16
土日明けで学校が憂鬱に思う月曜日。
生憎、休みの日は学校はなくても部活はあった。そのおかげで体はなまることなく、シャキッとしたものになっていた。だからあんまり憂鬱にならずに学校に来れた。
大会前なこともあって練習メニューがハードで、そのせいだと思うけど少しずつ速くなっていっていることが、自分でもわかってそれが嬉しく感じ始めていた。
土日の練習中、矢田先輩は何かを考えているかのように上の空で、ずっと眉間にしわがよっていた。それは先輩部員でも珍しかったのか、小さく心配する声が聞こえていた。
確かに優しくてしっかり者で笑顔が耐えない人が、珍しくピリッとした雰囲気でそれが大会前だからとかならまだよかったんだろうけど、見るからにそれ以外のことだとわかる雰囲気。それに二、三回名前を呼ばないと反応しなかった。
おかしい、と誰でも思うだろう。
『……俺は』
あの時の矢田先輩が思い出される。
『みんなに黙ってるなんて、出来ねえ』
そう言って帰っていったあの日。
きっと矢田先輩は今でもあの人のことで悩んで、どうしたらいいのかと考えているんだと思う。
あまりにも突然のことで、しかも何も異常がなさそうなあの人が実は――なんて信じられるはずない。ずっと頑張ってきた仲間が、これからも頑張ろうってしてた仲間が、もう水泳が出来ないのだと知ったら頭が追いつかないに決まってる。
矢田先輩がああなるのも無理ない。他の人に同じことを言っても同じ反応、表情をとるんだろう。
黙ってるなんて出来ないと言った矢田先輩が、部員皆に言ったと情報は回ってきてない。俺には言わないとしても、健太が慌てて来るだろうから。
それがまだないということは、言ってないことを表す。
俺が簡単にあの人の現状を言えない。言っていいと言われてもきっと言わない。俺は黙っていることを選ぶと思う。
でも、このまま矢田先輩があんな調子だと大会にも影響出るだろうし、部員皆の心配が大きくなるだけ。そんなことを考えたら言った方がいいのかなと思うけれど。
「はあ……」
小さく漏れた溜息は休み時間でざわざわとしている教室の中に消えていく。
俺だってある程度の整理はついたとはいえ、いまだに本当なのかと思ってるところがある。それに「嫌だ」と、まだあの人の泳ぎを見ていたい見たいと思ってる。
俺の手があの人に近づいたと思ったら、あの人は離れていく。どんどん、距離が開いていく。
あの人が届かないところに行ってしまいそうで……怖い。
あの人はきっと吐き出してくれない。自分の苦しみも辛さも、胸の奥にしまい込んで俺たちにバレないようにする。なんでもないように笑うんだ。
あの人がそうするってことを想像出来るのは、多分矢田先輩も同じでそれをわかっているからこそあんな顔になりながら考えていたんだと思う。
そんなことを考えていたら先生が入ってきて、同時にチャイムも鳴りクラスメイトが急ぐ足音が聞こえる。
俺は授業で必要な教科書、ノートを机上に準備して日直の指示を待つ。
「起立、礼」
結局授業なんて頭の中に半分以上も入らなくて、あの人と矢田先輩、それから部活のことを考えてた。でも答えなんて出るはずなく、最終的に俺の中で出るものは“泳いでいてほしい”ということで。
泳ぎだけじゃなくてあの人自身が“人魚姫”みたいだと思った。
***
あっという間に放課後。
俺たちのクラスは終わるのが遅くいつも健太たちを待たせてしまう。早く終わらないかと頬杖をついて先生を見ていると、ふいに教室の扉に目がいって、そこには張りつくようにこちらを見ていた健太の姿。
一瞬、大丈夫かあいつはって思ったけど。健太も俺と同じことを思ってるんだろうなって勝手に解釈して、とりあえず睨まれているのをずっと見ているのは限界がある。しれーっと、先生の方に目線を戻した。
「……以上とする。号令」
「起立、礼」
クラスメイトも疲れてるのか元気のない声で挨拶すると、終わるやいなやそそくさと帰っていく。
先生も長い話をした割にはしれっとした顔で帰っていく。
大会までもう二週間。時間なんてあっという間でつい最近練習を始めたのに、なんて思うくらいだ。早くしないと時間なくなるし、健太があれだったもんなー。
呑気に思っていれば、目の前には健太。と、シンの姿。
どうしたんだよ、と声をかけようとしたらいつもと雰囲気が違う気がして、なんとなく重い空気が漂っていた。
「今日、部活休みだって」
俺と目を合わさずに言った健太が、矢田先輩と重なって見える。
健太も矢田先輩と似ていてわかりやすいし、いつもとの違いがすごくてこっちが心配してしまうほど変わる。
だから、部活が休みなことに対しての暗さじゃないことぐらいよくわかってる。わかってるからこそ、余計に声をかけにくい。
しかも、シンも若干口をへの字にしてなんとも言えない顔をしているから、なんなんだとすごく思う。
二人は今、何を思っているんだろうか。
「どうし――」
「行くぞ」
理由を聞こうとしたら手を掴まれて、そのまま引っ張られるようにして学校の出入口まで連れていかされた。
俺の隣で小走りでついてくるシンが俺が掴み損ねたバックを持ってくれていた。
何も言わない二人。どこに行こうとしているのかもわからない。
下駄箱につくと健太は自分の靴と俺の靴を出して、俺が履き終えたのを見るなりまた歩いた。
視界に矢田先輩が入ってきた段階で、俺が連れてこられた理由とみんなでどこに行こうとしているのかが予想できた。
そういうことか、と冷静に思うことができた。
「……よし、全員揃ったな」
