18

結局、一時間の隙間をどうするかは決まらず……今日に至る。


練習している間も焦りながらずっと考えていて、練習に身が入らなくなっていた。当然タイムが上がらず、大会前日だというのにおかしいと誰もが思うだろう。

それが疑われないのかと不安になることなんてなくて、それぐらい俺の頭の中を占めていた。


だから、矢田先輩の視線も健太たちの呼ぶ声もまったく気がつかなかった。


他の人が泳いでる間は、見ているようで見ていない状態だった。頭はどうやって時間を埋めるかを考えてて、まるで風景を見るかのように眺めていて、簡単に言えばボーッとしていた。


順番が来たら泳いで、しばらく待って、また来たら泳いでの繰り返しだった。


自分でも十分わかっていた。明日が三年の先輩たちにとっての最後の大会で、大事な大会であることも。優勝したいってみんなが思ってることも、理解している。俺だって優勝したい。


でも、どうしても気になってしまって悩んでしまう。


今日改めて思ったことは、俺はきっとこうゆうのが向いていないってことだった。





「今日の練習はここまで!」



矢田先輩の声で、時計を見ると針は四の数字を指していて、気づかないうちに太陽が真上じゃなくなっていた。


結局決まらず、無難に家に帰るふりして戻ってくるっていう手を使うかもしくは矢田先輩だけ話してしまおうかと考えながら片付けていると、矢田先輩から呼ばれた。


怒られるな……。

そりゃ怒られて当然のことを今日はしていた。多分矢田先輩は気づいているし、笑顔だけれど大会前だからキツめじゃない説教なんだろうなって覚悟した。


小走りで行けば、キャップを外したばかりの俺の頭を矢田先輩は容赦なくぐしゃぐしゃにしていく。


手をあげられるのかと思って肩が上がってしまったのは無理もない。


恐る恐る目を開け、矢田先輩を見ると笑ったままでこれっぽっちも怒ってないようにみえる。それが不思議でたまらなくて、じゃなんで呼んだのかと疑問に思っていれば矢田先輩は話し出す。



「アキ」


「…………はい」


「お前なあ、もうちょっと集中しろ。確かにってのも大事だけどな、せめてちゃんと練習くらいはしないとだろ?」


「……え?」


「バレてないとでも思ってたのかよ。まあ、とぼけてたのは俺の方だし、しょうがないけどな」



集中しろと怒られたことまではわかる。その後の言葉は何か引っかかるし、そもそもとぼけてたってなんだ。まったく頭の理解が追いつかない状態でペラペラと話されても、余計に混乱するばかりでそれに気づいたであろう矢田先輩は、俺の肩に手を添えた。



「知ってるよ。今日、あいつが泳ぎに来るんだろ」



俺の目はこれでもかというほど開かれて、驚きで言葉が出なかった。


俺でも日時を聞いたのは本当に最近で、矢田先輩にバレるのなんて……いや、俺の態度でおかしかったと感じたのかもしれない。それだけであの人が泳ぎに来るのだときづくのだろうか。


そこまで理解するのにはヒントが足りなさすぎる。



「水野がメールしてきたんだよ、部員全員で見舞いに行く二日前ぐらいにな」


「……メール」


「そう、“部活が休みの日とかはないの”ってよ。最初は何言ってんだいきなりとか思って、理由聞いたら誤魔化すし、“ない”って言ったら落ち込んだ言葉で帰ってくるしで。その時点で大まかなことは理解出来てたけどよ。ま、俺も一日練をどこかでなくそうとか思ってたからちょうどよくて、とっさに決めた土曜ってことをあいつに伝えた」



