25
「…………また見てるんですか」
「うん」
すぐに、音符がつきそうな返事が返ってくる。
あの人が手に持つ携帯からは、大会の時に聞いた歓声と拍手の音が抑えられたボリュームで聞こえてくる。
それを聞くのはもう、何度目になるだろう。
見舞いに来る度にあの人は携帯を片手に僕を迎える。すぐに携帯に目を落としては、俺に話しかけることなく全部見る。
最初は驚いたし、本当に見ているなんて思わなかったから「なんで」と声を出した。兄貴が動画を送ったのだと知った時は、簡単に納得できた自分もいて。……帰ってきたら問い詰めようなんてことを考えた。
あれから二ヶ月経って、三年生は本格的に入試対策へと入ると同時に引退した。
引退式はどんちゃん騒ぎで、最後に内緒で用意した色紙と小さな花のプレゼントを渡したら、まさかの矢田先輩が泣いて皆で笑ったのを思い出す。
その日は皆で水野先輩のところにも行った。
行くとは報告していたけど、さすがに全員来るとは思わなかったみたいで驚いていた。矢田先輩の目が潤んでいるのに気づくなり笑っていて矢田先輩がしばらく顔を隠していた。
水野先輩に色紙とプレゼントを渡すと目を潤ませていて、やっぱり矢田先輩に突っ込まれていた。
『これは泣いちゃうね』
そう言った水野先輩は、渡したものをじっと見つめていて。それを見ていた全員が静かになった。
それが、最近のこと。
あれから色紙と花はあの人の病室に飾られている。
動画を見終わるまで話してくれそうにないから、恥ずかしさもあるけれど大人しく椅子に座って待っていることにする。
大会の結果は残念ながら優勝できず、準優勝という形で俺たちは表彰された。
一位の場所に立つ脇田くんは眩しかったけれど、不思議と心はすっきりしていて案外平気なんだと思った。
『いい試合だったよ。君には負けた』
あのメドレーリレーは、ほんの数秒の差で脇田くんが勝った。ちゃんと順位が表示されているところ見たから間違いはない。
だから、脇田くんが言った言葉の意味が未だにわからずにいる。
帰る前に脇田くんが話しかけてくれたけど、意味を教えてくれるわけでもなく……また戦おうって言われただけだった。
特に気にするほどでもないか、と今はあまり考えていない。
「いやあー速くなったね。弟くん」
「……だから、その日はたまたま速かっただけで」
「こりゃ私の記録抜かれちゃうなあ」
毎回この会話。何度言っても無視され、俺なんかそっちのけでしゃべりだしてはいきなり違う話をする。
自分が一番わかっていないというのに。
大会の日。どうしてあんなにも速く泳げたのかと聞かれる度に「わからない」と答えることしかできなかった。皆が驚いている以上に自分が驚いている。今でも何でなのかと自分に問いかけることだってある。
タイムを見た時、あの人が見る動画を見た時、本当に自分が?と思うほど自己最新のタイムだったし泳いでいる姿なんて別人みたいだった。
『やっぱりアキ、水野先輩の泳ぎに似てる』
大会終わり、健太にバスの中で言われた言葉。
行きのバスでも同じこと言おうとしてたんだということを知り、その部分のモヤモヤは消えてよかったものの兄貴が撮った動画を見るまで疑っていた。
俺が、似てる?そんなわけない。
そう、思っていたはずなのに。動画を見て自分でもそう思うのはおかしいと思ったけれど、つい「似てる」と声を出してしまうほどあの人が泳いでいるみたいだった。
でも、その日だけだった。速くあの人みたいな泳ぎができたのは。
大会終わって初めての練習の日、タイムを見てみたけれど今までのタイムより少し速くなっていただけでそれほど変わりはなく、今もあの日のような泳ぎはできていない。
それもそうか。
自分の中では納得していた。
大会の日、水の中にいた自分はいつもと違う感覚を感じていた。
本当に水の中なのかと思うほど体が軽くて、水の抵抗をあまり感じなかった。目の前に広がる景色も澄んでいて、今までは青く少し暗いぐらいだったのが明るくて眩しいほど水が透明だった。
こんなにも綺麗なのかと、中学生だった頃の気持ちを思い出した気分になって夢中で泳いでいた。
追い抜きたいとか、思ってなかったんだ。
周りなんて見えてなくて、ただ進むために腕を回して前だけを見て泳いでいた。あの透明で綺麗だった景色の先に何かがある気がして、手を伸ばしていたのかもしれない。
――“人魚姫”の尾ひれが、遠く遠くで見えていた。
本当かは、夢みたいな感覚だったからわかっていない。
「私ね、嬉しかったの」
これは、初めて話す話だ。
「弟くんの泳ぎ送ってもらえたのはもちろんだけど、うん、ほんと嬉しかった。自分が泳いでるみたいで、でもちゃんと“弟くん”っていう存在もあって、最初泣いちゃったんだ」
もうすぐ退院する水野先輩は悲しそうに笑った。
矢田先輩からは聞いていた。
水野先輩は“人魚姫”として名は知れていたから推薦は何個か来てること。でも事情を説明して断ったこと。それでもサポートとしてでもいいから来てほしいと言ってくれた大学へ進むことを決めたこと。
本当なら水泳をしたいって気持ちは、痛いほどわかってるし。できないことに対して苛立ちとか感じてることも知っている。
あの日、全部を知った。
