います。一息つきたいので作っていただけ
ませんか?
ご褒美と】
【いう】
【ことで。】
カチカチとキーボードをたたく指に見とれてしまう。
私もわりと速い方だが、鮮やかなブラインドタッチ。今の社会人にとってはわりと当たり前のことではあるけれど。
それにしても動作全てが完璧に見える。
文章を打ち終えると、渡川さんが私の方を少しだけ見上げ、
「どう思いますか?」
と言う。
回りに気付かれないよう、いつも通りの感じで言うその言葉と、打ち込まれた文章とのギャップに笑いをこらえるのが大変。
「ちょっと失礼します。」
少し前屈みになり、キーボードに手をかけると、渡川さんは少しだけ自分の体を反らす。
大学の卒論でブインドタッチ鍛えておいて良かった。
またそんなくだらないことを考えながら、
【はい。よろこんで!
でも、】
【渡川さんでもご褒美だなんて言葉を遣うんですね。以外にプレイボーイですね。】
打ち終えて、ちらっと渡川さんの顔を見て頬笑む。
「あっ、そういう間違えは早めに訂正した方がいいですよ。それでは例の資料を持って、5分後に会議室1にお願いします。」
と淡々と話す。
突然親近感がわいてきた私は、もう笑いをこらえるのに必死で、
できるだけ平静を装い、「はい。わかりました」と答える。
渡川さんはまた完璧な動作でキーボードをたたく。
【お隣さんに気を付けて。また絡まれないようにね。前回は見事でした!】
「お気遣いありがとうございます。」
浅く礼をして渡川さんのデスクを離れ、念のため自分のデスクから適当なファイルを一冊抜き取り、平然と給湯室に向かう。
横目でお隣の一つ年下の後輩女子、名前は華江ちゃん、を見る。
私と渡川さんのやり取りを気にする様子もなく、パソコン画面を見つめている。
ご褒美に紙コップはあんまりかな?
来客用のカップを2きゃく準備し、マイポットに丁寧にお湯を注ぐ。
美味しいお茶を入れるには、茶葉にストレスを与えない。この丁寧さが大切。(持論)
トレーに紙ナプキン、ミルク、お砂糖は前回使っていなかったのを見ていたので、今回は無し。それからティースプーンを乗せて会議室に行く。ダミーファイルを右脇に挟んで。
コンコン
「失礼します。柳井です。」
「はい。どうぞ。」
みんなの憧れの的(少女漫画風に言えば)の渡川さんが、わざわざ私と二人きりになるようなお誘いをしてくれた。
お茶だけならデスクに運ぶこともできた。
でも会議室を指定したと言うことは、一緒にどお?てことだと解釈して良いよね。
そんな状況だと言うのに、私は、
同僚として、距離を縮められたという喜びはあっても、驚くほどトキメキはなかった。
こんな私を女性として相手にするはずがない。
喜んで期待したら私が辛い。
ただ、一緒にいる時間が不快にならないよう努めれば良い。それは案外得意だった。
カチャ
「お疲れ様です。」
「ああ、ありがとうございます。」
私は軽く微笑んで、喜びすぎの痛々しい人にならないように、ニッコリしすぎに注意して、入れたてのお茶を渡川さんの前にそっと置く。
「熱いので気を付けてくださいね。」
それから、ソーサーにティースプーンをのせて、広げた紙ナプキンにミルクをのせる。
自分の分を渡川さんが座っていた席の正面にさっきよりもスピーディーに準備して、
「ご一緒しても良いですか?一応打ち合わせというふりをしてきたんです。」
と言いながら脇に挟んで持ってきたファイルを見せる。
「もちろんそのつもりでした。」
と、なんとも自然な笑顔が帰ってくる。
「渡川さんもそんな風に笑うんですね。」
「えっ?いつもどんな顔してますか?」
「うーん。真面目な顔?ですかね?」
「まずいですね…。それでプレイボーイだなんて思われたら、ただのムッツリ何とかじゃないですか。柳井さんにとっての私の印象は最悪ですね。」
