20
「あはは、久しぶりに泳いだら結構きついね」
荒くなった呼吸を整わせながら笑うあの人は、俺には違う人に見えた。
ただ悲しそうに笑っていたところと息切れしていたのが珍しかったっていうのがあったから。
息切れは誰だってするけど、多分ブランクがあるから体力が落ちていて前より息切れしやすくなっているんだ。
病気のせいではないと、思いたい。
キャップもゴーグルも外して、くるっと回ったかと思ったらそのまま泳ぎだした。こっちに戻ってきたかと思ったら途中で水しぶきがなくなってよく見ればあの人は水に浮かんでいた。
「……何してるんですか」
俺もキャップなどを取りながら近づくと、目を閉じて水の少しの動きに体を任せていた。
俺の言葉に返答はなく肩を下ろすと、あの人はぱちりと目を開けて見たこともない柔らかい笑みを浮かべた。それに対して心臓がドクリと動いたけれど、なぜか吹いた風が冷たく感じた。今日は暑いはずなのに、どうしてだろう。
――まるで俺が感じているものをそのまま風に乗せたみたいだ。
すっかり暗くなって、空には所々にしかオレンジはなく黒に染められた中に儚く光る星たちと存在を大きく示す月が出ている。プールは元の水色になり、今度は暗さに反応して点いた電球がこの水を照らしている。体には水の揺れが模様みたいに映って変な感じだ。
「ねえ弟くん、私がマネージャーになったら嬉しい?」
いきなりなんてことを聞くんだと思ったけれど、あまりにも冷静に聞くもんだから、あの人が見上げる空に目線を向けながらゆっくり答えた。
「…………嬉しい、ですよ」
「……そっか、そっかあ」
一度目は軽い感じで素っ気なく、二度目は安心したような柔らかな声で。あの人はぷかぷかと浮いたまま涙を流していた。
勘違いだったらどうしようもないけれど、水の中にいるとはいえ不自然なところから水が流れれば――それが目尻から垂れたとすれば、涙と解釈するだろう。
悲しそうな顔をするわけでもなく、俺の言葉に納得した後俺の心臓が動いた時の表情を浮かべながら泣いていた。静かに、そっと。俺が横目で見なければ気づかなかった今の涙については、あの人は隠す気はなかったのかそれとも誤魔化せると思ったからか。
何にしても、それについて俺が触れることもない。見てないふりをした。
あの人がマネージャーでいてくれることは嬉しい。それは嘘ではないが、残念だとも思う自分もいて。多分それは俺だけではなく部員全員思っていることだろうから、本当の気持ちを言うことは出来なかった。
いや、本当の気持ちをどう説明していいかわからないほど複雑だったから、言えなかった。
「でも、矢田と弟くんと……みんなと一緒に泳げなくなるのは寂しいな」
「…………」
「明日の大会も応援に行きたかったし……手術日だからしょうがないけどさあ」
「…………」
「でも贅沢だよね、こんな綺麗な空見ながら泳げるなんて。もっと早く気づいてればよかったなあ」
何かを隠すみたいに休むことなくあの人はしゃべり続けて、俺は黙って話を聞いていた。
黙って聞いてはいたけれど、頭ではあの人の言葉の裏を勝手に考えては締め付けられる胸に顔を顰めていた。この時ほどそのままにあの人の言葉を飲み込んでいればよかったって思ったことはない。考えるほど、あの人の暗い部分が大きいのだと思い知る。
俺が考えてることがすべて正しいとは限らないし、あの人はもう吹っ切れているかもしれない。
それでも軽い水の中で握られた俺の手は、力を入れすぎて小さく震えていた。
少しでいいから頼ってほしい、分けてほしい、あの人の抱えてるものを。些細なことでもよかった。あの人が今、それを隠して笑ってることが黙って泣くことが一番見たくないものだった。
「どうして言わないんですか」
俺の言葉に目を開く。
「どうして、本当のこと言わないんですか。辛いって嫌だって言えばいいじゃないですか。なんで自分の中に閉じ込めるんですか」
前に言ってくれたみたいに自分の感情を俺に向けてほしい。「泳ぎたい」とまた、言ってほしかった。
俺だけに言ってくれたのかと思うとすごく嬉しくて優越感を感じた。
