11
あの人から小さな包丁と皿を借りて林檎を剥いていく。ちょうど見舞いに来てくれた家族が置いていっていたものだったと言っていた。
男がシュルシュルと林檎の皮を剥くのがそんなに珍しかったのか、驚いたのか、俺の手元をじっと見つめている。少なからずともその目線が気になるのはしかたないことだろう。
「慣れてるんだね」
「……手伝ってたので」
感心したように言う、病気なんて嘘なんじゃないかと思うほど普段通りの目の前の人に、食べやすいように切り分けた林檎を皿に乗せ手渡す。それをあの人は取ろうとせず、少しだけ悲しく笑って台に置いてほしいと頼まれた。
不思議には思ったけど、食べる気になってないからなのかと思って置くと一つ手で持って食べていた。
「うん、美味しい。やっぱりリンゴは美味しいね」
弟くんも食べなよ。
お言葉に甘えて一つ食べてみると、シャクッといい音が鳴って歯ごたえのある美味しい林檎だった。そういえば、久しぶりに林檎を食べた気がする。
最後の一口を口に含むと同時に、あの人は部活のことを聞いてきた。連絡もなしでずっと休んでいることを少しは悪いと思っているんだろう。遠慮気味に聞いてきたから。
「やっぱり、矢田は怒ってるよねー。皆にも心配かけてるだろうし」
「……あんな矢田先輩初めて見ました」
「え、そんなに?」
「……怒りオーラ凄いですよ」
あからさまに嫌そうな顔とあちゃーっていう顔をした後、「しょうがない」と呟いた。
そうやって言う気持ちもそうやって思う気持ちも、考えなくても事情を知っている俺はわかる。あの人は部長っていう立場もあるし、そこからくる信頼もある。そういうのから心配かけたくないとか不安にさせたくないとかあると思う。
でも部活の雰囲気を知ってる俺からすれば、少し休むとか言った方がいいんじゃないかって思う。それだけで矢田先輩は「わかった」なんて言わないだろうけど、それでも。一言何かあれば少しは軽減されたんじゃないか。
……なんて、先輩の気持ちも少しはわかってるから言えるわけないけど。俺が言ったって聞く耳持たないかもだし、多分悲しそうに笑うと思ったから。口が裂けても言わない。
「ごめんね、迷惑かけて」
ほら、やっぱり。申し訳なさそうに眉を下げて笑った。
「落ち着いてから自分で言いたいんだ。だからそれまで言わないでほしいの、弟くん」
「……わかりました」
「ごめんね」
そう言ってまた笑った。その表情にはいつもの明るいあの人はいなくて、ただ悲しそうで、オレンジ色に染まり始めた空からの光によって儚さがプラスされている。
嫌な予感がした。胸をさあっと一度だけ黒い物が通り過ぎて行く感覚が、妙なタイミングで来たものだから驚きとともに鳥肌が立った。ゾワッとした感覚を感じながらあの人が林檎を持って食べる映像がリピートされる。
――水野先輩の病気って、治るよな。
特にどこかを痛そうにしてるわけでもなく、点滴をしてるわけでもない。何も無い人が病室にいるみたいに見える。
症状だって、俺が見えない所で出てたのかもしれないけど重いものだったら俺がいても出るだろ?
