言っていた通り放課後、俺の教室の前で二人は待っていて逃げられないように手首を握られそのまま連行された。シンはそれを止めることなく笑って俺の隣を歩いていた。


……水着持ってきといてよかった。


持ってきてなくて今この状況だったら、自分のを貸してでも俺にさせそうな勢いだ。それに来ないって決めてたら俺は逃げたままで終わっていたかもしれない。


一度逃げてしまえば、俺はきっとその次も逃げる。それで水泳から離れていくんだと思う。


二人には感謝してる。

いくつかの偶然が重なって、俺の足は水泳部の練習場所へと向かっているんだから。その偶然が一つでも欠けていたら俺はここを歩いていないかもしれない。こうして健太に手を引かれることもなかったかもしれない。



「こんにちはー」


「おう、こんにち……は……」



明るく振り向いたと思ったら目を見開いて、健太の後ろから出てきた俺に目線が向いた。当然俺は矢田先輩の顔を見るのには勇気がいるから、チラリ一瞬見ただけで逸らしたけど聞こえるか聞こえないかのボリュームで挨拶をする。



「……ちわっす」



矢田先輩が沈黙したと思ったら口元が微妙に動いて、何をつぶやいたのかと思えば振り向いてあの人を呼んだ。それが皆の注目を集める材料になり、あの人をなんで呼んだのかとこっちにも意識が集中し出す。


何この状況、帰りたいんだけど。


一、二歩後ろに後ずさるとまだ握られていた手首に力が入り、後ろにはシンが立っていた。俺は逃げられないと悟る。



「弟くん……?」



そう聞かれた時は、俺以外誰がいるんだとか失礼なことを考えたけど矢田先輩が驚く意味とあの人が聞く意味を理解したら、ああなるほどって痛いほどわかった。


俺が来る可能性が低いって思ってたから、そんな反応してたんだ。そんなこと思わせる態度をとったから仕方ないことだけど、心配させたことや入部してすぐにこんなことになったとこに申し訳なさを覚える。


私情を持ち込むべきではないところに持ち込んでしまった。


それは俺が子供だからだ。



「…………すいません」



隠れるのをやめて健太の横に立ち頭を下げる。


健太は俺から手を離して、きっと笑ってたと思う。



「もーほんと心配したんだよ」


「水野なんて大変だったんだからな?放送かけた方がいいかなって言い出して……」


「矢田だって賛成してたじゃん!」


「おまっ、それを言うなっての」



危ない。健太たちが話しかけてくれなかったら、体験入部の時にされそうになったことを今日されるところだった。入部してないならまだしも入部してるのに呼ばれるなんて、比べ物にならないくらい恥ずかしいに決まってる。


しかも、俺達のことなんて気にしてないのか小さな言い争いを始めたと思ったら、俺達にどっちが悪いかとか一番心配してたとかジャッジを求めてきて、健太は笑ってたし俺は呆然と二人のやり取りと見ていたから最後にシンが放った言葉で静かになった。



「どっちもどっちなんじゃないですか?」



笑顔で言ったシンに、堂々としかも迷うことなくよく言えたなと俺は思った。


その言葉に対して周りの人達からも「すごい」の言葉が漏れていて、今まで言い争いとか起こっても誰も言おうって人がいなかったからほっておいたんだなって気づいた。


本気で言い争ってるわけでもないだろうし、原因はちょっとしたこと(俺の目の前で起こったことはちょっとしたことが原因じゃないとは思うけれど)だ。「また始まった」っていう感覚なんだろうな。



「まあでも、無事部活には来てくれたからほっとしたよ」


「だな。何か悩みあるんだったら遠慮なく言えよ、相談乗るから」


「…………っす」



ひとまず、一件落着ってことで落ち着きあの人と矢田先輩が抜けていたことから止まっていた練習も再開した。元のざわつきを取り戻し、俺達も練習に加わろうと更衣室へと小走りで向かった。


