14

プールにはられた水を見ると、昔を思い出す。


正確には大好きだったものが嫌いになった日のこと、自分は弱いんだと心底思った日のこと、兄を少しだけ恨んで嫌いになった日のことを鮮明にとはいかないけど、目をつぶってこの匂いと水着の締め付け感に意識を持っていけば簡単に思い出された。


今ものすごくその記憶を思い出しているのは、きっとこの場所、俺の立っているところがその日と同じだからだろう。


ここに来たのは春休みに練習しに来た以来だ。あの時は思い出そうとしないように無理やり閉じ込めてたし、あの人の泳ぎを見たから平気だったのだと思う。行く前は嫌だと思う時もあったけれど。


でも、今は違う。どうしてだろう懐かしいと思う。


あの日は本当に……、あの日は嫌だ……、あの日はもう……。本当ならそんなことを思っているはずなのに、どうして俺は懐かしいとこんなにも思うのだろうか。

あんなことがあった……、あんな気持ちになった……、あの時は……。小さな変化かもしれない。けれど、確実に考え方が思い方が、過去のことを振り返るよう思い出されるようになって。思い出すと全然嫌にならないとか胸が痛まないとか言えば嘘になってしまうけど、今の俺は少し前の俺より強くなってる気がする。


あんまり嫌にならないし、胸も痛くならない。


だから、今日は思いっきり泳げる気がする。昔の気持ちも今の気持ちも全部抱きながら、不安だったけど何でだろう、今ものすごくスッキリしてていつも以上にうまく泳げる気がする。


少し遅れて兄が隣にやってきた。変わらない水着と久しぶりに見た兄の水着姿。大学でも水泳を続けているからなのか、自主練をしているからなのかわからないけど、体つきが前よりしっかりしてる。


体の大きさの差を初めて知った。

水着を着ていない時でも体の大きさが違うことぐらいわかってた。でも、水着姿だとはっきりどこが違うのかとまるで見せつけられてるみたいで、それはやっぱり俺が上を目指していなかったから明らかな違いが出たんだと思う。



「二人で来るのは久々だな」


「……うん」


「手加減しないよ」


「うん」



話があるとメールしてからすぐに返事が来た。


“勝負しようか”


俺が何を言うのかわかってたみたいに送られてきたメッセージに、兄が近くにいたのかとある意味での不安と心配を感じたが、よくよく考えてみれば兄はそうゆう人だった。


たまに俺の心が透けて見えるんじゃないかと思うくらい、全くその通りの言葉を言われることがあった。


兄だからなのだろうか。



「アキが言っていいよ」



無言で返して、スタート台に立つ。泳ぎ方は自由で一往復して早くついた方の勝ちとなっている。


静かな空間に何かの音が反響するのが耳によく届く。嗅ぎ慣れたはずのプール独特の匂いが今は、初めて嗅いだかのような感覚になっていて新鮮な気持ちだ。



「よーい……スタート」



あの時と同じ、まったく一緒のタイミングで水に飛び込んだ。


兄の泳ぎを見ながら泳いでるわけではないけど、手加減してない兄の真剣さが泳ぎながら伝わってきて、それが俺の闘争心を掻き立てた。


兄の泳ぎが好きだった。


まるで魚が泳いでるように見えて、普通に尊敬していたのが一気に高まって「兄はすごい人なんだ」と小さいながらに思った。だから俺は憧れの兄のようになりたくて、少しでも近づきたくて水泳を始めた。


いつしか俺は“天才”と呼ばれるようになった。確かに自分でもタイムの伸びの良さには気づいていたし、他の人より早く泳げる自信はあった。

――どこかで余裕ぶってた。今の俺なら兄に近いんじゃないかって、勝てるんじゃないかって、自惚れてたんだ。


でも“天才”だと呼ばれることが嫌になった。

それは同級生の部員に言われたある一言が原因だった。


『“天才”はいいよなー。努力しないで上手くなれるんだから』


そんなことないって言ってやりたかった。俺だってちゃんと努力してるんだって。

その時の俺は反抗する気力さえ残ってなかった。俺の中でパリッと何かが壊れる音がして、その破片が痛くて唇を噛み締めて耐えることしか出来なかった。


だから、兄に「アキは成長が早いから大丈夫だよ」そう言われた時少しだけ痛くなった胸を俺は誤魔化した。


あの日負けて、兄に追いつかれそうだったと言われて、脳裏によぎったのは

兄は“天才”だと言ったわけじゃない。けれどそう言われているように聞こえて、兄だけは言わないって決めつけていただけなのに裏切られた気がした。


努力してたんだって証明になればいいとどこかで思ってたんだ。結局ならなかったけど。


俺が弱かったとわかってる。でも、それを飲み込む心の器は持ってなくてオーバーしてしまった容量分が器から溢れて、兄と気まづくなってしまった。


勝てないことへの苛立ち。“天才”じゃないことを証明できなかった悔しさ。兄を羨ましく思った嫉妬心。すべてが混ざってごちゃごちゃになりもうわけがわからなくなった。



「……いちゃん……おにいちゃん」



いつの間にか現れた昔の自分。

小さくて、今にも壊れてしまいそうな容姿に驚いた。幼さが残る顔は歪んでいて頬には涙が流れていた。



「おれ、続けれる自信ないよ。どうやったら強くなれるの、お兄ちゃんに追いつけれるの。もう、水泳やりたくないよ」



うずくまる自分に俺は手を伸ばして抱きしめる。優しく優しく壊れてしまわないように。



「……俺の光になってくれた人がいたんだ。強くて泳ぎもうまくて、でもちょっとうるさくて」



無意識なのか知らないけど、あの人の言葉に泳ぎに心を救われたんだ。あの人がいなければこうやって兄と泳ごうなんて思わなかったし、そもそも水泳を続けようなんて思ってなかったかもしれない。続けたとしても本気になれなかった。楽しんでやれなかった。



「大丈夫。きっと変われるから。だって……俺は今すごく楽しいし、水泳が好きだから」



ほんとなのかと小さな声で聞かれた。それに対して頷くと納得したように声を漏らして、声色から嬉しそうなことがわかった。

突然俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。自分の後ろには眩しいくらいの光があって、そこに立っていたのは見覚えのある人物――兄の姿があった。


後ろを振り返って少し躊躇ったけど、立ち上がり兄の元へ駆けて行った。



「ありがとう、おにいちゃん」



無邪気な笑顔を俺に向ける。それを見た時自然と笑みがこぼれたのと同時に涙が頬を流れた。


あれは幻想だとしても嬉しかった。兄と仲良く帰って行ってくれたことが、兄と笑いあってくれてたことがとても安心した。


俺はもう大丈夫だから、一人で歩ける力を持ってるからこれからは前を向いて歩いて行ける。

俺の後ろには沢山の人がいる。

家族や友人、先輩たち、部員のみんな。この人たちの存在があったから今俺は立ててるし歩ける。それがすごく素晴らしいことだと気づけた。俺は誰かのおかげで成り立ってるんだ。


伸ばした手が終わりの壁に触れた時、ずっと着ていなかった水着を今なら着れる気がした。

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