「…………治りますよね」
気づけばそう口にしていて、恐怖心が俺を襲った。何も言えてないのに、貴女に何も教えて貰ってないのに、まだ泳いでいるところを見ていたいのに、貴女の笑顔が見たいのに――。
失ってしまうのか?このまま俺の、伝えなくて貴女は目の前からいなくなるのですか。
「……部活、戻ってきますよね」
俺も大概、泣きそうな顔をしていると思う。例えば、目の前のあの人が悲しそうにするみたいに目尻に涙を溜めて泣かないようにするみたいに、同じ顔を。
俺は情けなく思った。自分自身に、あの人の為に何かしてあげれることを見つけられないことに、歯痒さを覚えた。
「ごめんね」
直感で、その言葉が意味することを理解した。嫌でも理解してしまうだろう言葉を、あの人は言ったのだから。その表情で、いつもより暗い声色で言ったのだから、間違いはない。
目の前が真っ暗になった。
病気を治す魔法なんて俺は持ってないし、術なんて知らない。俺には何も出来ることはない。
「……脊髄空洞症」
何やら聞いた覚えのある言葉を呟いた。ああ、そうだ。それは兄が言っていたあの人の病名。
医療関係とはほとんど無関係で興味を示していなかったから、聞いてもピンとこなかった病名で何となく調べなかった。
調べていれば、何か変わったかな。
「まだ初期段階らしいんだけど、それでも進んでるらしくて。ちょっと前から症状はあったんだ。初期の症状らしいんだけど、手の痛みと感覚の麻痺。最初は驚いたけど一時的なものだーってほっといたらさ、どんどん酷くなっていって病院行ったら……って感じで今に至る、かな」
だから、あの時泳ぎ終えた後すぐに上がってこなくて、上がってきたと思ったら手の平を見てたのも。今日、俺が皿を渡しても受け取らなかったのもそれが理由だったんだ。
あの人はその後何とか俺に説明しようとしたが難しいようで、自分も十分にわかっていないようだった。名前から察するに骨とかが空洞化するんじゃないかって言ってたけど……まあいいや。
「手術しても完璧には治らないの。ただ進行を遅らせるってことだけで、元には戻らないんだ」
だから「ごめんね」。元には戻らないことを知っていたから、俺の質問に対してもいい反応をくれなかったんだ。戻らないって……水泳出来なくなるってことなのか。
嘘だと思いたかった。それになんで今なんだとも思った。三年生にとっては最後の大会が目の前に迫っているというのに、一番練習に打ち込んで勝とうとしてた人があっさりと出れなくなりました、なんて。
『人魚姫』そう呼ばれてた憧れたあの人の泳ぎはもう見れない。始まる前に笑ってた顔も泳いでる時に笑ってた顔も……あの誰にでも好かれる笑顔はもう見れないのだろうか。部活を出来なくなったとしても貴女は笑っていられるんですか。
そんなのどうせ、偽りの笑顔になるんでしょ。
「手術前に泳ぎに行くから」
「……え?」
「先生に無理言ってみたの。最後に泳ぎたいって。日にち決まったら弟くんに教えるから来てね」
「…………はい」
今日見た笑顔の中で一番嬉しそうで、あの人らしいものだった。
なんで俺なんだろう。そりゃ事情を知ってる人は限られてるし、その中で水泳に誘う人なんてもっと限られてる。
――兄じゃなく俺に言った。そこが謎だった。
最初にあの人が病気で入院することを言ったのも秘密にしてほしいと言ったのも、兄だ。それなのにどうして水泳のことに関しては俺に言うのだろう。……いや、兄には後で言うのかもしれない。
「私が手術するまでには、お兄さんと仲直りしなよ」
どうしてそれを……そう言おうとあの人の顔を見た時病室の扉が開いた音がした。そこから入ってきたのは兄で、俺がここにいることに驚いていた。
「アキも来てたのか」
「……うん」
「数日ぶり、水野。元気か?」
「元気ですよ」
そう言って笑う。本当によく笑う先輩だ。笑わない日なんてないんじゃないかって思うほど、俺が見る限りのほとんどの時間は笑っている。
でも今の笑顔は俺に見せる顔じゃなくて、照れくさそうにはにかむように笑っててあの人の気持ちがただ漏れみたいな感じで、この場にいるのが嫌になってしまった。もう見たくない、貴女のその顔は。胸が痛い。
顔を背けて、二人の会話も顔もシャットアウトして一人の空間に浸ろうとした。
