21

カーテンの隙間から差し込む小さな光と、朝食らしきいい匂いがする中俺は目を覚ました。ちらりと時計をみると起床するはずだった時間より三十分も早く起きてしまっていた。


いつもならこのまま二度寝するのだが、今日はしようなんて思わなくて……というより、思わないほど意識がはっきりしていてしょうがなく体を起こした。


寝巻きのまま頭をかきながら階段を降り、母がいるであろうリビングに顔を出す。



「あら、アキ。珍しく早いのね」


「……珍しくは余計」


「普段は最後じゃないの」



それを言われてしまえば何も言えなくなる。

歯磨きをして、黙ってソファに座りテレビをつけた。


休日なこともあって、懐かしいアニメが流れていてちょうど悪を退治し終わったところだった。お馴染みのセリフを言ってから物語は一件落着。

久しぶりに見たアニメをしばらく見つめていたら、母に呼ばれた。



「ご飯よそってくれる?」


「……うん」


「懐かしいわよね、あのアニメ」


「……うん」



台所に行くと弁当が二つ、朝食が入る皿の上に並べておかれていた。残念ながらもう蓋は閉められていて中身は見れなかったが、なんで二つなのかが気になった。


母は専業主婦だから仕事はしていない。パートを始めたなんて聞いたこともなく、母の分という可能性は低い。だとしたら、父か。休日出勤はたまにあるから、今日はそれなんだろうと一つ分は解決した。


でも、もう一つがわからなかった。

俺は試合前にお腹いっぱいにしたら体が重くなるって、先週の買い物の時にすぐ飲めるゼリーを二つ買った。中学の時から大会がある日はそうしているのに、今更忘れたなんて母に限ってないはずだ。


……まさか、兄貴の分?

でも、昨日大学に行くからと言わなかったのはおかしい。兄貴のことだから前々から母に言っておいたっていうのはあるかもしれないけど、確認として前日にも言うはずだ。それを言ってなかったって、おかしくないか。


嫌な予感はする。ざわざわとしたものが胸の前を走っている。


当たっているとしても、兄貴とぎこちない頃よりは嫌に感じないが違う意味での来ないでほしいという気持ちがある。それと恥ずかしいっていうのも。


ご飯をよそおうとした手が止まり、口を開いた時だった。扉が開き、会社に行くのだろうと思った父が寝巻きではないラフな格好をして登場した。



「お、早いんだなアキ」



一人で混乱していれば、俺の手が止まっているのに気づいた母が「早く三杯よそって」と急かす。


返事もせずに首を回転させ炊飯器に目を移す。

まるで米がなくなり食べれなくて落胆しているようにも見えるだろう俺の姿。口をぽかんと開けたまま適当によそっていく。

ゆっくりすぎて持っていった時に母にブーイングされたが気にせずに席につき、目の前にある美味しそうな匂いをさせる朝食に手をつけなかった。



「どうしたんだアキ」


「なに、お腹でも痛いの?」


「…………いや、考え事」


「今日大会なんでしょ、早く食べて早く行かなきゃ。遅刻するわよ」



大会だってことを覚えている、ということは弁当を二つ作ったのは決して間違いからじゃないということになる。じゃあもう俺の考えは当たってますって言ってるようなものじゃないか。


百歩譲って、兄貴が来るのはわかる。ものすごくわかるが、中学の頃は来たとしても最後の大会ぐらいだった両親が高一の息子の大会に来るってことがあるのか。


なぜ今行こうと思ったのか不思議でたまらない。



「……ねえ、まさか大会来るの」



二人は箸を止めて顔を見合わせ笑った。



「ああ、行くよ」


「な、なんで……」


「そういえば言ってなかったわね。ナツから聞いてたのよ大会の日。それでお父さんの都合が合ってね、じゃあ行こうかってなったのよ」


「中学の頃は合わないことが多かったからな」


「……あ、兄貴も」


「そうよ」



あっさり答えた母と心なしか嬉しそうに見える父は、俺の反応にはまったく気にせず食事に戻り何やら話しだす。


……これは俺が諦めるしかない。


こんなに楽しみにしてそう(なのか?)な二人に今更怖いでほしいなんて言えないし、弁当もちゃっかり作っちゃってる母に申し訳なくなる。父だってせっかくの休みを、俺の大会を見に行くことに費やしてくれるのだからプレッシャーはかかるけど頑張らないとって思う。



