19

初めて水野先輩の泳ぎを見た時、まるで電流が体を流れるみたいにビリッと感じたのをよく覚えている。呼吸するのを一瞬忘れた。それくらいあの人の泳ぎに圧倒され見とれていた。


今までこういう大会に足を運ばなかったことを少しだけ後悔した。


兄貴の後輩だと知って、すごいだろって自慢げに話す兄貴が羨ましく思った。あの人の泳ぎを部活に行けば見れる状態だったのだから。

でも、あの人が入ってきた時には兄貴は引退することが決まっていて兄貴自身もうちょっと見たかったと残念がってはいたけど。


今は兄貴が引退となっていたところにあの人がいて、あの人がいたところには俺がいる。


もう一年、早く生まれていたらもっと泳ぎを見れていたのかなって考えたりもしたけど、こればっかりは変えられるはずないから諦めて引退するまでの期間、あの人の泳ぎを見ていようと決めた。


あの人は太陽みたいに明るくて俺にとって厄介な人だった。


勝手に俺のこと気にするし踏み込んでくるし、その割に自分のことは押し込めて誰にも心配かけないように笑顔で隠していた。


近くであの人と関わってみると、強くて明るい人ではなく強がりな明るく振る舞う先輩としてしか見えなかった。


あの人には勝てない。追いつけないままだと思っていた。


あの人が“人魚姫”だとしたら、俺はその人魚姫が恋する王子様の“部下”に過ぎない。船の上から王子様に見とれるあの人を、こっそり見ていることしか出来ない情けない男。話す接点もなければ、人魚姫が俺に行為を向けているわけでもない。


それで終わるんだと思っていた。しょせんその程度なんだと。


でも、違った。


おとぎ話にもあるように人魚姫は陸に上がってくるのだ。おとぎ話は人魚姫自身が望んで水の中で生きることを捨てるのだが、現実の人魚姫は違う。


決して望むはずのなかったものがまとわりつき、蝕み、一気にあの人自身を暗い海の底へと沈めてしまった。もう二度と……までとはいかないけど、あの人がそんな選択をするようなことになり陸の上の“人魚姫”は姿を消すことになった。


あの人自身だけじゃない。誰もがそんな結末を望んだわけでもなく、知っていたわけでもない。だから驚くし「なんで」とずっと思い続けた。「なんで水野先輩なのか」って。


神様は優しくない。与える試練が大きすぎて、とてもじゃないけど乗り越えられないものを用意した。


あの人は泳ぎ続けることをやめた。

俺が知らないだけで、きっとものすごく辛い思いをしただろうし泣いたんだと思う。


そんな時、あの人を救う人たちが現れてあの人に手を差し伸べた。泳げないって諦めるんじゃなくて違う道もあるからそっちにこないかって。マネージャーになってほしいと、あの人に救いの手を差し伸べたのだ。


あの人が初めてみんなの前で泣いて、ありがとうと笑った時は、よかったと、心の底から思った。


――ひと足早い、引退。


あの人の言葉は本当なんだろうけど、これがあの人にとって最後の泳ぎ。

“人魚姫”が泡となる日なんだ。


支えられっぱなしの日々だった。特に兄貴のこと。あの人がいなければ――ううん、みんながいなければ兄貴に自分の気持ちを伝えることも兄貴の気持ちを知ることも、笑い合うこともなかったんだと思う。


一人だと思っていた俺が、一人じゃないと気づかせてくれた。


あの人が初めて俺に弱いところを見せた日。矢田先輩が帰った後だ、「自分は間違っていたのか」「まだ泳いでいたい」そう泣きながら本音を言った。


いつもは笑ってばかりで、矢田先輩に負けないぐらいの観察力を持ってて周りの人の微妙な変化に気づいて、周りを惹きつける泳ぎが出来るくせに、決して自分の弱いところは見せないしちょっと暗いと思って誰かが声をかけても誤魔化す。

