24
応援席にいた健太とシンは心配そうに、先輩に囲まれて話しているアキのことを見つめていた。
「やばい、出ないのに緊張してきた」
「お、珍しく健太と同じだ」
「なんだ珍しくって」
傍から見れば案外平気そうに見えること二人でも、アキの悩んでいた時期を知っているからこそ、この大会は心配だった。
強そうに見えて強くない。
何も考えていないように見えて自分の中でぐるぐると考えている。
アキはそんなやつだと。
だから今のアキは、不安などのマイナスな気持ちを二人はもちろん周りの部員に出すことなく、最後の種目まできたのだ。二人は聞いても言わないことを知っているからこそ、あえてプレッシャーをかけるような言葉をいい、帰ってきたら一番に迎えていた。
本当は「怖い」「不安だ」そんな気持ちを、アキ自身の口から聞きたいけれど催促なんてしない。
最初の頃からは考えられないほど、今では笑うようになったアキ。しゃべるようにもなったし、部活にも一緒に行くようになった。
たったそれだけの進歩かもしれない。けれど二人にとってはそれだけでいいと思えるほど大きなものだと思っているのだ。
それでも心配なものは、心配だった。
「しれっとできるアキがすげえ」
それにはシンも共感した。
と、その時思わぬ客が水泳部を訪ねる。
「お、よく見える。お邪魔してもいい?」
「萩野先輩!?」
「よっ。お疲れ様」
普段のナツとアキは似ていない兄弟だと周りから言われているのだが、ナツの笑う顔はアキと同じだとここにいる誰もが思った。
片手で携帯を操作しながら、先程までアキが座っていた席に腰を下ろしまるで何かを撮る準備をするかのように、携帯を両手で掲げた。その画面は録画になっており、それを見た健太が食いつく。
「録画するんですか?」
「そー、水野に送ってやる用にな。アキのやつ、俺らにも出る種目教えてくれなかったんだよ。酷くねえ?」
「アキならやりそうですね……」
「俺が矢田に聞かないとでも思ったのかねえ」
この人の弟に対する思いは、二人が想像する遥か上をいっていた。
普通なら、大会に見に来たとしても録画するなんて親がして兄弟なんかは観戦するか見ない人もいるだろうに、この兄は違った。率先して見に来ては、多分アキの両親より必死にアキの泳ぎを見ようとする。それに、わざわざここに来て録画するってことは、水野に対してもだがアキの姿を綺麗に映そうとする思いがあるから。
まだ始まってもいないのに、携帯の画面を見つめるその瞳は真剣そのもの。父親と勘違いするぐらいだ。
――萩野先輩はすごいな。
健太は思う。
あえて何もしない方が水野の為だと思っていた水泳部。自分が水野と同じ立場なら、画像やら動画やら送られてきたら悔しくて悔しくて、自分を恨んでしまいそうになる。
なにより。送らなくていいのにと思われそうだと、水野は笑顔で見てくれるかもしれないけど泣いてしまうのではないかと、誰もが思っていたのだ。
矢田先輩の考えはわからないが、健太は少なくともそういう思いがあったからだと考えた。
今言ったことはすべて健太の想像でしかないが、当てはまりそうな想像だと健太は思っていた。
――何も知らないんだよな、俺って。
関わりが薄かった。
水野と健太が話した回数は数えられる程度。それも水野から話しかけられたものがほとんどで、積極的に話しかけにいくなんてことはしていなかった。
だから、ナツのような行動をしようなんて考えなかった。
アキは水野と関わりが深く、俺たちが知らないところでたくさん話して。昨日だって、俺たちには深く教えてはくれなかった。
ナツは水野と親しくしていた面もあり、知っていることが健太よりも多いのは確かで。
健太は、情けなくなってしまった。
「……まあ、俺が勝手に送ろうとしてるだけだから水野には迷惑かもしんないけどな。あ、ちゃんとお前らのも撮ってるから!だだお前らの席がちょうどいいって今知ってさ、すまん」
困ったように笑うナツを見て、何かが健太の中でぱあっと晴れ弱気になってた自分を捨てることができた。
健太の目に輝きが戻った姿を見たシンは気づかれないように微笑んだ。
タイミングよく、司会者の声が響く。
もうすぐスタートのようだ。
矢田は準備万端のようでスタンバイが完了していた。
思わず手に力が入り、口を固く結んでしまう。
――合図が鳴った。
一斉にスタートし、矢田は軽やかな泳ぎを見せている。
だが、脇田がいる高校がどんどんスピードを出していき矢田との差が開き始めていた。試合前矢田が言っていたとおり強敵だった。
さすが強豪校とでも言うべきだろうか。
でも、矢田もあの“人魚姫”である水野といい勝負をしていた男だ。負けてはいなかった。
安定した泳ぎ、安定したスピード。
二位をキープしたままバトンタッチし、遠目からだったため観客席からは矢田の表情は見えなかったが、悔しいような、でも保てたことへの安堵が滲み出ていた。
じっと試合の様子を見ていたら、あっという間に次がアキの番だった。
思わず前のめりになり、アキの緊張なのか自分の緊張なのかわからないものが、観客席で応援している者の心臓の鼓動を速める。
二位だった順位は三位に変わっており、でもその差は少しだったためアキならいけると誰もが信じていた。
