23
司会の声がマイクやスピーカーを通して、会場の裏にいる俺たちのところまで聞こえてくる。司会の声も若干震えているようだ。
あの後、走って集合場所に行くと集合時間まで残り二分だったようで、ギリギリセーフだったのだが矢田先輩がそんなこと許すはずなく……。
『せめて五分前には、いような』
にっこりと笑ってそう言った。
何より、今までの怒られた経験よりその笑顔と短い言葉が一番怖かった。
会場のサポートの人の指示で、司会の声とともに会場に入る。そこからは学校の紹介や偉い人からの話などいつも眠くなる時間を、しっかり聞き、これから大会なんだと自分に感じさせた。
そんな時間もあっという間にすぎて、最初の試合が始まろうとしていた。
健太は平泳ぎ、シンは背泳ぎに出るようで二人は今準備をしに行っている。俺はまだ時間があるから、応援席に座っている。
どの種目に出るか決めた日。みんなと一緒に俺も悩んでいると、矢田先輩から拒否権なく自由形だからと言われた。
俺自身、自由形は中学の頃から速い方だったから、それについてはいきなりすぎて驚いたが嫌だとは思わなかった。一つ思ったことは俺でいいのかってことぐらいで。
健太とシンは自分で手を挙げて、出たい種目に出れることになった。平泳ぎと背泳ぎは二人には負けるほど速い。ちょっとの差だって二人は言うけれど、そのちょっとがすごいって毎回言い争ったのを覚えている。
そこまでは、よかったんだ。
頑張ろうってなれてたし、少しは疑問に思ったかもしれないけどそれはそれでって納得したし。よかったんだ。
『メドレーリレーの自由形は、萩野アキ』
それを聞いた健太が興奮しきったように俺の背中を叩いて声をかけられていたけれど、俺は重要な部分が不思議なくらい鮮明に聞こえて、それが嘘のようで、そればかりに気を取られて健太の声が遠く遠くで聞こえた。
本当なら、あの人が名前を呼ばれるはずだったところがほかの三年生ではなく、一年の俺だった。
誰も批判せず、俺に祝福の言葉をかけてくれた。
「なんで」とはとてもじゃないけど聞けなかった。「変えてください」なんて言っても決定事項だと言われるのが落ちだと考えた。それに、本当は名前を呼ばれたかった人がいるはずなのに選ばれた俺がそんな嬉しいことを、「変えてください」って言えば少しはイラつきを覚える。
だから、絞り出したカスカスの声でしか「はい」と言えなかった。
あの人にも両親にも兄貴にも言っていない。
個人の自由形に出るだけでも押し潰されそうな心臓なのに、報告してしまえばもっと俺が追い込んでしまいそうで。
――ただ、怖かった。
「始まったな、大会」
「……矢田先輩」
「水野に言われて出したわけじゃないからな、メドレーリレーの件」
俺が悩んでることなんてお見通しだったようで、俺が顔を上げると矢田先輩は笑って、俺の隣に座った。
「ちゃんと三年の中では話し合って、納得の上でアキを出すことにしたんだ。大丈夫。俺もいるし、安心してアンカー頑張れよ」
「……はい」
「それにアキは最近――」
その続きを言いかけて口を閉ざす。
思い出したように笑みを浮かべては、俺になんでもないと言う。どう考えても何か言いかけたのは明らかで、それをなぜ言わないのかを不思議に思うのも確かだ。
『でもアキって最近――』
そういえば、バスの中でも言われた。
なんなのか問いただしても二人は口を開こうとしなかった。知りたいこっちからしたらモヤッとしたものがずっと溜まっていく一方で、あの後寝ていたからすっかり忘れていた。
でも、変だ。その時より気持ち悪いものが減っている。
「……健太とシンも、同じこと言ってました」
「あの二人もか」
何か納得したのか頷きながら、軽く組んでいた手に力を入れた。
練習している選手たちを見ている矢田先輩の瞳には闘志が宿っていて、まるであの人を見ているみたいだった。自信に満ちた口元と楽しそうに見つめる眼差しも、重なって見えた。
