17

散々おしくらまんじゅうした後は、練習状況やタイム、部員それぞれの悩み、そんなことをあの人に話してアドバイスを求めたり今後について話し合っていた。


和気あいあいとした雰囲気はなくなり、笑いなんて存在させないとでもいうように真剣な空気が漂っていた。


的確なアドバイスとやっぱりどこか楽しそうにしゃべるあの人が、水泳が好きなんだなって思うのと胸のあたりが苦しくなる感覚。


マネージャーとして水泳に関わってもらえるのは嬉しいことだけど、それでもいつかあの人が泳げないことで悩む日が来るんじゃないかって考えただけで、浮かんだあの人の後ろ姿が寂しくて小さく見えて、多分俺は何もしてやれず見ているだけなんだろうと。


あの人は誰も知らないところで泣く人だから。

きっと何も言わない人だから。


届いているのかもしれない、なんて気のせいでしかないんだ。近づいているのは距離だけであって、心の距離まではいっていない。まだ遠く、遠くにあの人はいる。


気づけば俺だけだった。


俺だけが、あの人のそばに話を聞きに行っていなかった。





「じゃ、俺らは帰るな」



矢田先輩が立ち上がった音で話が終わったことに気づき、外がもう夕焼けの色で染まっていて病室も同じ色で染まっていた。




「大会見に行くから」


「心配しなくても優勝するっての」


「ものすごく心配になってきた」


「お前……それはひどくねえか?」



いつも聞いていた皆の笑い声と、いつも見ていた先輩たちのやり取りが久しぶりに帰ってきた。


あの人の表情も柔らかくなっていて、前に感じた病室の寒さも寂しさも今は感じなくなっていた。



「ほら、出た出た」



部員たちを先に追い出すような形でドアまで誘導し、その後ろから矢田先輩も歩いていて、俺も出ようかと下がりつつあったかばんを背負い直し、歩き出した途端。

矢田先輩は俺の肩を掴んで「お前はいい」と言った。


何を思って言ったのかわからない。けど、矢田先輩は笑みを浮かべて他の部員を病室から出し、「お邪魔しました」なんて明るい口調で言って俺を置いて帰っていった。


扉が閉じる前に健太が俺のことを聞いていた声がしたけど、あの矢田先輩はきっと何も言わずに連れていったんだろう。


去る足音もなくなって、さっきまでとは大違いなほどの静けさでいっぱいになった。


……何を話せばいいか、わからない。



「弟くん、座りなよ」



かばんは床に下ろして座るとあの人は謝った。



「矢田に頼んだんだ。弟くんを残らせてほしいって。ほら、距離離れてたから言いにくくて」



気づけば、離れていた。

距離をあけて、あの人の話は半分も聞いてなかったんじゃないかってほど違うことを考えてて。あの人から目を背けてた。


あの人はいつも前を向いているのに、俺は後ろばかりを気にしている。

前を向くことが少しだけ、怖い。


視界には太ももに乗せられた俺の手しかなかったのが、いつの間にか白く細い手が加わっていて辿ってみればあの人に行き着いた。


優しく微笑むあの人は何も言わずに、ただ俺の手に自分の手を重ね続けている。


伝わってくる温もり。

この手を簡単に握ってしまえれば、あの人に素直に打ち明けられたら、困るのだろうか。それでも笑うのだろうか。


少しだけ力の込められた手はあの人の指先にちょっと触れるくらいで、面積は小さいはずなのにこんなにも自分の手と差があるのかと驚いた。


顔は見ていないけれど、あの人の腕に少し力が入ったことで、俺のこの行動に反応があったことはわかった。



「……仲直り、しました」



素直になんて言えるはずなく、あの人が一番気になっているであろうことを告げた。


うまくまとめて言えているかもわからない言葉でも、あの人はたまに相槌も打ちながら静かに話を聞いてくれていた。


手は、離さなかった。


あの人から離す素振りも、俺から離そうなんてする素振りもなくて。あの人は嫌そうにせず(実際はわからない)、俺が軽く握っていることも聞かずにずっとそのままだった。


もっと強く握ってみたかったけど、そんな勇気俺にはなくて今この状態が精一杯だ。


兄貴と仲直りした後二人揃って家に帰って、両親は俺たちを見るなりニヤニヤして(特に母が)出迎えてくれた。しかも何という偶然なのか、俺たちの好物がその日の夜ご飯だったみたいで兄貴は見るからに喜んでたけど、俺は顔に出さずに喜んだ。


母は一言「よかった」と、父は何も言わなかったけれど小さく笑みを浮かべていた。


全部話し終えて、あの人は笑って



「弟くんなら出来ると思ってた」



なんて、俺を信じてたみたいなこと言うから照れくさくなった。


ふとあの人の棚を見たら、兄貴が持っていた花束に似ている花たちが花瓶に綺麗に入れられていた。



「あ、そうだ。泳ぎに行くの今週の土曜日にしたの」


「……大丈夫なんですか」



今週の土曜といえば、俺は大会前だしあの人は手術前。俺は大丈夫だとして、あの人は色々と問題があるだろう。それこそ手術前だ。何かあっては困るだろうし、安静にしていないとダメなんじゃないか。