「俺これから部活あって、もう行かなきゃだわ」
「寄ってくれただけでも嬉しかったです」
「じゃ、また。アキもな」
急ぐような足取りで去っていった兄。また二人の空間になってしまう。でも、何となく気まづくて顔はあげられないまま。あの人はきっと変に思うだろう。
それでも顔なんてあげれなかった。きっと今の俺は見せられるものじゃないから。
黒い感情が俺の中に広がっていく感覚がよくわかる。勝てないことへの劣等感としょうもない嫉妬からくるものだと嫌でも気づいている。だから嫌なんだ。兄の顔を見ると思い出してしまうんだ、あの頃の気持ちとか今の気持ちとかごちゃ混ぜになって自分が嫌になる。
俺はどうやっても兄には勝てないのだと、思うんだ。
「先輩が嫌い?」
そんなことはないです、なんて言う気力さえ湧いてこない。嫌いなわけではない。好きとかじゃなくて尊敬はしている。家族の兄として一人の水泳選手として、俺は兄を尊敬している。
けどやっぱり兄弟でこんなにも違うことを思い知らされると誰だって嫌になるだろ。そういうものなのだと受け入れることが出来ればいいんだけど。俺の中で消えてくれないものはあって、それが邪魔をする。
「いいんじゃないかな」
「…………何がですか」
「勝たなくても、そのままの弟くんでいいんじゃないかな」
「……」
「勝つことにこだわってたら、水泳なんて楽しくないよ」
勝つことの為だけに泳いでるとかははっきりとは言えない。だけど、少しでもそういう所があるからあの人の言葉には否定出来なかった。
「私、弟くんの泳ぎ好きなんだ。私とは違って綺麗な飛び込みだし、そこからの体の動かし方手のかき方、全部が繊細で必要な所だけ力がうまく入ってる。でも楽しくなさそうなの。あんなに綺麗な泳ぎができるのにもったいないよ」
「……そんなこと、ないです。綺麗なんかじゃ」
「私が綺麗って言ったら綺麗なの。……どうせなら楽しいって思ってほしいから、だから早く仲直りしてほしいな。きっと先輩も仲直りしたがってる 」
あの人に褒められることは嬉しいことだったけど、楽しむ方法がわからなくなってしまったやつが兄と仲直り(?)したところで変わるのだろうか。
俺はもう、変われる自信がない。
水野先輩みたいにキラキラした目が出来なくなってしまったんだ。忘れてしまったんだ。水の透明さもあの頃の楽しく思っていた感情も闘争心も全て薄れていって、泳ぐ度に感じる体の重み、劣等感。それらが重なって今の俺が完成した。
何もかもがわからなくなってしまった人間へと変わったのだ。
それがあの人のおかげで変われていた気がしたんだ。ああなりたいって憧れて、あの人の泳ぎを見る度心を奪われて、締め付けられる胸に俺は確実に光を取り戻しつつあった。
貴女は俺にとって光になったんだ。暗く周りの見えない水の奥底に沈んでいた俺を、貴女の光が差し込んで明るくしてくれたんだ。
でもその時に抱いた気持ちは叶うはずなくて、兄の知り合いだと知った時負けを悟っていた。
兄と喧嘩した次の日、出来れば謝りたかった。こんなにもずるずると引きずっていくなんて思わないし、次の日にはちゃんと話せるもんだと簡単に考えてた。
その予想は見事に外れて俺の変な意地が出てきて素直に謝れなくて、水着を買って、それでも兄貴は優しかった。普段通りに接してくれた。でも、どこか遠慮させてる部分と慎重にしてる部分が伝わってくる。
俺、このままは嫌だ。そう初めて思った。
今までこんなこと思わないようにしてたし、少しこのままでいいんじゃないかって考えてた。
変わったんだ。水野先輩に会って泳ぎを見て知らない感情を知って、自分の弱さと過去の自分の出来事をまだ引きずってることに気づいて、変わろうとしてなかった俺を貴女が――変えたんです。
自分の中での決意が固まり、さよならをしたくなった。一言謝れれば、それでいい。例え許されなくても、がっかりするかもだけど今までの「ごめん」を言えたらそれは、俺の一歩になるから。
あの人は俺の顔を見て、満足したような笑みを見せる。
「頑張れ」
その一言で俺は勇気をもらった。
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