22
更衣室で着替えていれば、健太が突然俺の肩を叩いた。
ひどく興奮した様子で、なぜ俺だけに伝えるようにコソコソするのかわからない。大事なことなのであれば矢田先輩に言えばいいのに。
ぐいっと見せられた携帯画面。それは水泳部のグループを開いていて、今までのトーク履歴が並んでいた。
「……これがなに」
「下、一番下!」
指さすフキダシを見ると、小さく表示されていた名前があの人だった。短い言葉だったけど俺たちに向けられていたもので、相変わらず、あの人をよく表しているスタンプが添えられていた。
健太は、それを知らなかった俺がそんなに嬉しかったのか「どうだ」という顔をしていた。俺にあの人からメッセージが送られていることを教えて、こんなにも自慢げになるのはこいつだけだろうな。
顔がものすごくむかつく。
「それ、知らなかったの二人だけだよ」
「え!!」
しれっと明かされた真実に、心底残念そうにする健太。シンはそれを見て、健太の肩に手を置いてなだめていた。
何人がその人のメッセージを読んだのかはわからないようになっているから、健太は気づかなかったのだろう。周りの部員がすでに読んでいたことを。
この落ち込みぐらいからして、自分が一番とでも思っていたんだろうな。
大会も始まっていないのに悔しがる健太は、傍から見たら不思議に思われるだろう。
健太の携帯で自分の携帯の電源を切ったかが気になり、スカスカになってしまったカバンの中から携帯を取り出して画面を光らせる。
別に電源を切れなんて指示はない。だから絶対というわけではないけれど、一応切っておきたいという俺の気持ちからだ。
アプリを開くと過去に連絡を取った人たちの名前が現れ、一番上には来るはずのない名前があり『1』と数字が表示されていた。
迷うことなく開き、文を読む。
『ちゃんと弟くんのこと見てるから』
俺にだけ送られたであろう、言葉。
あの人は土曜日に言ったことを覚えていてくれて、それを本番に送ってくるあたりずるいとしか言いようがない。
自分でもわかる頬の緩みと、嬉しいという感情が溢れてくる感覚。
他の人に、特に健太に見られる前に、携帯の電源を切りカバンの中にしまった。その後は何もなかったように更衣を済ませ、さすがに水着のまま出歩けないからジャージを着て先に外に出る。
更衣室から出る前に、矢田先輩に呼び止められ集合時間を教えてもらった。どうやらまだ始まらないようで、時間までは自由時間になるみたいだ。
特に行きたいところもないがすることもないので、この建物内を探索することにした。
歩いていると聞こえてくる、他校の人たちの話し声。「緊張している」とか「勝てるのか」とかそんな話をしていて、みんな同じことを思うんだなと人とすれ違う度に思った。
でも、やっぱり驚いているようだ。
今回の大会には『人魚姫』が不在だということが。
そりゃそうだろう。今回は『人魚姫』にとって最後の大会だと、あの人を知っている人からすればすぐにわかることだ。それに泳ぐことが大好きだとあんなに体から出している人が、大会に来ないことなど驚きで仕方ないだろうな。
俺がすれ違えば、その話題になる人もいた。
同じジャージを着ているから、ちらりと見ては
「おい、あのジャージって“人魚姫”の……」
「出ないって噂だろ?」
「それ、本当らしいぜ」
という風に話がころりと変え、通り過ぎていく。
一歩、一歩、前に進むにつれて俺に向けられる視線が多くなっていく。好奇の目とかじゃない。ただ、あの人がいる高校だと言われている目であって。
それでも強く感じるのは、あの人がどれだけ大きな存在だったかってこと。
他にもずっと出てる人だっているだろうに、あの人が出ないだけで噂になりその理由がなんでなのかと人は話す。
他の部員もそうなっているのか。それとも先輩たちは知り合いもいるだろうから、理由を聞かれているのだろうか。
今回が初めてでよかったと思う。
もし話しかけられたとしても俺は対処出来ない。
「あ、いた!」
「…………げっ」
目の前の人混みの中から見えた、手を振りながら近づいてくる兄貴と両親の姿。
響くこの建物内で大きな声を出せば、人の視線が俺と兄貴に向けられ、兄貴はあの人に劣らず他校に名が知られている人物だ。当然、ざわつき始める周囲。頭を抱えた。
苗字と同じ学校だというところから気づいている人もいるかもしれないけど、気づいていない人が大半だったはず。あまり知られたくなかったっていうのがあったから、今こういう状態でバレてしまったことが悔やまれる。
誰だよ、俺に探索することを勧めたやつは。
……俺だけどさ。
「……ボリューム落とせ、って言わなかったっけ」