――矢田先輩も健太もシンも、なにを俺に言おうとしたんだろう。最近の俺は、なんだというのだろう。
選手たちの練習もなくなり、司会者の声が会場に響く。
今初めて、会場に広がる塩素の匂いを感じた。
「くっそー悔しい!」
「四位でもすごい方だって」
「そうだけどよおー……ぬあああっ」
「……あ、アキ」
俺が試合に向かう途中、試合を終えた二人が帰ってきていた。しっかり観戦していたから、健太がどんな反応で帰ってくるかなんてお見通しだった。
まだ濡れている髪をくしゃくしゃとかきながら、俺を見つけたシンの言葉で健太も気づく。
「……お疲れ」
「おう。アキは今からか?頑張れよ!」
「……健太の分も頑張ってくるよ」
「嫌味か。っあー、でもほんと悔しい!あっこでスピードもっと出せてたらなあ、三位は取れてたと思うんだよ。アキも思うよな?」
「はいはい、アキが遅刻するだろ。行くぞ」
シンによって引っ張られていく健太。ふらつきながらも体制を整え観戦席へと戻っていく。
その後ろ姿を見届けてから歩き出そうとした時、健太が叫んだ。
「絶対、一位取ってこい!」
恥ずかしいにも程がある。
振り向かず手だけあげて俺は会場に急いだ。
あの二人の試合を見て、あんなに真剣に泳いでる姿を初めて見た。ぐんぐん抜いていく様を、そのまま行けと拳を作りながら応援していた。
健太もシンもおしい結果だった。健太は「悔しい」と口に出していたけれど、シンだって言わないだけできっと悔しかったと思う。
でも、試合を終えた二人はかっこよかった。
きっとあの二人だけじゃなくて、試合を終えた選手は誰もがかっこよくみえる。体を濡らした水が照明の光を反射して、キラキラと輝かせる。涙する人もいるかもしれないけど、真剣にやってない人なんて誰もいない。
俺は羨ましい。
こうしてジャージを脱ぎスタート台の前に立った今でも、みんなのように本気になれるのかが不安で仕方がない。余計なことを考えてしまいそうだ。
「よろしく」
左隣の別の高校の選手。俺に握手を求めるように手を差し出していた。
「……よろしく」
握った手の平から汗を感じ、相手の大きさを実感した。俺とは違い、肩幅は広いし身長も高い。俺も筋トレをしていたとはいえ、相手の方が筋量が多いように思えた。
どうしてか、肩の力が抜けた。
スタート台に乗った瞬間、さっきまで見ていたプールだったはずなのに違うものに見えた。輝きが一層増していて、少し目を細めてしまった。
今ならあの人が笑う気持ちがわかった気がした。
緊張で心臓がうるさいはずなのに、こんなにも清々しくて、泳ぎたいという気持ちが溢れてくることはない。むずむずするこの感じを浮き足立つと言うのだろうか。
ゴーグルをつけて、スタートする前の段階に体を準備させる。よく握りしめて前を向く。
――合図が響く。
一斉に目の前に広がる水の中へと飛び込んでいく。
指先を水の中に滑り込ませると、一気に体中が水に包まれて熱くなっていた体が冷まされていく。
大きな大会だけあって他の選手たちは速かった。特に「よろしく」と言った人は、俺の少し前を行っている。あれだけ自信ありげな雰囲気を出していただけあって、実力はだてじゃないようだ。
折り返した後からは時間がはやく進み、いつの間にか俺はスタートした場所にたどり着いていた。
隣には同じく息をきらした選手がいて、俺と目が合うなりまた握手を求められる。素直に応じると、
「いい試合だったよ」
そう言われ、笑みで返した。
二回目となる、順位が表示された電子ボードを見上げた。俺の名前の前につけられた「2」の数字は、「1」ではなかった悔しさを倍増させるけれど案外平気だった。
心配していたものが大丈夫だったことが俺にとっては大きかったのだろう。応援席に戻っている間、落ち込むこともなく軽い足取りで歩けていた。
左隣の選手は俺にとっていい刺激となった。
負けたくないと思ってから、泳ぎのスピードが速まったのが自分でもわかった。あれがなければ今の順位はなかっただろう。