健太がアキの姿を捉えた時だった。
健太も無意識のうちに声を出していた。
「……かわった」
「健太?」
「アキの目が変わった」
目を向けてみる。
確かに今までとは違った目つきで、泳いでいる目の前の選手を待っているアキの口元は笑っていたのだ。
まるで、今から泳ぐことに対して楽しさを感じているかのように笑顔で水面を選手を見つめていた。その姿は観客席にいる部員全員を驚かせた。
そして、アキは水の中へと飛び込んだ。
クロールを始める頃には三位ではなくなった……と思ったら、脇田との差をぐんぐん詰めていき司会者も驚いたのかマイクを通して声が漏れていた。
魚のように自由な――でも整った泳ぎ方。
あがる水しぶきが照明に反射して、見ている者の目にアキを輝かしくみせる。
「水野を、みてるみたいだ」
いつの間にか画面越しではなく、直接アキの泳ぐ姿を見ていたナツ。久しぶりに見たアキの泳ぐ姿があまりにも水野に似ていて、驚きを隠せず唖然としていた。
『でもアキって最近――』
健太は思い出していた。バスで、本当なら言うはずだった言葉をナツの一言で思い出したのだ。
あの健太が思っていたことだ。きっと部員全員が思い、それを本人には言わないでいたのだ。アキならば「勘違いだ」と言いかねない言葉を。
『それにアキは最近――』
会場にいる矢田も、必死に泳いでいるアキの姿があの楽しそうに泳ぐ“人魚姫”と重なって見えていた。
これは今が初めてじゃなかった。
いつからだろうか、アキが水と向き合うようになったのは。
いつからだろうか、楽しそうに泳ぐようになったのは。
水野がいない練習をしているはずなのに、なぜか水野がいるような気がしていた。
勘違いかと思っていた時もあったけれど、何度見ても矢田の目には水野にしか見えなかった。飛び込み方、泳ぎ方、水しぶきの輝かしさ。後ろから確認できた、アキの唇が弧を描くところ。
「水野が、ここにいる」
思わず笑みがこぼれる。
「アキが連れてきてくれたんだな、あいつを」
明らかに、髪から滴る水ではない温かなものが矢田の目から流れた。
矢田が初めてまじかに水野の泳ぎを見た時と同じ鼓動の動きをしていた。トクトクと速く心臓の中を流れていく血液、ぞわりと震える体、「勝ちたい」と思う気持ち。それら全ての感覚が、今思い出したかのように溢れてくる。
アキがそう見えるのは、彼らだけではなかった。
「……皆さん、私たちは夢でも見ているのでしょうか。あの“人魚姫”が今、ここにいます。萩野選手が私たちに“人魚姫”の姿をみせてくれています!」
驚きと興奮を含んだ司会者の声は、アキに集中している人たちの耳によく聞こえていた。本来なら静かに観戦するのに珍しいことが起こっている。
それほど“人魚姫”の存在は毎年すごかったのだ。
“人魚姫”は、色んな人に影響を与えては相手の戦意を高まらせ誰かの憧れとなっていた。――そう、あの頃のアキのように。
勝っても負けても何も感じず、ただ泳ぎ何となくで水泳部に入ろうとしていたアキに「あの人と一緒に」そう思わせたのだ。ナツに憧れたあの時と同じ感情を、少しだけだったとしても思い出させたのだ。
壁の前で立ち止まるアキを“人魚姫”は照らし、友が背中を押した。
今泳ぐアキの背中には色んな人の手跡がある。それがあるからこそ、今の泳ぎがある。
「ほんと似てる……」
“人魚姫”の名が引き継がれた試合だった。
アキがゴールするなり拍手喝采。
本人はこんなに名前を呼ばれ拍手を送られてることに戸惑いと疑問を持っているようで、あたりを見渡しては不思議そうな顔をしている。
「いい試合だったよ。君には負けた」
手が差し出された。
「いいライバルになりそう」
「……ああ」
アキが手を握るのと同時に、脇田はそのまま自分の方へと引っぱりアキの背中に片方の手をまわした。
ほんの数秒して離れ、脇田の初めて見た子供っぽい笑顔をみてこんな顔もするのだと思った。
慌てて録画停止を押し、まだ歓声に包まれている会場の中せっせっと携帯画面に集中する。
ちゃんとナツの考えたプランはあったのだ。
だが、早く送りたい、見せてやりたいという気持ちが大きくすでにトークアプリを開いており、「水野」と表されたところを押していた。
くるくると動いているもの。水野に送られているのだと思うと、「早く早く」と心が急かしていた。
「アキの勇姿、ちゃんと撮れました?」
「……あ、確認してなかった 」
最後らへん、画面から目を外してしまっていたことを思い出す。もしかしたらアキではなく、目の前の壁が映っているだけかもしれない。気持ちが焦って確認するということを考えていなかった。
――まだ間に合うかもしれない。
送ったのはついさっきのこと。十分な希望を抱いて画面を見てみれば、文字では書いてはいないものの「手遅れ」とも見れる、くるくる回るものがなくなっていた。それと引き換えなのか、「既読」の文字が送った画像の横に小さく表示されていた。
水野のところに、ちゃんと映っているかもわからない動画がしっかり送られてしまった。
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