「懐かしいわね、アキに違うスポーツさせようとしてた時のこと」


「ナツは夏にやるスポーツ、アキには秋にやるスポーツをさせようって企んでたからな」



それは初耳だった。俺たちの名前の由来については聞かなくてもわかるぐらいだったけど、そこまではまったく気づいていなかった。


両親は嬉々として話してくれた。


兄貴が水泳を始めたのは、父の一言がきっかけらしい。両親の企みと、ちょうどテレビで水泳の映像が流れたこともあり兄貴に勧め、テレビに映る選手がかっこいいと思ったのかあっさりと了承したのだという。


当時七歳だった兄貴は、一度もやめたいということもなく今の今まで続けているのだからすごい方なのかな。


俺の場合は、秋のスポーツを両親が思い浮かばず調べることもせずに「読書っていうのもいいね」という考えにいたり、スポーツなんて関係ない方向へと勧められそうになっていたらしく……調べろよと言いたくなった。



「でもな、ナツの水泳を見た途端“したい”って言いだしてなあ。そうなるって思ってもみなかったから、母さんと笑ったのを覚えているよ」


「……俺から言ったの」


「“兄ちゃんみたいになるんだ”って自信満々に言ってたわよ」



覚えていない俺は、懐かしいなんて思うことなくただ首を傾げることしか出来なかった。


こうして小さかった頃の話を聞くのも話すのも初めてに近いぐらいで、知れて嬉しいっていうのもあるけど恥ずかしい気持ちもあった。

その頃から無意識に兄貴を追いかけていたのだ。大きくていつも俺を引っ張って行ってくれる兄貴が、俺にとってはどんな選手よりもかっこよく見えていた。こうなりたいと、はっきりとした意志が俺の中にはあった。


ああ、でも。


キラキラと輝く水の粒たちと、兄貴の姿と。広く見えたプールを泳ぎきった後の笑顔は、覚えている。違う――思い出した。


あ、そっか。そうだったのか。

兄貴に連れられた水泳の大会の時に見た“あの人”と、父に連れられて行った大会の時の“兄貴”の姿は、輝いて見えた光景はだった。



「アキ、頑張りなさい」


「……うん」


「大丈夫よ、あなたはちゃんと“努力”してたわ」


「……っ、うん」



奥歯をぎゅっと噛んで、必死に我慢したものは少し溢れて目のふちに溜まったけれど。



「ほら食べないと。本当に遅刻するぞ」



温かくて自然と笑ってて。


一口も手をつけてなかった朝食もすぐに平らげて、ジャージに着替え最終チェックを行った後またリビングへと顔を出す。

兄貴も起きてきていたようで、口にご飯を含めたまま「アキおはよう」と言った……と思う。



「……いってきます」


「いってらっしゃい」



こうやって面と向かっていってきますと言ったことも、いってらっしゃいと言われたことも久しぶり。一人は何を言っているか不明だったが、緊張もほぐれて体が軽くなった気がする。