……まあ、想像していた通り。俺の帰りを待っていたであろう健太とシン(主に健太)に激励をうけたのは言うまでもない。
応援席に戻ると先輩たちから「お疲れ」と声をかけられ、小さく返事をすると笑ってくれた。その後は健太からの悔しさと俺の結果についての話が始まり、シンと顔を合わせる度に苦笑いをしていた。
たんたんと試合は進んでいき、俺の水泳部はいい成績の人が多く皆がいけるんじゃないかと嬉しがっていた。その話になると、健太は自分の順位に対して悔しがりだし俺たち……主に俺に、話を振ってくるから勘弁してほしい。健太の耳に栓をしてやりたい。
どの試合も圧倒されるものだった。
あのスタート音が鳴り水しぶきが上がる度に、心臓がばくりと音をたて、ついついしかめっ面で試合の行く末を見つめてしまっていた。
試合をずっと見ていたから、気づいたことはある。
俺が出た試合で握手を求めた選手は俺と同じ一年生で、どうやら期待の選手らしく矢田先輩に聞くと「アキのいいライバルだな」と言われた。毎回優勝をかっさらっていく高校にいるようで、こっちも目はつけていたようだ。
それはいいとして、一番の問題は俺と同じ立場にいるってことで。メドレーリレーで最後を泳ぐのはあの選手らしい。それも一年生はたった一人。
また戦うことになるのかと思うと溜息をつきたくなるが、負けたくはない。まあ、泳ぎを分析できるわけではないから勝算はないけれど。
できることを精一杯したいんだ。
あの人の為にも。
あの人が見ていると言ったんだ。それなりの結果を出さなければ、何を言われるかわからない。
「アキ」
真剣な眼差しで、なんで呼ばれたのかすぐに気づいた。
もう来たのか、最後の種目が。
「メドレーリレー、最後の種目だ。泣いてもこれで俺たちの結果が出る。後悔ないように泳ごうぜ!そんで、応援よろしくな!」
「――はい!」
応援席にいる部員に向けて、メドレーリレーに出る部員に向けて、矢田先輩の言葉が伝えられ、まるで「心配するな」そう言われているような笑顔で拳をあげた。それにつられてみんなも笑顔になり、メドレーリレーに出る選手は応援席をあとにした。
『ちゃんと弟くんのこと見てるから』
あの人の言葉を思い出して、大切に頭の隅に置いた。
俺って単純なんだと思う。
個人的にきたメッセージごときで、思い出すだけでこんなにもやる気に満ちて、勝てそうだと思えるのだから。
そんな自分に笑いが出てくる。
先輩たちの後ろを大人しくついて行っていると、前にあの一年生選手が歩いてきていた。
俺に気づいたらしく軽く手を振る。
「初めまして、自己紹介まだだったよね。俺は
「……よろしく。あの、なんで名前」
「君、結構有名なんだよ。知らなかった?」
「……知らない」
「知ってる方がおかしいか、ごめんね」
健太とは違う明るさを持ったやつだと、感じた。それに、あの試合の時とは違った異様なオーラを放っていて、目を背けたくなる。
「やっぱり速いね、萩野くんは。中学の頃からすごいとは思ってたけど、高校に入ってからもっと速くなった」
「……どうも」
「“人魚姫”と一緒の学校なんだっけ?」
「……うん」
「ああ、だからか」
また、だ。
健太やシン、矢田先輩と同じニュアンスで俺に何かを言おうとしている。
彼なら教えてくれるかもしれない。俺がなんなのかを。
「……友達も先輩も、わ、きだくんと似たようなことを言うんだけど、なに?」
きょとんとした顔をしたと思ったら、笑う。
あの人を思わせる仕草だ。
「萩野くんにも、そのうちわかるよ」
じゃあね、と手を振り、俺が制止する間もなく彼は行ってしまった。
それほど大きな問題ではないと信じることしか、今の自分では出来ないのではないかと思う。
諦めを含めた溜息をつき、俺も会場へと足を進めた。
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