15

肩で息をしながら横を向くと水面から頭を出すところで、キャップを外し髪をかきあげて大きく息を吐き出した。



「はあー……、はは、負けちった」



悔しそうに笑って俺を見る。


息を整わせるのに必死で俺が勝ったことに気づくのが遅かった。だから兄から顔を背けたのはわざとではない。ただキャップを外したかっただけで、気まずいからとか嫌だったからとかそんなんじゃない。


俺も髪をかきあげてみた。

するとそれを見ていたのか兄は突然俺の頭をくしゃくしゃにしだして、楽しそうに笑いだした。



「かっこいいなあっ、アキ」



せっかくかきあげた髪がすべて落ちてきて、髪に含まれていた水が顔と背中に伝っていく。ぐちゃぐちゃになったと思ったけど、真っ先に思ったのは久しぶりだということ。


大きな手も、水に濡れて冷えていたとしても感じられる温度も、こうしてくしゃくしゃにされたことも。


こんなに近くに兄貴がいたのだと初めて気づいて、それに対して心臓が痛くて、兄貴は変わらず俺に笑ってくれてたのだと改めて思うとさらに痛みを増させた。


決めていたこと、言おうとしていた言葉が俺の口から出ようとする。でも、声なんて出てなくて微かに唇が動くだけで兄貴に何も言えなかった。



「ごめんな、アキ」



結局、兄貴が先に言ってしまった。



「アキが悩んでること気にしてること、俺が気づくべきはずなのに気づけなかった。それに勘違いして余計にアキを傷つけること、言っちゃったよな」



違うって、言えなかった。


兄貴を見たらここで遮るのは失礼な気がして、兄貴の口から零れていく謝罪をただ聞くしかできなかった。



「頑張ってくれてたんだろ?俺に追いつくために、強くなるために」



俺の今の想いが、あの頃の気持ちが、全部流れ出してくる。俺を覆っていく。


あーあ……これも、決めてたのにな。


やっぱり目頭が熱くなるのはしょうがないことだし、それを我慢しようと口を結ぶけど震えて、こぼれ落ちたものは本当にしょうがないとしか言いようがない。


一滴流れてしまえば、簡単に次が流れて。次から次へと元から濡れて冷えていた頬を、それが通るたび濡らして温かくなっていく。



「ありがとう、アキ。俺を追いかけてくれて、俺のために頑張ってくれて……」



ただ、一言でいいから言われたかった。


頑張ったねって、キツかったねって。誰でもいいから言われたかった。


兄貴のためじゃないから。とか可愛らしくもないことを言って、いつもの自分を出す余裕なんてものは微塵も残ってなかった。暖かい何かに俺は満たされていく感覚になって、でも俺は兄貴の顔を見ることが出来ない。



「頑張ってたよ、アキはちゃんと」



気づくの遅くてごめんなって、眉を下げて言う兄貴に首を振ってあげた。小さく唇を噛み締めながら、兄貴が悪くないと謝らなくていいと、この首を振る行為で精一杯伝えた。


漏れだす嗚咽とぐちゃぐちゃになる視界と顔。ふいてもふいても、水に浸かったままだから当然腕は濡れているわけで、顔が濡れていくのにはかわりなかった。それでもふいてしまうのは小さなプライドで、涙を見せたくないって気持ちからだった。


言わないと。はやく言わないと。


そうやって思うけど、涙が全然止まってくれない。ずっと何かを言おうと口は動かせるけれど嗚咽しかこぼれない。それでも兄貴はじっと待ってくれていて、早くしないと風邪をひくなんてことを思うから気持ちだけが焦る。



「……あ、に……っき」


「うん」


「……ご……っめん、……ごめ、ん……」


「うん、うん」


「ごめ……っ」



やっと言えた、伝えられた言葉に、嗚咽で聞こえにくくなったことが少し悔やまれるけどよかったって安堵した。

ずっと言えなくて自分の中でつっかえてたものがスーッとなくなって、なんだろう……今すごく心地がいい。


ちゃぷ……、と兄貴が動いた音がした。ずっと涙をふく俺の肩に手を置いたと思ったら、そのままぐっと兄貴の方に引き寄せられて離れていた距離がゼロになった。



「わかった、わかったから……もういいよ」



大丈夫だから。

そうつぶやいた兄貴の口調が優しくて、水着を買い換えたことを兄貴にバレた時のことを思い出した。


買い換えたことについて何も聞かないで、ただ俺の水着を見せてとか……本当は聞きたかったはずなのに何か言いたかったはずなのに、そのすべてを飲み込んで俺に接してくれた。いつものように、明るい兄貴だった。


優しすぎるんだ。だから、甘えてしまう。


その優しさに俺はずっと甘えてた。何に対しても……いや、水泳に対して「もういいや」って諦めてたことを兄貴は気づいていたはずなんだ。

でも、それを知らないふりしてた。何も言ってこなかった。


俺は言ってほしかったよ。


甘えてたくせに、自分は傷ついてるって態度してたくせに、実は兄貴に怒られたかった。

「何やってるんだ」って「最後までやらないとダメだろ」って叱ってほしかった。



「俺さ、アキを怒るってこと出来なかったんだよな」



苦笑したのが聞こえて、兄貴は俺に回していた腕を離し体を離した。柔らかな表情を浮かべる兄貴を見て俺は涙が止まっていたことに初めて気づく。


俺が知りたいと思ってたこと、なんでわかるんだろう。



「言ってしまえば勝負は勝負だし、俺が勝とうが負けようが受け入れるのが当然なんだけど。俺が叱って無理やり水泳をやらせるのは、酷だと思った」



そう、勝とうが負けようが勝負は勝負。俺が負けたことで、兄貴が俺のより上だったって事実は変わらない。ただそれだけ。俺はそれを受け入れれなかった。


証明できなかったこととか、わかってくれなかったこと。その二つも泣いた理由や本気を出さなくなった理由にもなるけど、もっと大きなことは負けたことを認めれなかった自分が情けなかったのかもしれない。