靴を履いて、扉を開けると朝日の光が薄暗かった玄関に差し込み目を細める。



「よかった、まだいた……!」


「……兄貴」


「ほい、忘れもん」



手渡されたのは、長めの紐がついたお守り。書いてあったのは“合格祈願”の文字で、大会と関係のない文字すぎて顔が引きつった。

その顔のまま兄貴の顔を見れば、俺が言いたいことがわかるのが渋い顔をしていた。



「急いでたから、それしか思いつかなくてさ……ごめん」



ぶつぶつと言い訳なのか呟いていたけれど、俺はこれでも十分に嬉しかった。そりゃあ見た時には、驚きと何でこれなんだとかは思ったりもしたけれどこれはこれで兄貴らしいと思ったし、受験に勝つって言葉があるんだから、その意味がこのお守りには水泳として入っているんだと思えばいい。


多分兄貴は、バレてないと思っているんだろうな。

兄貴のことだから、こっそり大会を見に来て「実は来てましたよ」としたいんだろうけど兄貴は甘かった。



「……兄貴」



父は、まあいいとして。母には言っておかないと兄貴が隠したいって思ってることを知らずに、さっきみたいに弁当を二つ見えるところに出していたし俺にはさらりと言うし。失敗したね兄貴。


今までは両親が行くこと自体少なかったからバレなかったんだ。兄貴が一人で見に来ていたことを知った後からは、今回も来るんじゃないだろうかって思うことは多くなったけど確実じゃなかった。


だからこんなに笑ってるんだろうな。



「母さんにちゃんと言っておかないと、来ることバレるよ」


「…………あ」



今更気づいたようで唖然としたまま、何かを言おうと口をぱくぱくさせていた。小さく漏れていた声は何を言えばいいか迷っている言葉ばかり。バレたものを忘れろなんて言ったところで、簡単に記憶を消せるわけでもないから迷ってるんだろうな。


それか、俺に来るなと言われないか心配してるのかもしれない。



「……恥ずかしいから、応援する声は小さくしてよ」



来て、いい。

そう伝えれるように放った言葉は、十分伝わったようで兄貴は少し間を置いて二回くらい首を縦に振った。


そろそろ時間も危なくなってきたから、軽く手をあげて「いってきます」の合図を送ると兄貴は手を振り、俺の背中に向かってそこそこの声で「気をつけてな」と言った。近所迷惑にもなるからそこもボリュームを落としてほしかったけど言わないで学校へと向かった。


いよいよ本番だというのに不思議と緊張もしてなくて、走る足取りは軽かった。一歩二歩進めていくたびにスポーツバッグは揺れ尻にあたる。いつもより重いからか威力が増していたけれど、気にせずに学校までの道のりを走っていく。


着いた時には、バスの前で待っていた部員に出迎えられどうやら俺が最後だったらしい。


休む暇もなくバスに乗りこんでいき、指定されていた座席に座り空気を吐き出した。幸いなのか俺の隣はいない。荷物をそこに置いて、着くまでの間眠りにつこうかとまぶたを閉じかけた時俺を呼ぶ声で制された。



「……なに」



忘れていた。隣の隣は健太だった。

健太の後ろで軽く顔を出したシンは、まるで付き合ってやってよと言わんばかりの顔をしていた。前にもこんなことがあったのだろうと察した。


健太みたいなやつほど帰りは大人しく寝てくれるんだけど、行きだけは寝てくれない。しかも人を道連れにする。バスに乗っている間を盛り上がれることがすごい。大会に行くバスということもあるから盛り上がってるのかもしれない、その気持ちを全くわからないわけではない……が、頼むから寝かせてほしい。


