13
久しぶりに感じる病院の匂い。あまり日にちは経っていないと思うけれど、そう思うのなら結構経っているのだろう。あの人はきっと久しぶりと言うだろうな。
入院している人と俺たちとでは日にちの感覚が違うから、俺たちが短い期間だと感じるのを入院している人は長い期間だと感じる。
実際に入院したことはないからよくわからないけれど、それでも想像は出来る。
病院内ではすることは限られてるし、訪問者もしょっちゅう来れるほど忙しくないわけではない。
起きて、食べて、排出して、可能なら入浴して、食べて、排出して、寝る。順番は人それぞれだろうけど、それでもほとんどの過ごし方は同じことの繰り返しなんじゃないかと思う。
俺たちも繰り返しと言えば繰り返しだけど、何かをしようとすれば出来るし、行きたいところにも行ける。
それが制御されているとしたら相当ストレスは溜まるし、何も出来ない自分が嫌になる。
あの人は今、その状態に陥っているのだろうか。大好きな水泳が出来ないことがはがゆく感じているのだろうか。
――いや、あの人はずっと出来ないんだ。
「……はあー」
深く息を吐き出し、ドアにつけられた取っ手を横にスライドさせる。静かに開いていくドアの隙間からはあの人の顔が見えて、あの人の唇が弧を描いていくのが見えた。
中に入って矢田先輩は買ってきたお見舞いのものをその辺において話し始めた。やっぱり顔つきは重いものへと変わっていて、いつもの矢田先輩からは考えられないほど暗い表情だということが、見ているだけでわかるぐらいだった。
「本当なんだな」
「信じてなかったの?」
「……いや、現実味がなかったってだけ」
矢田先輩は色んなことを聞いてた。俺が聞けなかったことをさらりと聞いて、あの人も言いにくそうにするのかと思えばさらりと答えて。
俺は二人から距離をとったまま、会話を盗み聞きするように立っていた。
どんな病気なのか、その病気の進行状況、いつからなのか、治るのか、そんなことを聞いていた。最後の質問はさすがにあの人も悲しげにしたけど、はっきりと「治らない」そう言った。
矢田先輩も聞きにくそうに言ってたから薄々気づいてたんだと思う。あるいは調べていたのかもしれない。あの人からメールをもらった時、きっと病名を教えてもらっていたと思うから。だから、あの人の返答を聞いてもすごく驚かなかったんだ。
……ただ、見開かれた目からは大会に出れないこと、泳げないこと、それに対しての動揺なのか悲しみなのかわからないけれど、そんなぐちゃぐちゃな感情が読み取れた。
沈黙が続いて、矢田先輩は顔を伏せてしまってあの人は眉を下げて薄く笑っていた。
そしてなぜか俺に声がかけられた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「……それなりに」
「もー、寂しかったんだよー?弟くんが来るの楽しみに待ってたのにまったく来ないし」
まさか待たれているなんてこちらはわからないわけだから、あの人がそんなこと思ってるのかさえもわかるはずがない。
口を尖らせる水野先輩は、冗談を言っているように思える。
「たまには、来てよ」
そうやっていきなり声色を変えて言うもんだから、俺はどうやって反応していいのかもわからないし。「ね?」と言われたら頷くしかないだろう。頷かない理由なんてないけど。
でも、あの人に必要にされてる気がしてすごく胸の奥がじんわり暖かくなっていくのを感じた。
「……俺は」
うつむいたまま、太ももの上で作られた拳が服も巻き込んでどんどんと力が込められていく。
「みんなに黙ってるなんて、出来ねえ」
悪い。帰るわ。
そう言って立ち上がり、荷物を持って帰っていく矢田先輩。あの人も俺もどうやって声をかけていいのかわからなくて、ただ矢田先輩がここから出ていく後ろ姿を見ることしか出来なくて。静かに閉まるはずのドアを音が大きく聞こえた気がした。
残された俺は、この暗い雰囲気を変えることなんで出来やしないからずっと立っているだけで、あの人にも喋りかけなかった。
なんて声をかければ正解なのか、そんなことを考えている時点で俺は喋らない方がいい。
「あーあ、怒らせちゃった」
「……」
「そりゃ、黙ってるなんて出来ないよね。……私も出来ないもん」
「……」
「弟くん、私どうすればよかったのかな」
初めて見た水野先輩の弱々しいところ。
今にも泣きそうな顔で、でも泣かないように堪える口元は固く結ばれている。
抱きしめたくなった。
大丈夫だとなんの確証もないけど言って、あの人の涙を止めてやりたかった。そんなことで止まるはずないのに、あの人が余計に悲しむだけなのに、そんなことしか思いつかなくて。
必死にその衝動を堪えてた。
「私ね、ただ笑っててほしかっただけなの。何も知らずに楽しく水泳やっててほしくて、いつかバレる時が来るけどその時は骨折とかなんとか言って誤魔化そうとしてた。……それは間違ってたのかな」
あの人の目から涙がこぼれるのを見た。
見せないようにしてるのか少し下を向いていたけれど、俺からは泣いているのがバレバレで、こぼれていくそれはシーツにシミを作っていく。
もう、ダメだと思う。