感情をぶつけたりすることをしない人だからこそ、それが涙と言葉として出た時あの人の気持ちが痛いほど理解できるし、よっぽど溜め込んでいたのだと感じる。だから、前に言った時は矢田先輩のこともあって「泳ぎたい」というしまいこんだ気持ちを俺に打ち明けてくれたのだと思う。
だから勘違いしてしまった。少しはあの人に近づけているのかって、俺だけに言ったからと言ってそれが距離感までを近くしてくれたわけではない。
今、あの人が俺に言ってくれないことが答えだろう。泣いた理由も、さっき話してくれたこともきっと本心じゃない。
俺だけが、焦っている。
「頼ってもらえてたんだって思ってたのは……勘違いだったんですね」
ずるいことだとわかっている。
弱っているあの人に、本当は気持ちを聞いてあげないといけないあの人に、逆に俺が気持ちをぶつけてあの人を今困らせている。
勝手に俺が思っていたことなのに、違うのだと気づいた瞬間に悲しんで腹が立って責めて。楽しくなるはずだったこの時間を俺が、台無しにしている。笑ってたはずなのに、困った顔をさせている。
違う。こんなことをしたかったんじゃない。
あの人の泳ぎをこの目に焼き付けて、話しかけられても必要最低限しか話さないようにして、せめて最後くらいは笑っていようと笑って今日を終わらせようとしたのに。
「寂しい」「応援したかった」「早く気づいていれば」
奥に奥に、しまっていたはずのものが急に存在を示しだした。それでも口に出さないように固く閉じていたはずなのに……簡単に開いてしまった。開いたものは閉じることなく、あの人に言葉を発していた。
言っている間は冷静だった。その後はただ後悔して焦っている。
焦りは何に対してなのか。
自信を持って明るかった雰囲気を壊してしまったことに対してだと言えればよかった。どうしたらこの空気が戻るのか、早く戻さないと。それに対してだと胸を張って言えたなら。
これは、あの人ががっかりしたのではないかという焦りだ。
俺なら何も言わずに付き合ってくれるだろうと見込んで誘ったのに、その俺が今感情をむきだしにしてあの人が触れてほしくないであろう部分に触れていた。
あの人の顔なんて見れるはずがない。
俺の顔を、見せることが出来ない。
「…………すいません」
もう、帰った方がいいかもしれない。俺がいない方がいい。そう、後ずさりした時だった。
「アキくん」
ぼやける視界の中、あの人の姿がはっきり見えてあの人の目は俺をしっかり捉えていた。みんなの泳ぎをどう思うかと言われた時と同じ視線、今回はフルネームではないけれど俺の名を真っ直ぐな声で呼んだ。
一粒、確かにプールの水ではないものが流れた。
それを見たあの人は悲しそうに笑って俺に近づく。逃げようと思えば逃げれたけれど、足はプールの底についたまま離れなくて結局あの人は俺の数センチ前に来ていた。
何を言われるのか、内心ビクついていた。怒られるのかとも思った。
でもそれは違くて、あの人は俺の胸元に頭をくっつけた。
まさかの出来事で言葉も発せない状態の中、本当に小さな音が俺の耳にしっかりと届いた。それはポタリと水の上に何かが落ちた音。一度だけだったから確かだとは言い難いけど、聞こえたことには間違いない。それが俺のものなのか、あの人のものなのか確認も出来ない。
あの人は顔を伏せている。俺からはあの人の頭部しか見えなくて、あの人がどんな顔をしているかもなんでこんなことをしているのかも聞くことが出来なかった。
「…………こわい」
「水野、先輩」
「手術が怖い。もしかしたら失敗するかもって、どうしても考えちゃう。……二度と立てなくなったら私どうしたらいいんだろ。みんなが離れていきそうで、怖い。ひとりになりたくない」
「……っ」
「痛い、苦しい、逃げたい。大会に出てみんなと優勝したい、もっともっと泳いでいたい。こんな体、もう嫌だよ」
体を震わせて俺の胸元に拳を当てていく。今までどこに捨てればいいのかわからなかった苛立ちを言葉と小さな拳で、大好きな水の中であの人は俺にぶつけていた。聞こえてくる嗚咽と涙を流した時になる独特の声は、あの時を思い出させる。
あの冷たい病室で一人になった夜に、いつも考えていたであろうあの人の隠していた想い。誰にも打ち明けることなく一人で抱えて、次の日には笑顔で誰かと接していく。