バレた原因、最終的に確実にしたのは俺かもしれないけどおおもとの原因はあの人にあったんだ。


そりゃいきなり日時が決まって、多分あの人がメールを送った一日後に矢田先輩から連絡が来るはずだよな、土曜は部活が四時までだと。


俺の中でも色々な辻褄に当てはまっていって、あの人には振り回されっぱなしだと思った。



「で、見舞いに行ったら行ったでアキを残してほしいって、もうそのことを話すに決まってるだろ?そういうわけだ、俺が気づいたのは」


「…………なんか、すいません」



失礼だとは思うが、矢田先輩がこんなにも冴えている人とは思わなくてよくあの人が泳ぎに行くという答えにたどりついたなって感動さえ覚えた。


やっぱりあの人と接している期間が長かった分、あの人が考えていることあの人の気持ち色んなことがわかるんだろうなって。数ヶ月しか関わりのない俺には到底無理なことで、隙間時間の件が解決したから次はきっとあの人にどう話しかけたらいいのか悩みだす。


あの人の最後の泳ぎを見届けるのは、本当に俺でいいのだろうか。


あの人に選ばれたのだから嬉しいことだと思うし、あの人なりに考えがあってのことなんだろうけど俺にはそれがわからない。


俺じゃなくて、矢田先輩の方がいいんじゃないだろうか。


考えれば考えるほどマイナスの方に進んでいき、気が緩めば言ってしまいそうになる。「矢田先輩が、残ってくれませんか」と……。



「みんなには言ってあるから、遠慮せずに待ってていいぞ」


「……ありがとうございます」



矢田先輩には、何もかもがお見通しだった。例え泳ぎで勝てたとしても、矢田先輩のこういうところは絶対に勝てないのだと確信した。


選手としてもサポート側でも文句なしの人で、どこか一つでもいいから弱点はないのだろうかと思ったりするのは人間の嫌なところだ。でも、探したところで見つかりそうにない。あったとしてもそれを補うものが大きすぎるから、結局隠れてしまう。


矢田先輩には隠しごとなんて出来ない。

悩みごとを自分の中で閉じ込めていても、それを周りに出さない人でも(あの人とか)、きっと気づいてその人の為にアドバイスしてくれたり支えになってくれたりする。


あの人とは違う輝きを持った人だ。



「――水野を頼む」



真っ直ぐな瞳だった。


本当は一緒に残っていたいと、あの人の泳ぎを見たいと思っているに違いない。だって最後なのだ。もう見れないかもしれないとわかっているものが、今日見れるのだと知ったら誰だって見たいと思うし一緒に泳ぎたいと思うのが普通。


他のみんなだってそうだ。


それなのに、どうして俺に託してくれるんだろう。どうして文句を言わないで耐えているんだろう。


……俺にはわかってしまった。矢田先輩の俺を抱きしめる片腕と手の平が、「頑張れよ」とつぶやく声が、震えていたことに。俺に今の顔を見せないためにこういう状態を作ったのだと思うと、どうしようもなく胸が痛くて我慢しているはずのものを俺の方が流してしまいそうで、必死に唇を噛み締めた。


言えるはずない。全部とはいかないけれど矢田先輩の気持ちを知ってしまった以上、安易に矢田先輩の方が相応しいなんて言えない。だから、せめて頑張りますと伝えるために、



「はい」



俺も震えていたかもしれない。小さいものだったかもしれないけど、それでも、矢田先輩は笑ってくれて背中を優しく、二回叩いた。





ようやく解決した問題と自分自身の悩みもすっきりして、さすがにこの格好のまま待っているのも嫌に感じたのでせめてタオルでも取りに行こうと更衣室へと足を進めた。ちょうど喉もかわいていたし短いかもしれないけど休憩としよう。


更衣室に入ろうとドアノブに触れるか触れないかの瞬間にタイミングよくドアが開き、二年の先輩が着替えを終えて出てきた。開くなんて思わなくて少しびっくりはしたけど、俺の存在に気づいた先輩たちは「あ、」と声を漏らした。



「明日は期待してるぞ!まあいざとなったら俺が…………っい」


「お互い頑張ろーぜ」



ニヤニヤと俺にプレッシャーをかけた伊藤先輩の後頭部を叩き押しのけて、爽やかな笑みを浮かべた中田先輩はこっそり「ほっといていいから」と言ってくれた。苦笑いで誤魔化したけど。