だから、兄貴から離れようとして兄貴と俺は違うんだって表したかった。表したところで、違うから負けたことは当たり前だと自分で自分の努力を踏み潰すようなことをするだけ。


俺はここまで頑張ったんだ、じゃあ次はここまで追いつけるようにしよう。

なんて、向上心があれば良かったんたけど。


負けたことが情ない、悔しい、惨めだとそういう風にしか考えられなかった。


今思えば、俺はものすごく弱い人間だったんだなとわかる。



「だから、アキを見てるだけで行動とか態度に出せなかった。……一番は、アキが悩んでいることに気づけなかった俺が言えないってのがあったけどね」



兄貴に相談してなかったんだから、しょうがない。気づかなかったことに悔しくなったりしなくていいのに、兄貴は本当に優しすぎる。



「――水野の泳ぎを見せたのは、ちょっとでもアキの稼働力っていうのかな。そんなものになってくれればってのがあったんだ」



兄貴が嬉しそうに話しだす。



「ほんと嬉しかったんだよ。アキが高校で水泳続けるっていうのが……春休みに練習行ってるのだって、知った時、嬉しさで抱きしめてやりたかったぐらいだよ。多分、引かれるだろうから我慢したけど」



多分じゃなくて、きっと俺は引くだろう。我慢してくれてよかったと思った。


確かに嬉しそうにしてたのは気づいてた。兄貴はすぐに顔に出やすいから、誰だってわかると思う。あの時の笑顔ったら、俺までつられて笑いそうになるくらいぱあっとしたものだった。


なんで嬉しかったのかは今知ったけど。


こんなにも考えてくれてたんだなと思うと、正直嬉しくなる。



「水野には感謝だな!」



それは同じ意見だ。


あの人がいなければ、過去に向き合うなんてなかったかもしれないし水泳をやることが嫌なままだったかもしれない。

あの人がいたから、俺は変われた。こうして兄貴と面と向かって話せるようになった。仲直り、出来るようになった。


あの人がいなければ俺は、初めての感情に出会うことが出来た。


叶うかは別として。


……でも、俺は望んでないかも。あの人ともう一つ先の関係になることを、特別になりたいってことを。

ただ、側にいれればいいかなって。



「アキ、頑張れよ」



水泳を頑張れ、とは違うニュアンス。兄貴の言い方は妙にふざけた言い方だった。そう聞こえただけかもしれないけど。


顔を見てみると、にまにまとした気持ちの悪い顔になっていて自然と眉間にしわがよった。



「…………うざ」


「ちょっ、それはひどいって!」


「正直に言っただけ」


「俺はひどく傷ついたよ」



傷ついたと言う兄貴に、俺は笑ってやる。



「いいんだ」



俺はこの想いを伝えるつもりはないし、先輩と後輩の関係を変えたいなんて思ってない。


笑っててほしい。


あの人には笑っててほしい。でも辛い時は辛いって、悲しい時は悲しいって、泣きた時は泣いてほしい。それが叶えば十分だ。


まず、兄貴とあの人が想いが通じあってるんだから俺がそこに入る隙間なんてあるわけがない。



「俺は、このままでいいから」



きっと兄貴ならわかってくれるだろ、俺の気持ち考えてること。


兄貴が頑張らないとどうするんだよ。



「勘違いしてるぞ」


「……は?」


「アキが思ってること間違ってる。ものすごーく違ってる」


「…………?」


「俺は水野をそういう対象で見てないし、水野だって……っ」



兄貴は言いにくそうに口を閉ざして、もごもごとし始めた。言いたいけど言えないみたいな、兄貴の中ではすごい葛藤があるんだろう。兄貴の方がもどかしそうにしている。


その表情が面白かったし、俺はそれが嘘だとしても何も思わない。


あの人が笑ってくれれば、それでいい。



「とにかく、違うから」



肩を掴み、俺になんとか納得させようとする兄貴が面白くて、若干の笑みを浮かべながら「うん」とだけ答えておいた。


ああ、でもこれであの人に胸を張って言える。あの人と会える。


だって、これはもう仲直り出来たってことでいいに決まってるよな。


本当にあの人には感謝しないといけない。こうして兄貴と話せてるのもあの人が背中を押してくれたからで、こうして笑っていれるのもあの人の存在があったからこそ。


俺にとってあの人は光だ。

迷っていた俺の足元を照らしてくれて、行くことを戸惑っていた道に進ませてくれた。


でも、今ならわかる。あの人だけではないってことが。


兄貴もそうだし、何も言わないでくれた両親、支えてくれた矢田先輩、俺を部活に引き連れてくれた健太とシン、暖かく迎えてくれた部員の皆。たくさんの人の存在があったから俺はこの場に立ててる。変わることが出来た。向き合うことが出来た。


俺は幸せ者だと思う。


本当に感謝でいっぱいだ。



「……



俺が避けていた言葉も、つっかえることなくこうして口に出せている。



「兄ちゃん、ありがとう」



たくさんのありがとうと。



「それから、ごめん」



たくさんのごめんを。


俺の中で黒いモヤとして残っていたものが今、全部消えた。これで本当の仲直りができたんだと思うんだ。


兄貴の泣きそうな顔を見て、俺は笑みをこぼす。

今まで一度も見たことのない兄貴の涙に、なぜか感動を覚えながら俺はもう一度言う。



「兄ちゃん、仲直りしよう」



俺の目からも涙がこぼれた。

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