俺には想像できるものではない、生活だ。
『たまには、来てよ』
そう言ったあの人は、どんな気持ちだったのかなんてあの人の気持ちを聞いた今でもわからない。
俺だけに言ってほしいと、その意志を伝えた結果がこれだ。結局あの人を泣かせて、無理に辛い思いを吐かせて、きっと感じていたものを話しながら思い出しているはずなのに。こんなにも震えているのに。どうして言ってくれるんだろう。
言えって言ったのは俺だ。
なのにこう考えるのはおかしいかもしれない。
でも、聞けば聞くほど感じたこともない痛みと罪悪感でいっぱいになる。
――我慢出来なかった。
あの人の体を、二度目になるが抱きしめた。前より小さく感じるのは自分でよくわかっていた。
“ひとりになりたくない”と言ったあの人に知ってほしかった。俺がいるってことを。あの人が来てほしいと願うならいくらでも行くし、話を聞いてほしいならいくらでも聞く。頼ってもいいんだって、たとえあなたに恋人ができたとしても俺は笑って祝福するから。その時まででいいんだって。
ひとりじゃないと、伝えれればいい。
俺の腕の中で泣くあの人の体を強く抱きしめて、俺まで泣いてしまいそうなのを必死でこらえた。
「アキくんに抱きしめられてるはずなのに、前よりわかんなくなってる。……忘れちゃうんだ、人の感覚も温かさも、」
「…………もういい」
「そしたら、私――」
「もういい!……わかったから、しゃべらないで先輩」
最後らへんは絞り出した声になっていて、自分でも聞き取りずらいほどカスカスだった。それでわかってくれたのか大人しくなるあの人は、俺が冷静じゃいられなくなってるのに、落ち着きを取り戻していた。
何分ぐらいこうしていただろう。水から出ている部分は乾いて髪の毛から水滴が落ちることがなくなった。
長く後輩に抱きしめられているというのに、あの人は離してとも言わないで静かに待っている。
「……覚えてるかわからないけど」
小さく呟いた。優しく、笑ってるように聞こえた。
「私が泣いた時、あるでしょ?実はさ、アキくんに引かれないか心配で謝ろうとしてたんだけど」
よく覚えている。
さっきからずっと頭の中であの人の泣き顔が浮かぶ。
状況が似ていたこともあって、あの日は弱いあの人を初めて見た日だから忘れるはずがない。それも俺しかいない環境でだ。嬉しさもあり鮮明に思い出せるほどくっきり頭の中に残っていた。
「抱きしめられて、“俺も同じ立場だったら言ってた”って言ってくれて」
あの人はさらっと、俺が恥ずかしいと思っていることを言ったけれど。声色は嬉しそうで、少し羞恥心は湧き上がってきたが悪い気はしなかった。
「私、アキくんの言葉に救われてたの」
なぜ、あの人は俺が嬉しく思う言葉を言ってくれるんだろう。狙って言ってるわけじゃないし、詰まって言ってないあたり素直に言ってるんだと思う。
照れもしないで言えるのを俺は羨ましく思ったと同時に、俺だけが感情を色々とむき出していることが少しムカついた。あの人は今、顔なんて赤くせずむしろ微笑んでるほうなんだろうなと考える。ずるい人だ。
これ以上は――。
「……別に、本当のこと言っただけなんで」
「ありがとう、アキくん」
「…………はい」
「よしっ、泳ごう!」
なぜかガッツポーズをしてスタート台に歩いていくあの人の背中は、もう小さな女の子には見えなくて。大きな、初めて見た時の背中みたいに遠くに行ってしまった。
多分届く距離だと思うけれど、それでも歩き出したあの人を止めたくはなかった。俺の憧れでいてほしい。
だから、手を伸ばすのをやめた。
あの人が歩き出したとわかって、あと数ミリの所で手を伸ばしたまま俺が止まった。ゆっくり歩いていくあの人の足元にはきれいに道ができていて、凛とした背筋となびく髪に「これでいい」と素直に思った。
手を下ろして目を閉じた。触れられなかった手を握った。
聞いてくれますか、水野先輩。
「アキくん、早く!」
「……はい」
俺、初めて見たあの日から水野先輩の泳ぎが好きです。その頃の俺の理想そのものだったから、ものすごく憧れてものすごく嫉妬しました。“天才”って水野先輩のことを言うんだなって思って、でも“努力”を人一倍してる人なんだろうなって。