絶対ないとは思うけど、泳いだまま俺が寝かねない。



「大会ってやっぱり強いやつが集まるんだよな。ほら、泳ぎ方ってさ人によって違うからそういうの見れるのって楽しみにならねえ?」


「……まあ」


「勝ち負けって重要だけどさ、俺はそこも十分、重要だと思うんだよな〜」


「健太はいいよね、それ見てプレッシャーとか感じないから」


「確かに感じたことないな。むしろわくわくする!……まあ早くなることはないんだけどさ。き、気持ちだけ、うん」



健太はいつだったか、俺も同じだと言った。

俺だって水泳をズルズルやってたんだ、と。


それにしては、こんなにも目をキラキラさせて今から見れる選手たちを待ち遠しくしている。


健太は普段からにこにこしてるやつだ。

でも、水泳のことを話してる時や水泳をしている時はそのにこにこ顔が倍に輝いて見える。本当に楽しいというのがこっちまで伝わってくる。――俺を見ている感覚だった。

兄貴と気まずくなる前の俺と似ていた。真っ直ぐな目も周りに人がいることも笑顔が絶えないことも、健太を見ていると「ああ、俺ってこんなだったな」って思うことが多かった。だから、一ミリはあった。健太を嫌に思うことが。


でも、違っていた。

似ていたと思っているものでも、似ていない部分は必ずある。

健太は俺と違って、人と向き合おうとする。


シンだってそうだった。

一定の距離を保っているかと思えば、健太が言いにくそうにしてることをさらりと助言し、責めることなく大人な対応で――俺は助けられたことがある。


ズルズルしてた。何となくやってた。


同じかもしれないけれど、俺とは全く違っていた。

少なくとも健太は、水泳が好きで楽しいという感情があった。だから今、こうして誰かの泳ぎを見ることによって自分のモチベーションを上げることが出来ている。


シンはいつでも冷静。本当はどう思っているのかわからないけど、それをまったく出さないところがすごい。


羨ましくなる。



「でも、こう思うようになったのアキの泳ぎみてからなんだよね」


「…………は?」


「ほら言ったじゃん?お前のこと中学の時大会で見たーって。そこで見た泳ぎが、なんだろ……キラキラしててさめっちゃ惹きつけられて“こんなやついるんだ”って鳥肌立って、そこからかな。すごいと思った泳ぎを見ると“よし”って思うようになったのは」


「俺も驚いた。あんなに楽しそうにする人いるんだってね」



確かにあの時は、大会だろうがなんだろうが泳ぐことには変わらないからと思ってて、今はその感覚は忘れてしまったけど緊張せずいつもしっくりくる泳ぎをできた。


周りの目なんて気にせずに泳いでいたせいか、健太やシンにこうして俺がすごかったのだと言われると信じがたく思う。褒められることはあっても実感がなかったし、優勝しても兄貴に近づけたとしか思わなかった。


部活の人には「あいつはああだから」って目で見られてたから、余計だ。


今考えれば、それだけの記録を叩き出したのだからそうなるのも仕方がないと思う。



「でもアキって最近――」



言葉の続きを言うことなく、じっと見つめられたかと思うと「やっぱいいや」と言われた。

そこまで言われて気にならないやつなんていないだろう。しかも最近の俺の変化のことなら、なおさら気になるに決まっている。


シンも何となくわかったらしく「ああ」と声を漏らしていた。



「……なんだよ」


「べつに〜」



数分待ってみたけれど言う気配はまったくなく、諦めて外を眺めた。窓の外に広がる風景は見たこともないビルと店と道。知らない街に入ったのだと気づく。


ただボーッとしていたら、いつの間にか寝ていたようで誰かが俺をゆする振動で目を覚ました。


まだボヤボヤとする視界で起こした主を見ると、半分スイッチを入れているであろう矢田先輩だった。俺が目を覚ましたのを確認すると隣の隣に寝ている健太を起こす作業に移った。でも、なかなか起きない健太に怒りを覚えたのかスイッチが完全に普段の部活モードに戻ってしまった。


バスの中で先生からの諸注意や頑張れという言葉を聞いてから、矢田先輩に変わった。

今までの練習、今日の大会での目標、そんなことを折り込みながら簡潔に話して会場へと移動を始めた。他の学校も集まりだしているようで、色んなジャージを着た同じぐらいの人たちがぞろぞろと会場に入っていく。


『でもアキって最近――』


気になって仕方のない言葉の続きは聞けることなく、俺たちの勝負の日が本当に始まった。


あの人は今頃、何をしているだろうか。

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