「すっごい説得した」



そう言ってガッツポーズをしたあの人。

俺は先生に同情した。あの人からの“すっごい説得”なんて絶対に受けたくはない。


でも、疑問に思った。



「……なんで土曜日なんですか」



何も土曜日にしなくてもいいと思うし、そりゃ日にちがないとはいえほかの曜日もあったのではないか。そうすれば先生を説得することだってなかったはずなのに。


あの人にとって土曜日が特別な日だ。とかはもちろん聞いたことがない。俺が知らないだけだったら何も言えないけど。



「だって、土曜は夜まで練習しないんでしょ?その日しかないなーって。それにを忘れないようにしたかったから、夜にしたの」


「…………」


「しかも夜で、貸し切り状態だよ?楽しそうじゃん」



わくわくして待ちきれない子供のように嬉しそうに話すあの人は、本当に水泳が好きなのだと感じる。何より泳ぐことに理由を求めてないっていうところが、あの人らしくて。


『楽しいってだけじゃダメなのか?』


前に健太がそう言っていた。それだけじゃ水泳をやる意味にならないのかと。

その時は深く考えてまで答えを出してなかったし、俺にはわからなかったから何も言えなかったけど、今ならはっきりわかる。


十分すぎる理由なんじゃないかって。


あの人を見れば、そう思う。

楽しいからやるから、練習して上手くなる。いつの間にかこうして続いているから、たとえ道を阻まれても諦めきれなくなる。あの人もそうなのだと思うし、現に俺がそうだ。……逃げてしまったことがあるけど。


それでも、今俺は楽しめているし続けている。


だからこそ、あの人が悔しく思っているのも本当はものすごく辛いことも、部員全員が知っている。


だからこそ俺は、この日が最後の泳ぎなんだと理解しているあの人が見ていてきつい。


俺はまだ、あなたに泳いでいてほしい。泳ぐ前に見せるあの笑顔も、終わった後の楽しそうな顔も、“人魚姫”と呼ばれたあの泳ぎも、引退するその時まで見せてほしい。


あなたのおかげでこうやって水泳を続けていられるのに……やっとあなたの一緒に泳げると思ったのに同じ世界を見れるんだと楽しみにしてたのに、真近であなたの泳ぎが見れるんだって……思ってた、のに。


どうして、俺が戻ってこれたら、あなたが戻れなくなるんですか。



「あ、もしかして用事とかあった?」


「……いえ、大丈夫です」


「よかったー。じゃあ、夜の六時に学校のプールに集合!でいい?」


「……はい」



おおかた、部活が終わる時刻は矢田先輩に調査済みなんだろう。だから、時間まで決めれたし夜までないのだと知っていたんだ。


確か、練習は夕方四時に終わるはず……。そこからみんなが着替えるまでの時間、全員いなくなるまでの時間を考えたら、それでも一時間の猶予はできる。そこが問題だ。


着替えずにずっといたら怪しまれるし、矢田先輩からは居残りせずに体休める時間だと言われてるから自主錬は出来ない。着替えて帰るのも面倒だし、帰るふりをするとしても脱いだ水着をまた着るのは少し抵抗がある。


一番の問題は、俺にあるんじゃないか……?


ここを乗り切らなければあの人が、日時を決めた意味もなくなる。俺にみんなには秘密にしておいてほしいと言った意味もなくなってしまう。


……答えが出そうにないんだが、これはあの人に言うべきなのか?

いや、言ったら日時を変えたりしなくちゃいけなくなる。先生だって、また説得されたくないだろうから。


それに、あの人なら「中止しよう」と言いかねない。それだけはしたくない。


最後だと思いたくないけど、最後くらい――最後の泳ぎなら泳がせてあげたい。めいいっぱい、気はすまないかもしれないけど、少しくらいあの人の心を満たしてあげたい。


だから、この問題は。



「――弟くん?」



俺だけで解決させないと。



「弟くん」


「……え、」



名前を呼ばれていたことに気づき、顔を上げると心配そうにこっちを見ていたあの人がいてびっくりしたのと。


思っていた以上に、あの人の手を強く握っていて、ここで離してしまえば変に思うかななんてとっさに思った俺は、力を緩めた。



「……えっと、すいません」



手を握っていたことに対してと、顔を伏せ黙っていたことに対して。

それに反応するように、さっきまでは力を入れてなかったあの人の手が俺の手を優しく包み込んだ。


驚いて何も言えずにいた。


ただ、離してとも言いにくいからこうしていたのだと思っていた。よく考えたとして、嫌じゃなかったとか何も思っていなかったからとか、そんなところかと思っていたけれどこれは……どういう思いであの人は握ってくれたのだろう。


優しく微笑んでるだけで、何を考えているのかわからない。



「あっ、勝負しよっか!」


「……したいのであれば、してあげます」


「はははっ。なんか懐かしいなあ、その言い方」



それからは、矢田先輩から聞いているはずの近状報告や兄貴の話。あの人が今ハマってること、気になることとかを話していれば面会時間終了まで後10分というところまできていて、急いで帰る支度をした。


バタバタとしたものだったけど、あの人は笑顔で手を振って送り出してくれて俺も小さくお辞儀して病室をあとにした。


結局、帰る前のギリギリまで俺たちは手を握ったままであの人も最後まで何も聞かずだった。


帰っている途中も、家に帰った後も、あの人の体温が残ってるみたいに熱くて。

正直いえばもう少しあの状態でもいいと、思った。

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