そんな人があんなにボロボロと涙をこぼしながら話すのを見ていたら、誰だって胸が痛くなってでも嬉しくって。


俺の場合、抱きしめてしまったけれど。

小さくて、あんなに大きく見えていた背中も存在も、その時ばかりは偉大な人って感じじゃなくてなんか……女の子って感じで。


ちゃんとあの人も女の子なんだよな、って。


怒るだろうから絶対に言わないけれど。


少しでもあの人の視界に俺が入っていたのならそれだけでいいって思ったんだ。

この場この時限りでもいい。あの人の瞳に映ったのが、飛び込む前のプールの水でもなく兄貴でもなく矢田先輩でもなく風景でもない、“萩野アキ”が映ったのならそれで。





閉じていたまぶたを開け、タオルとペットボトルを置き立ち上がる。


ドアノブに手をかけ捻ると、キュッと独特の高い音を鳴らしドアを開ける時にも小さく音を鳴らした。風が出てきたようで乾いた髪と体に生温い風が当たる。中も暑かったけれど外には勝てないようで額にじわり、汗が滲んだ。


あの人はまだ、来ていない。


じっと待っているより練習することにした。今日は悩んでばかりで練習になっていなかったから、今更だけど明日の大会への不安が出てきて迷惑はかけたくないと思った。

プレッシャーはかかっているかもしれないけど、あんなに期待してもらっているのだからそれなりの結果は出さないと。


素早くシャワーを浴び柔軟体操を軽く行った後、ギャップとゴーグルをつけスタート台に立った。日が長いとはいえ、もう日は沈み始めていて濃くなったオレンジは水面に反射され眩しく思うほど輝かせていた。


上体を屈ませぐっと力を込めた瞬間水に飛び込んだ。


温まっていた体が一気に冷たい水に包まれて体温が奪われていく。それでも水をかき分けオレンジと水色の中を俺は黙々と進んでいった。

思ったより調子がよかったようで、本当は一往復で止まろうとしていたのをやめて二往復目に突入しようとターンに入っていた。


楽しかった。ただ単純に調子がいいことが気持ちよくて自由に泳げていることが素直に嬉しく感じて、だから止まろうとしなかったし頭のどこかでは今日の分の練習だと考えていなかったと思う。


壁に手がついた時、同時に足も下ろしてその場に立つ。


夢中だったから、



「弟くん」



あの人の声がいきなりした時はものすごく驚いたし、顔を上げればあの人の膝と顔が目の前にあって、にっこりと笑顔を浮かべるあの人なんて心臓がバクバクとうるさい俺にとってはイラつきを覚えるものだった。



「相変わらず綺麗だね」



そう言うと足を水の中に入れだし、冷たいなんて言いながらゆっくり前後に振りだした。

その波が俺のところまでやってくる。


ゴーグルは首に下げてキャップを外しあの人に目線を移す。


あの人は水着を着ていた。多分一度ここに来て俺が泳いでいたからその間に着替えてもう一度ここに来たのだろう。そう考えれば二往復以上泳いでいたのかと今更気づいた。


足を振るたびに沈みかけた太陽の光と水が反射してキラキラと輝き、まるであの人の足回りだけが強く輝いているように見える。


見た目は変わらない。最初に大会で見たままの水野先輩で、俺のことを「弟くん」と呼び笑う。この足のゆっくりな動きでさえ泳ぎを思い出せるくらい滑らかに水の中に滑り込ませていて、一瞬あの人が病気を持っていることを忘れてしまう。


でも、頭は勝手に切り替えて「違うんだ」と叫ぶ。


それに対して「違う」って叫び返したくなるけど、事実を知っている俺は黙ってその言葉を飲み込むことしか出来ない。


あの人の考えを変えてやる。

そんなこと出来っこないんだ。


もう決められたことであの人の中では絶対となってる。だからマネージャーになるって言って、水の外にいることを選んだ。

戻ってほしいなんて言えない。俺は水の外の人間で泳げない理由を知っている。それなのに無理やり――なんてことはしたくない。


本当に最後なんだ、これで。


憧れて、やっと近くにいれたのに、あの人はまた俺の届かないところに行ってしまう。

“人魚姫”として最後の泳ぎが、始まってしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る