でも、今悲しそうにしているのは違う気がする。そんなことに対しての悲しさじゃ、ない。
「ああ、あの頃より強くなった弟くんがいるなって。知らなかったよね、私弟くんのこと一回見たことあるんだ。萩野先輩と知り合う前にね」
まさかの俺が中学だった時出ていた大会を、見に来ていたことがあって俺の存在に気づいていたらしい。
名前は気にしてなかったらしく、覚えていなかったみたいだ。
「似てるようで似てなくて……懐かしかったの。その頃悩んでて、でも弟くんの泳ぎみたら悩んでる私が馬鹿らしくなるくらいキラキラして見えたの」
その後は表彰台に立った時の笑顔が可愛かったとか、すごいって思ったとか、色んな感想を聞かされた。
あやふやだけど、その時の記憶があの人の話によって鮮明になっていき恥ずかしさのあまりに、途中で小さく「……やめてください」と言ったくらいどうして覚えているのかと思うぐらいペラペラと話していた。
俺が制止の言葉を言った時、笑って言葉を続けた。
耳を疑った。
「この子はどれくらい頑張ったんだろって考えたら、私も負けてられないって思った」
目の前が霞むとか前触れもなく、頬に触れることなく雫が落ちた。
その大会は俺が誰にも気づいてもらえなくて、あげく兄貴にも気づいてもらえてなかったことを知る少し前の日だった。
それに気づいて、自然と涙が出た。
いたんだ……って知れたこと。遅いかなとは思ったけれど、知れたことに変わりはないし今でもよかったかなって思う。
俺を、あの頃の俺を、“天才”ではなく“努力”だと認めてくれた人がいたんだって。それが水野先輩だったことがあまりにも嬉しくて、どうしてこの人は俺が欲しい言葉をくれるんだろう。
「……俺、あの頃“天才”だって言われてて。頑張ってるだけなのにどうして、誰もわかってくれないんだろうって思ってました」
溢れる涙が止まってくれない。
ちゃんとあの人を見て言いたいのに、涙でぼやける。
「水野先輩は、わかってくれたんですね。頑張ってるって……思ってくれてたんですね……」
俺が知らないだけで、あの人の他にもいたかもしれない。もしかしたら両親はあの人と同じことを思っていてくれていたのかもしれない。
そうだとしても、今、あの時そうやって思ってくれていたのがあの人だと初めて知れたことが胸が苦しくなるくらい嬉しい。
俺がずっと、あの人のことを見ていると歪んだ視界でもわかった、あの人の顔が下へ向いたことが。
当然、変なことを言ったのかと笑っていた口も元に戻した。それと同時に止まらなかった涙はすぐに止まり、涙の跡が乾き始めた時あの人の震えた声が聞こえた。
「私、アキくんみたいに強くないの。ほんとは泣き虫だし、わがままだし、うじうじ悩むし」
「…………どうし」
「動画、見た時」
あの人の手に握られたシーツが、力が込められる度にしわを濃くしていく。
その手に、触れたくても触れれない雰囲気があの人から出されてて、何を言うのかびくつくことしかできない。
「アキくんが遠い人だって感じちゃった」
さっきからの悲しげな表情の正体は、これだとすぐに気づいた。
弱々しく吐き出された言葉は、俺にはよくわからないことだった。だって、俺が今まであの人に感じていたことを……これからだって感じることを……あの人が俺に感じていたなんて思わなかった。
それも、大会の動画を見てから。
嘘言わないでください。と笑って言うつもりだったけれど、あの人の様子を見るかぎり嘘じゃないことぐらいわかる。
あの泳ぎは、所詮あの人の真似事でしかない。「似ている」のなら100%俺の泳ぎというわけじゃない。
なのに、あの人は俺を遠い人だと言った。
どうしようもない感情だけが、俺の中で増えていく。
「わかんない、なんでそう思ったのかわかんないの。……でも何回見ても思っちゃう。アキくんが遠くに行っちゃう」
何回も、何回も見ていた理由はそういうことだったのか。
自分はどうしてそう思うのか探そうとして、でも見つからないまま、俺を遠い人だと思う気持ちだけが増えていく。それをあの人は笑顔で隠してた。
悩んでるくせに表に出さない。
出してほしいと言っても、また出さないようにするんだ水野先輩は。
「……水野先輩が弱いからです」
「…………え」
「弱くて、感情が溢れたらそうやって泣いて、大事なことはいっつも言わないけど人にはずけずけに聞いてくるし、悩んでる自分はほったらかして他の人優先する」
お人好し、という言葉がよく似合う人だ。
優しいけどたまにうざい。何も考えてないのかと思ったらまともなこと言うし、いつの間にか水野先輩という存在に引っ張られてる。笑顔に惹かれる。
みんなに尊敬されて、みんなに愛されてる。
それに気づいてない、弱い人。
「……俺は強いです。だから、あなたが悩んでる時は言ってください。助けてあげますから、そばにいてあげますから」
「……っ」
「ひとりにならないでください」
……ほら、子どもみたいに泣いてる。
俺がこうやって言えるのは、健太やシン、矢田先輩や部員みんな、家族の存在があったから。いつも背中を押して「ひとりじゃない」って教えてくれていたから。
水野先輩はいつも押す側だったから、わからなかったんでしょう?