どうやら俺たち三人が最後だったようで、結構な人数にもなる部員が集合していて皆元気のない顔をしていた。
やっぱり矢田先輩はこの選択だと思っていた。
ずっと悩んでいたものが解決してやっと決意が固まったっていう、目をしていた矢田先輩が、矢田先輩の背中がすごく大きく見えてかっこよさが増していた。
こうじゃないと。
矢田先輩の選択に俺は嬉しさを感じる。
共に歩んできたライバルでもある仲間に、黙っていてほしいと言ったあの人に、こうして堂々と会いに行く選択をした。矢田先輩だからこそ出来た選択だと、俺は思うから。
多分、俺があの人のことを知っているのを聞いたんだろうな。二人は。
少しの罪悪感がありながらも、連れてきてくれた二人に感謝する。
「それじゃあ行くか。水野のところに」
バスを乗り継いで数十分で着いた、もう見慣れてしまった病院。中に入ればいろんな人が診察の順番を待っていて、独特な匂いと静かな空間が俺たちを迎え入れる。
矢田先輩が病室の確認をして、俺たちを引き連れて歩いていく。
困惑する人、目を背ける人、葛藤している人、泣いてる人。色んな感情を持った人たちがいた。その中でも矢田先輩と俺は冷静だった。
俺たちは前に現実を実感してしまったから、嘘であってほしいと何度も思ったから、だからこそこんなにも冷静でいられる。
「――開けるぞ」
静かに開かれた扉。前に見たことのある風景で既視感を感じたが、違ったのは開かれていく扉から見えたあの人の表情。
驚きに満ちたと思えば、納得したように笑みを浮かべたあの人を見て、こうなることが大体わかっていたんじゃないかと思った。
ぞろぞろと大人数が入っていく様は異様すぎて、今からなにかの儀式が始まるんじゃないかと思うぐらいだ。
「まさか、皆で来たの?そこまですることないのにー」
「用事とかで、来れてないやつもいるけどな」
「そっか。……来てくれてありがとう」
その言葉だけで、鼻をすする音が多くなり泣いているのを見たあの人は悲しそうに笑っていた。
しばらくの間、誰も口を開かずに静かだったこの場は一気に嗚咽の声と鼻をすする音でいっぱいになっていた。滅多に泣かなさそうな人だって目に涙ためて必死に泣くのを我慢していた。
矢田先輩は後ろ姿しか見えないし、あの人はうつむいてるし、俺はただ皆が泣いている姿と我慢している姿を見ていることしか出来なくて。
こんなに何も出来ない自分が情けなく思ったし、自分じゃどうにもできないことが悔しくて仕方なかった。
こうなるのが、嫌だった。
あの人はそんな思いがあるから、黙っていてほしいと言っていた。皆には楽しんでいてほしいし笑っていてほしいからって。
そんな風に思っていたあの人にとって、この状態はすごく辛いものだと思う。
俺にはどうしようもできない。
「水野」
優しい低い声が聞こえた時、皆が顔を上げた。もちろんあの人も。
「俺は、お前に腹が立つ。俺には報告しないで勝手に休むし、勝手に自分で抱え込んで俺たちの前では笑ってばっかだし…………病気なら早く言えよ。心配かけろよ!迷惑かけろよ!なんでいっつもお前は一人でどっかいくんだよ。ムカつくんだよ、泳ぐの早いしむちゃくちゃ努力するし皆をよく見てるし、勝てるとこ何もねえじゃん」
泣き出した矢田先輩に、驚きながらも小さく「ごめん」と言ったあの人。そんなの気にせずに矢田先輩は感情をぶつけていく。
今まで思ってたこと感じてたこと、全部を水野先輩にぶつけていく。
「俺ら、仲間じゃねえのかよ。勝手に色んなこと決めてんじゃねえよ。全部とは言わねえ……少しでいいから俺たちにも言ってくれよ。…………俺は、認めねえからな。お前を絶対に水泳部から辞めさせてやんねえ」
あの人は急いで矢田先輩に視線を移した。あの人も相当驚いてるんだと思う。自分は泳げないのに、何も出来ることなんてないのに、どうして辞めさせてくれないのかと。
「なんで……」
だから出た言葉だと思う。
「泳げなくても、俺たちを支えることくらい出来んだろ。要するにマネージャーだ、マネージャー。運動部なんだ、マネージャーがいたっておかしくないだろ?水泳部は今絶賛募集中だからな、その点は安心しろ。――水野、泳げないからって辞めようとするなよ。どんなことにも粘り強いお前が、そんなことでいいのかよ」
「…………よく、ない」
「なら、いろ。俺たちはお前にやめてほしいなんて思わない、むしろいてほしいと思う。だから水野。やってくれるか?マネージャー」
「…………いて、いいの」
「おう」
「…………ほんとに、いて、いいの」
「しつけえなあ、いていいっつてんだろ」
あの人の頭をくしゃくしゃに撫でた矢田先輩。
初めての瞬間だったと思う。シーツには点々としたシミが出来ていて、顔を上げたあの人の目と頬から涙がいっぱい流れていた。
笑顔だけを皆に見せて、決して泣かなかったあの人が初めて皆の前で泣いたのだ。
皆それが嬉しいのか自然と笑ってて、
「……マネージャー、やりたい」
消えそうな声で泣きながらそう言ったあの人に皆で抱きついた。
何回も何回も名前を呼ばれ、おしくらまんじゅうのようにぎゅぎゅうに抱きしめられているあの人の隣に、埋もれていく矢田先輩の姿。それが面白くて俺も笑ってしまう。
最初は驚いていたあの人も段々と笑顔を取り戻していって、最後にはいつものあの人の笑顔が弾けていた。
「ありがとう」
そう言って笑ったあの人は、今までで一番輝いていた。
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