第3話 わたしのはなし
「ただいま」
外見はわりと気に入っている。赤い煉瓦風のタイルが好み。リビングが10畳はあって、内装が明るい木彫なのもストライクだった。
そんなお気に入りの賃貸アパートの玄関扉を開けると、まっすぐ向のリビングの扉の向こうに明かりが見える。
あら?今日は早い。
いそいそと扉に手をかけて、明るく、できるだけ可愛らしく(私のできる範囲で…)
「ただいま!」
「おかえり。」
新聞から少し目を離して、メガネの奥の彼の目は少し微笑んでこちらを見る。
「夕さん、今日は早かったんだね。」
「うん、きりが良かったから、たまにはね。ゆき、今日主張先から直帰だったんだって?珍しいね。今まで何してたの?」
「すごい。詳しいね。何年ぶりかに科学館のプラネタリウム行ってみたの。何だか気持ちが疲れちゃって、のんびりできればどこでも良かったんだけどね。」
「いいね。今度は一緒に行く?」
「そうだね!でも解説員の声がすごく良い声でね、疲れた日にいったら100%お金の無駄遣いになるよ。」
「つまり今日も無駄遣いになったの?」
「なりかけたよ!悔しいから頑張った。お夕飯作ろうか?」
「いや、大丈夫、お茶をもらっても良いかな?」
「はーい。」
カバンを置いて、台所に立って小さく息を吐く。ポットに水を入れてスイッチを押す。
ティーポットに紅茶を入れて、カップを用意する。
そうしてあの時もこんなだったな、と思い出しては、現状に満足している自分、という気持ちづくりを試みる。
必要とされる心地よさと、言いたいことを言えずにもどかしい思いと、同じ割合で『この人を好き』という気持ちが構成されるようになったのはいつ頃からだろう。
『あの時』は、1年半前。
新卒採用、入社3年目25歳。もはや『わかりません』『やったことがありません』『できません』は通用しない。
誰かのサポート業は減り、自分の責任が大きくなれば、誉められることも減って、注意、怒声が響くことさえある。
自分が満足している時に限って激しくけなされたりすると、奈落の底は底が崩壊したかと思うほど深い自責の念にかられ落ち続ける。
けれども三年目に辞めるようなありふれた人間にはなりたくないという少しのプライドで会社にしがみつく毎日。
そこに夕さんは突然やって来た。
年度途中の珍しい人事異動、ある朝突然私のデスクの前に座っていた。
「渡川 夕(とがわ ゆう)と申します。課が変わるとわからないことだらけで、どうぞよろしくお願いします。」
「柳井 ゆき(やない ゆき)と申します。よろしくお願い致します。」
丁寧さを心がけて、声も笑顔も必死で作った。だって第一印象ってすごく大切だ。
昨日私泣いてないよね…。目は腫れてないよね。朝メイクちゃんとしたっけ?今日の洋服ユニクロじゃないよね。
渡川さんを少し前から知っていた。
お互いではなくて、私だけが知っていた。
目立つ人なんだ。女性社員がキャーキャー言うような漫画のような展開ではないけれど、なんとなく皆が知っている存在。
長身でシンプルな眼鏡。なのに今時な髪型、体型にピッタリ合ったスリムスーツ。
すれ違うときに必ずかるく微笑んで、誰にでも爽やかに挨拶をする。素敵な人だと思っていた。私より4歳年上、私が渡川さんについて今知っていることはこれで全部だ。
自分が今どんな様子かが気になって、いてもたってもいられず、トイレへと席を立つ。
鏡をチェックしたい!
前髪を直し、ワイシャツの襟を直し、ジャケットのシワを手のひらで軽く押さえて伸ばす。
鏡の前でニコッと笑って、席にもどりずらくなったな、ということに気が付く。
考えなしだった…。突然席を立って、ちょっと身なりを整えて何もなかったように戻るのは、いかにも意識しているウザイ女子でしょ!?(いや、もう女子ではないか。)
少し考えて、
給湯室に寄ることにした。
自分の分と渡川さんの分のお茶を入れる。お気に入りのハーブティーを、丁寧にお湯を注いで作る。
紙コップにプラスチックの蓋をして、ミルク、お砂糖とマドラーを紙ナプキンにのせて手のひらに軽く握り、人差し指と親指でコップを持つ。
自分の分も左手に持ち、席に戻る。
渡川さんの姿勢の良い背中に心拍数が上がる。
「渡川さん」
囁くように声をかけて、デスクのパソコンから離れた場所にそっとコップを置き、ナプキンと一緒にミルク、砂糖、マドラーを添える。
「よろしければどうぞ、ハーブティーなんです。お嫌いでなければ。」
と言いながら、自分のコップを見せた。
ついでなんですよ。深い意味はないです、と伝えたかった。そうしないと突然頼んでもいないお茶をいれてくるなんてやっぱりイタイ女子になっちゃう。(いや、女子ではないけれど。)
「ありがとう。ハーブティーはむしろ好きな方です。いただきます。」
完璧な回答、完璧な笑顔。
「良かったです。」
しばらく話していたい気持ちを断ち切って、彼の笑顔に合わせてさっき練習したばかりのニコッをして、すぐに席についた。
隣から気を遣えない1年下の女の子が、聞こえるぐらいの声で「ズルーイ」と言う。
なんというタイミング。今それを言うメリットは私にもあなたにも無いでしょ?あなたもただのうざい女子になりたいの!?
苛立つ気持ちをおそらくそのまま表情に出して、ニッコリと笑いながら、「お先に」と答えた。
渡川さんの反応を見るのは気が引けたので、そのままパソコンの画面に目を移し、くだらないことをするのはもうやめようと思った。
25年の間に数人の人とお付き合いをしてきた。好きだと言ってくれる人と付き合う事が多かったけれど、それなりに大好きだと思える人はいた。けれども時間がたつとなぜか気持ちはいつも少し形を変えはじめて、のめり込むのも、のめり込まれるのもなんとも面倒だと思ったのが3人目ぐらい。
こんなに仕事にかけている時間が多い中、誰かの為に自分の時間を使うだなんて考えられないな。
いやいや、その前に、渡川さんとどうにかなるだなんてとんだ思い上がりもいいとこだ。
やっぱり妄想も現実も、くだらないことはよしておこう。
そう思った。
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