「あ……てっきり、応援だけかと思ってた」
「……目立ってるんだけど」
「あはは、ごめん」
反省の色が全く見られない兄を見て。
もう絶対、大会に来ることを許可しない。と強く思った。
「調子は、どんな感じ?」
「……まあ、悪くはないかな。ちゃんと泳げそう」
「そりゃよかった。アキの泳ぎはちゃんと俺が見ててやるからな!水野に報告もしないとだし」
「それだけはやめてくれる」
「いいじゃんよ。水野楽しみにしてるんだよ、俺の報告。……あ、そうだ。写真も撮ってやった方がいいな!」
もうだめだ。こうなったら兄貴は止まらない。
きっと「するな」と言ったとしても、その場ではわかったふりをしてこっそり写真も報告もするんだろう。
報告はされても、されなくても、俺はあの人から呼び出されるんだろう。
「どうだった?」って根掘り葉掘り聞かれて、俺がやめてくださいって言っても「えー」なんて言いながら続けるんだろうな。
「ナツ、その辺にしときなさい。早く行かないと席がなくなるわ」
「あっそうだった。じゃ頑張れよ、アキ」
「うん」
先に行く両親の後を追う兄貴を見送って、足早にこの建物の外へと向かった。
周りに緑があるからか、中より新鮮な空気がそこらじゅうあって暑いけれど涼しくも感じられた。風に葉が擦れ合う音が気持ちいい。
深く息を吸い込めば生暖かい空気が鼻を通り肺に貯められる。少し浅めに息を出せばさっきより暖かい空気が鼻を通り外に逃げていく。そんなことを数回繰り返していれば、体の力が程よく抜けた気がして――あの人のことをふいに思った。
何度も考えては、消す。頭の隅ではそんな作業を繰り返している。
“本当ならあの人はここにいたのに”
あの人に失礼だとは思っている。だからこそ消す作業をするけれど、笑いあってる人たちを見るとあの人の笑った顔を思い出してしまって、今いたとしたらどんな風になっていたのだろうと考えてしまうようになっていた。
あの人がいる大会を経験したことがないからだとは思うけれど、「考えるな考えるな」そう念じてもこうしてふいに思ってしまうのだ。
他の人が『人魚姫』に出てほしかったと思っている以上に、俺らは『水野先輩』に出てほしいと思っている。
でも、それが叶えられないことを知っているから……充分、知っているからこそ話題に出さない。
それでもやっぱりあの人の話は出てしまうもので。しんみりとした雰囲気になり、ついつい“いてほしかった”“いないんだ”ってそんなことを口にしそうになった時は、一旦止まっては笑顔になる。そして違う話題に変える。それが俺たちなりの気遣いなんだと思った。
……正しいのだろうか。
この行動は、俺たちのこの選択は、あの人にとっていいものなのだろうか。
俺がここにいるのを許すはずのないあの人は、当然いなくて、俺が先に離脱してしまいそうだった。口には出さない。みんなの前では言わない。でも、それでも。じわじわと俺の頭の中を支配する言葉は、はっきりとわかるくらい実体を持ち始め否定しようにも否定できないほどに俺の中を埋めていく。
『あの人は今ここに、俺の隣に、いない』
弟くん、と呼んでほしい。俺の目線に合わせようと隣にしゃがんで笑ってほしい。
ただ一言でいいから声が聞きたくなる。
「追い詰めることねえよ」
ポンと軽く叩かれた背中に広がる人の暖かさ。その暖かさは二つに増え、どうやら俺は両サイドに人がいる状況らしい。
「お前がそんな顔で泳いだら、怒られっぞ」
顔を見せていないはずなのに……。
「少しずつでいいんだよ。進めるのなんて」
俺の気持ちを伝えたわけでもないのに……。
「頼れよなあ、まったく」
どうしてわかってくれるんだろうか、この二人は。
涙が出るはずでもなかったのに、目の前が霞んでいくのは多分二人のせい。俺は顔を上げて笑ってみせる。
健太はその後手を離しその場に座り込んだ。
どうやら俺を探していたらしく、この建物の中をぐるぐる回っていたのだという。シンはしれっとしてるのに、健太だけがあちいあちいとジャージをパタパタさせていた。
短いとはいえ外にいた俺の額には汗が滲み、長袖なこともあってジャージが腕にまとわりつき余計に暑く感じる。中にいたのならまだ涼しかったはずなのに、健太は俺と同じくらいの汗をかいていてそれを見ていたら俺の熱など冷めてしまいそうだ。
蝉も鳴き始めたこの季節。
俺たちにとって大事な季節。
「あ、集合時間もうすぐだ」
「やっべ!遅れたら矢田先輩の怒りが待ってっぞ……!」
立ち上がり、俺たちは一歩前へ踏み出した。
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