水野先輩の隣で泳げるようになって、自分の限界を自分で決めない人だと知りました。
しかも、人にお節介やくし変なところでスイッチ入るし。でも、そんな所があったから今の俺がいる。
本当は、水野先輩が一番に相談してくれる支えられる人になりたかったけれど、俺に水野先輩は大きすぎるから遠慮します。あ、たまには頼ってくれてもいいんですよ。その代わり、泳ぎを教えてくださいね。
ねえ、水野先輩。最後だって思いたくない。
これが最後の泳ぎだと、一緒にやれるのはこの先なくなるのだと思いたくないです。
「いえーい!また勝ったー!」
水野先輩、笑っててください。俺、あなたの笑顔にたまにですけど支えられてました。
水野先輩、はしゃいでてください。俺、その明るさがあるからこの部活は成り立ってると思うし、それがないとあなたじゃありません。
水野先輩、強くなってください。俺、あなたには届かないところにいてほしいんです。その方が追いかけるのが面白いですから。
「水野先輩」
「ん?」
「俺、頑張るんで見ててください」
俺たちが試合してる頃は水野先輩は、遠い意識の中にいるのかもしれないし手術の時間を待っているのかもしれない。
どうゆうことであれ、水野先輩は俺たち……いや俺の試合を見ることは出来ない。どんなに願っても水野先輩は病室にいなくてはならない。――少しでも症状を軽くするための手術を受けなくてはならない。
多分、辛いことを言っている。水野先輩はみんなで行きたいと言っていた大会を、せめて見ることも出来なくて。なのに俺は「見ててください」なんて言った。
でも、水野先輩ならわかってくれると思ったんだ。
『優勝します』
と、俺が込めた気持ちに。
「うん、見てる。絶対トロフィー持ってきてね」
歯を見せて笑う水野先輩。体全体をゾワゾワしたものが伝って、眼球にそれが届いた時に周りの神経が震えてその中に涙腺があったようで、目の前がぼやけた。
バレないように上を向いたとしても水野先輩はわかってしまうだろうから、顔に自分で水をかけてゴーグルもキャップもつけずに何も言わずに一足早く水の中に入っていった。入る瞬間に水野先輩の「あっ」という声が聞こえたけれど、隣のレーンで水しぶきがすぐに起こったから水野先輩も泳ぎだしたのだとわかった。
目を開けてみると、普通なら少し開けたところで諦めるのに今回は不思議なほどクリアに見えて、ちらりと横目で見ると軽く目を閉じた水野先輩が“人魚姫”としての泳いでいた。
これが最後じゃなければと、どんなに望んだことか。
夜、目を閉じる度に明日が来なければいいと思った。この日が来なければ水野先輩の最後が伸びることになるから、水野先輩は一つの希望を失わずにすむ。
でも残念なことに、目が覚めると外は明るくてデジタルの時計は毎回次の日の日付を綺麗に表していた。まるで、無駄だとでも言うように俺を現実へと戻す。大会という名の現実も突きつけてきたが……。
だから焼き付けておきたい。
これ以上ないくらい水野先輩の泳ぎを見て、マネージャーになるのなら指導はしてもらえるのだろうけど実際の泳ぎで水野先輩の技みたいなのを盗みたかった。
余計な悩みを増やしたくなくて、重いものを持ったまま手術を受けてほしくなくて、俺は閉じ込めていたものにまた鍵をかけて開けられないようにした。
ようするに二重ロック。
これでもう、口に出しそうになるなんてヘマはしないだろう。
安心したところで、あの人との過ごす時間はさらさらと流れていきあっという間に医者に許された時間の三十分前になっていた。
それから二人でプールを上がり別々で行為を済ませ、車椅子であの人が出てきた時には驚いたけれど、出口まであの人が乗った車椅子を押すことにした。変な光景だね、とあの人は言ったけれど俺は何も答えなかった。
わざとゆっくり行って、あの人と会話する時間を少しでも延ばしてあの人を車に乗せるのも手伝った。
小さく手を振るあの人に軽く会釈して、進んでいく車の後ろ姿をずっと見ていた。
車椅子を押した後に、やっぱり隣で歩いておけばよかった、なんて思ったことは吐き出した息で出しておいた。
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