そんなこと思ってもない様子で楽しそうに笑いながら話すから、
「そうですね。でもそのギャップがいいんじゃないですか?私は今日は得した気分です。思いがけず渡川さんの裏側を見られましたから。」
なんて調子を合わせてみる。
「はははは!」
と二人合わせて笑いだす。
さっきよりも、とても心地よい空間に変わった。
「このハーブティー、どこのですか?」
「キャンハウスという、最寄り駅のデパートに入っている紅茶専門店の物なんです。ノンカフェインでフルーティーなシリーズが他にもありますよ。良かったら今度ティーパックで簡単に入れられるもの、プレゼントしますよ。『ご褒美に』ですね。」
冗談めかして微笑むと、渡川さんは眉尻を今までよりうんと下げて優しげに笑う。
「嬉しいです。味の好みが合うかな?柳井さん、好きな食べ物は?」
「うーん。今は冬だから、鍋ですね!」
「秋なら栗ご飯、春ならロールキャベツ、夏は冷し豚しゃぶですね!」
渡川さんはまたとても自然な感じで、大きな笑い声をたてて笑っている。
私もつられてにっこりしながら、
「おかしいメニューありました?だって季節の食材で作ったお料理が一番美味しいですよね~?」
雰囲気に任せてフランクな感じで話す。
「同感ですね、春キャベツで作るロールキャベツはたまりませんね。冷しゃぶはもちろんおろしぽん酢ですよね?」
「当然です!夏はさっぱりが原則です。酢ははずせませんね!」
また二人同時に声をあげて笑う。
楽しいな。
会社にいる時間、楽しいと思ったのは初めてかもしれないな。
「そろそろ戻らないと、いけませんね。」
渡川さんは話の余韻で優しく微笑んだまま、少しだけ立ちあがり、私のカップと自分のカップをトレーにのせる。
「あっ!すみません、ありがとうございます。」
自然な振るまいについ見とれてしまった。
「私やりますから!」
「大丈夫。片付けぐらいならできるんです。」
「それではお言葉に甘えさせていただきます。」
「はい。任せて下さい。」
ファイルを手に取り、軽く胸の前で抱え、渡川さんがこちらに来るタイミングで扉を開けようとドアノブに手をかける。
「柳井さん。」
「はい?」
「豚と白菜の鶏ガラスープ鍋がとても美味しいお店があります。このプロジェクトが落ち着いたら、来週あたりにいかがですか?」
ふわーと暖かい血液が胸から顔にかけて上がってきた気がした。
社内で息抜きのお茶を頼まれるぐらいなら、そんなのは誰にでもあること。
外で二人で会おうと誘われるのはすごく特別だと思うのは私だけ?
あっ!待った!別に二人でと言われてはいない…。
「豚と白菜と鶏ガラスープだなんて最強の組み合わせですね。喜んでご一緒させて下さい。どなたか誘いますか?」
「それもいいですね。」
ほらやっぱり。早とちりはいけない…。
「うーん。でも、私あまり大勢で賑かに食事をするのが得意でなくて、社会人としてダメですね。」
「いえいえ、わかりますよ。」
「柳井さんが嫌でなければ、今回は二人でいかがですか?」
面倒なことはもうやめようって思ったばっかりなのに。
しかも社内だなんて面倒に輪をかけてさらに面倒だ。
だけど、特別扱いされた時のこの充足感?満足感?それが尊敬していた人だったりしたらなおさら。
私の軟弱な意思など、砂の山よりもろく崩れ去る…
「楽しみにしています!」
と微笑んで答える。
「またお声かけします。」
微笑みが返ってくる。
調子に乗りすぎ注意。社交辞令かもしれないし、特別な意味などないかもしれない。
傷つかない準備は調えつつ。
渡川さんへの気持ちは変化していく。
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