だったら、「ひとりじゃない」って知った俺がみんなの分もまとめて押してあげます。水野先輩に伝えてあげます。「ひとりじゃない」ってことを。
「うっ……弟くんが生意気だあ〜……っ」
俺は遠い人になんてなりません。
正確に言えば、なれないんですよ。
“人魚姫”という大きな、遠い存在がいますから。俺はそれを超えないと、遠い人になんてなれません。
水野先輩は知らないかもしれませんがね。
散々泣いたあと、あの人は棚の上にあった箱ティッシュで鼻をかみ続けていた。膝の上にはその残骸がたくさん置かれていて、当然あの人の鼻はほんのり赤く染まっていた。
かみすぎなことを注意しつつ、自分では捨てる気ゼロの残骸を丁寧にゴミ箱へと入れていく。
入れ終えて状態を起こせば、あの人がじっとこちらを見ていたから何かあるのかと思い少し覚悟して聞いてみる。
「……なんですか」
嫌そうな顔をしても、あの人は表情を変えない。
首をかしげたと思ったら……、
「抱きしめないの?」
いきなりの爆弾投下に、俺の目が見開かれる。
言葉を理解していくのと並行して顔が熱をもちだし、あの人から見られないようにすぐに顔を隠した。
「な、何言ってるんですか……っ」
「だって、最近抱きしめてくれるでしょ?弟くん。だから今回もあるのかと思って」
ちらりと目線をあの人に向けたら、こっちは準備万端と言わんばかりの腕の広げ方を見て目線を元に戻した。
「……しません」
「え〜、久しぶりなのに?」
「……関係ないです」
「弟くんに抱きしめられるの好きなのにな」
唐突なカミングアウトに変な声が出た。
「だって、一番感覚が伝わってくるんだ。なんでかはわかんないけど、弟くんが触れると他の人より感覚が強く伝わるの」
嬉しくないはずの報告に内心ニヤついていれば、あの人は諦めたのかそれとも疲れたのか広げていた腕を下ろそうとしていた。
自分でも何を思ったのか知らないが、体が先に動いて、気づけばあの人を正面から抱きしめていた。俺も驚いていたが、あの人も驚いていた。……が、すぐに飲み込み俺の背中に腕が回った。
「うん、やっぱりよくわかる」
手術したからじゃないのか。なんて思ったけれど、前に進行を遅らせるためだと聞いていたから言わないでおいた。
今だけでも、病気のことを少しだけ忘れさせておいてあげよう。
「楽しみだな、みんなの泳ぎがまた見れるのが。そういえば部長、誰がなったの?」
「……伊藤先輩です、副が中田先輩」
「なんか大して変わった気がしないね!」
そりゃキャラが前の人と似てるからな。
「そっか、また楽しくなるね」
いつ離れるのか。いつあの人の背中に回した腕を離せばいいのだろうとばかり考えていた。
この状態での静かな状況は耐えがたいものだったが、残念なことに俺に話のネタがあるわけでもなくて。こうしていることしかできなかった。
「……あ、弟くん帰らなくていいの?」
今日は来るのが遅かったからか、外は夕暮れで小さく聞こえてくるのは五時を知らせる音楽。これは離れる口実になると、小さく頷いてそっと離れた。
恥ずかしがるそぶりも見せず、カバンを持ち帰る俺に笑顔で手を振るあの人。「あ」と何かを思い出したように声を出す。
「弟くんにまだ、言ってないことあった」
「……なんですか」
「動画見ててなんだけどね、やっぱり私」
泳ぎに対しての指摘とかだろうと、また軽く考えていた。すぐそこに二度目の爆弾投下がやってきているとも知らずに。
「弟くんのこと、好きだなあって」
その言葉を理解するまで、あと数秒。
人魚姫 吉田はるい @yosi
★で称える
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