我慢という名の容器に溜まりに溜まったものは、溢れる手前のギリギリを保っていてあと一滴でも落ちれば俺は、手を伸ばしてしまいそうだった。
――いや、もう手を伸ばしていた。
「……私、は」
抱きしめた時、あまりの小ささに驚いた。今まであの人の背中は大きすぎて俺は追いつくのに必死で、俺じゃ抱えきれなさそうなものをたくさん背負ってる感じがして、遠い存在だと大きな存在だと勝手に決めつけていた。
こんなにも水野先輩は小さくて、本当は大人びてる人じゃなかった。
言いかけた言葉は嗚咽となって、俺に抱きしめられて数秒は固まっていたけれどすぐに大きな声で泣き始めた。
肩に冷たさを感じながら、俺はずっと抱きしめていた。あの人を体を心を、壊れそうだけど強く強く抱きしめていた。
「泳ぎたいよ……っ、まだやめたくないっ」
嗚咽で聞き取りづらいはずの言葉も、俺の耳にははっきり聞こえて胸が締めつけられる。
あの人の本音は痛いほどわかる。わかるけどそれをどうかしてやれるほど俺は強くない。何かを持っているわけでもない。
それでも。あの人が本音を吐き出せる存在でありたい。
「まだ……まだ………っ」
言葉を発することも難しくなっていた。それほどあの人は泣いていて、いつもの間にか背中に回されていた手は俺のシャツを強く握っていて、まるでしがみつくような感じになっていた。
俺は泣いたらダメだと思った。
だからあの人につられて出そうになった涙も、全部、歯を食いしばって堪えたし、大丈夫だと言ってしまいそうだったこの気持ちを押さえ込んだ。
何が大丈夫だ。何も、大丈夫じゃない。
無責任な言葉を言いたくなかった、けど。やっぱり何かを言いたくなる俺の口は、とうとう言葉を出してしまった。
「……俺も、先輩と同じことしてたよ。同じ立場だったら、そうしてた」
あの人が聞いている聞いていない関係なく、それだけは伝えたくて。伝えた後はあの人が泣くのをずっと受け止めていた。
ずっと、迷っていたのかな。
あの人は一人でこの選択は正しいのか、本当は言った方がいいのか、そんなことを考えていたんだろうか。たとえ自分が楽しくやっててほしいと願って言わない選択をしても、相手はどう感じるのだろうか。とか。
ここの空気は冷たい。あたたかいはずなのに冷たくて、自分はひとりなのだと教えられてるみたいだ。
思った以上にここにいることは、寂しい。嫌でも色んなことを考えるし、それを紛らわそうとすることが出来ない。探せばあるかもしれないけれど、本当にしたいことが出来ないってことが思い出されそうで怖くなる。
手術の日が近づいてくる。大会の日が近づいてくる。
俺たちは俺たちで不安を抱えて、慣れてしまったあの人の明るさが今はないことに違和感を覚えつつ、大会に向けて練習する。
あの人はあの人で大きな不安と希望を抱えてる。失敗したらどうしようとか、成功してこの病気が治ってしまえばいいのにとか。俺たちには想像出来ない思いを内に秘めて、笑顔でいるんだろう。
兄と仲直りしろとあの人は言った。もう時間はないから俺は覚悟を決めたんだ、兄と仲直りしようと。
勝てる自信なんてないけれど、上手く自分の気持ちを言える自身もないけれど、それでも今の俺なら出来るって思うから。
俺の光になってくれたあの人。
今度は俺があの人の光になりたい。
兄じゃなくて俺を見てほしい。少しだけでいいから頭の片隅でいいから、俺の存在を置いておいてほしいんです。もっと我儘を言えば、俺のそばにいてほしい。笑った顔以外の顔を俺が一番先に見たい。
そんなことは言えっこないから、言わない。
いつか言うってこともしない。
この気持ちは俺の中だけで閉じ込めておくんだ。
いつの間にかあたりも暗くなっていて、あの人の握る手が弱くなっていた。俺の腕に重みが増したと気づいた時、大体想像はできたからゆっくり支えながらあの人を自分の体から離す。
規則正しい寝息と閉じられた瞼。頬には涙の痕が残っていて、それを俺は優しく拭いた。
寝かせつつ自分の腕を抜き、矢田先輩が座っていた椅子に腰掛ける。
結局俺は、あの人が泳ぎに行くことを言わなかった。なぜか言おうと思わなかった。本当なら言うべきことだと思うし、たとえあの人が言わないでと言っているとしても最初の頃は言っていたかもしれない。……いや、それでも言わなかったかな。
どうしてそんな選択をしたのかも理解してないし、抱きしめた自分に今更ながら恥ずかしくなってきて顔が少し熱くなる。
あの人の寝顔にいつもは感じない幼さを感じて、自然と笑みがこぼれた。
そしておもむろに携帯を取り出して、「萩野ナツ」をタップする。すると件名にアドレスが表示されて、それを確認してから本文の欄をタップした。
携帯は見つかれば看護師さんたちから怒られるんだろうけど、今はそんな心配はしていなかった。
なんの迷いもなく打っていく俺の親指。短い文だったからすぐに終わって送信を押そうとした時、少しだけ躊躇ったけど自分に大丈夫だと言い聞かせて押した。
“話があるんだけど。”
そう打った文は、今頃兄に届いているだろうか。
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