遮られたことが気に食わなかったのか中田先輩に怒って何か叫んでいたけど、気にせずに伊藤先輩を引っ張っていく中田先輩を見て慣れているなと思った。

その後、出てきた先輩たちは二人の姿を見て察したのか俺に謝りつつも、明日について言葉を残して帰っていった。


やっとのことで更衣室に入ると、健太とシンがまだ残っていて健太がズボンしかはいていないのを見て、シンは待ってやってるんだなと思っていると健太は俺の存在に気づき近づいてくる。いや、着替えろよ。



「今日の報告待ってるぜ、アキ!」


「あー、わかったわかった。わかったから、シンを待たせるなよ」


「いいよアキ、遅いのはいつものことだから」



さっきもこんな光景見たようなデジャヴを感じて、更衣室前で起こった出来事を思い出しよく似ているなと思ったけれど二人には言わないでおいた。健太と伊藤先輩は波長がよくあっている。多分同じなんじゃないかと思わせるほどだ。


俺の一言によりシャツに腕を通しだした健太が大人しく口を閉じるわけもなく、俺に話しかけ続けた。


運がよかったのか悪かったのか、荷物置きの場所は隣でタオルで体を拭いていた俺は逃げれるはずがなかった。



「水野先輩は何時に来んの?」


「……六時」


「えっ今何時だ、シン」


「五時三十分過ぎかな」


「やべえー!!早くしねえとじゃん!!」



何でそこまで急ぐのかわからなかった。


健太がワタワタと何かに恐れながらシャツのボタンを合わせていたんだけど、多分本人は面白狙いでやったわけではないと思うがボタンをかけ違えてしまいそれに対してシンと俺は笑ってしまった。


泣きそうになっている健太をシンは笑いながら焦るなとなだめてて、やっとのことで全部合わせ終えた時には健太は疲れ果てていた。


『みんなには言ってあるから』


突然矢田先輩の言葉が浮かんで、なんとなく健太が時間が迫っていることに焦っている理由がわかった気がした。


矢田先輩のことだ。こっそり残ってたやつには――なんてことを言ったんだろうな。


そこまで釘を刺し、俺たちだけにしてくれようとしたことが嬉しくて矢田先輩と話した時「すいません」じゃなくて「ありがとう」って言ってればよかったと後悔した。謝罪より感謝の方が矢田先輩も笑ってくれたかもしれない。


遅いかもしれないけど、大会の日にでも言おうと決めた。



「…………健太とシンはさ、やっぱり残りたいって思ってるよな」


「当たり前じゃねえかよ。……でもさ、アキならいいって思ったんだよ」


「……は、」


「俺も。アキだから納得した」


「…………なんで」


「だって、アキは俺らよりずっと水野先輩のこと知ってると思うし、水野先輩が選んだんだぜ?それに間違いなんかないっての!」



なんだそれって、理由になんのかよって言おうと思った。笑って軽く健太のことを殴ってやるつもりだった。

でも、言おうとした俺の口は少し開いた後固く閉じて、殴ろうとした俺の手はそれを行うことなく下で強く握られたままだ。



「俺は報告、楽しみに待ってっから!」


「大会頑張ろうね」



相変わらずの二人に自然と笑みがこぼれて、小さくだけど「おう」と返事をすれば二人も笑顔を浮かべてくれて、健太は俺を抱きしめてくれた。


もう本当に時間がやばいことをシンから伝えられると途端に健太は焦りだし、鞄の中に水着やタオルが入れられた袋を強引に入れ俺に別れを告げて、部室を去っていった。


時間が過ぎるのは早く、六時まで残り十分もないというところまできていた。口に水分を含ませながらその場に座り込むと、ひんやりとした感覚が俺の足全体に伝わってくる。あたりを見渡せばと似ていた。体験入部の時の景色と――。


目を閉じて、体の力を抜き、微かに聞こえる水が揺れる音に耳を傾けた。


本当に俺だけなのだと、改めて思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る