着替えてる中なぜか水着についての話題になり、俺は盗み聞きするように話にはたまにしか入らず聞く方に回った。


発端は健太の、矢田先輩の水着ってかっこいいよなっていう発言だ。


矢田先輩と同じような水着を着ている人は数人いたが、ほとんどが俺達が使っているものだった。矢田先輩が着ていたものは前まで兄貴の真似で自分が着用していた種類と似たようなもので、久しぶりに見たけどやっぱりかっこいいとは思う。


矢田先輩の場合、あのルックスと程よくついた筋肉がかっこよさを増加させているのは確かだ。後あの性格、優しく笑顔で皆をちゃんと見てる。あの人に負けず劣らず、部員には慕われてるし泳ぎもうまい。絶対モテてるな、あれは。


そんなことをふわふわと考えながら先に行こうとすると、健太から待ったがかかった。数秒待っていると用意を終えたようで行こうと声がかかる。



「アキはあの水着着たことある?」


「……前まであれだった。でもやめた」



なんで?とは聞いてこなかった。多分俺の態度で聞かない方がいいことを察知したんだろう。いや、健太なら何も考えずにただ聞かなかったっていうのもありえる。まあ何はともあれほっとした。


その後は健太がほとんどひとりで喋ってて、筋肉つけたら速くなんのかなーとか久々にビート板を持って泳いでみたいとか、泳ぐコツとかあんのかな、なんて質問されたりして会話が尽きることがなかった。


話す内容がポンポンと出てくるあたり、健太はその手の才能があるんじゃないかと思うぐらいすごかった。


俺からは一言だけ「頑張れ」とだけ言った。


矢田先輩に指示を煽り行く途中、ちょうどあの人が泳ぐ番だったようで俺は自然と足が止まっていた。健太たちも俺の目線に気づくなり少しは目を向けたようだけど先に行ってしまった。


飛び込んで数秒後、両腕は水をかく運動に入ってそのスピードは加速していく。キラキラ輝いて息継ぎの間見えた顔は心なしか笑ってるように見えた。泳ぎから伝わってくる“楽しい”っていう感情。何度見ても(数えるほどしか見てないけど)衰えてない綺麗なフォーム。


ああやっぱり、水野先輩は違う次元の人だ。


見とれていると、矢田先輩の元から健太たちが帰ってきて俺にメニューを伝える。最初は三年からどんどん泳いでいくものをやっているらしい。今三年の最後が泳いでいるから待っていようってことになった。


あの人はもう終わっただろうな。プールに目を向ければあの人はゴールしたところで、でもすぐに上がらず立ったままうつむいているように見えた。


上がらないのだろうか。


しばらく見ているとその様子に気づいたのか矢田先輩が駆け寄る。笑いながら二言三言喋って、矢田先輩はその場から離れてあの人ははしごのある方へと泳いでいく。


はしごから見えたあの人の顔は驚くようなもので、笑顔もなく明るさもない別人のあの人がいた。


健太たちに聞こうと思ったら、二人は喋っていて見てないことを聞いても否定されるだけだと思って聞かなかった。


珍しい。入って数日の俺がこう思うんだから、他の部員の人が見ていたらもっと珍しがって心配するだろう。現に俺だって何かあったのかと感じたぐらいだ。


あの人は手の平を見つめて感覚を確かめるように握っては開いてを繰り返していた。捻ったのかと思ったけどそれだったら手首の方を確認しないとおかしい。じゃないとしたら何がある。


いつもなら明るく練習に励む部員と戯れたり、一人だけ飛び抜けてはしゃいでいたりするのに今はすごくーー見ていて辛い。

胸がぎゅっ……と締め付けられて、あの人の眉間のしわが増える度俺も同じように眉間にしわが増えて、そんな表情をする理由が知りたいけど聞けない。


俺の感情は、厄介だ。


何事も無かったかのように口元だけで笑みを浮かべた後、矢田先輩の背中に伸し掛るようにして駆けていくあの人を見ることしか出来ない。


結局俺達が泳ぐ順番が来てしまって、それからは練習も淡々と進んでいってあの人に何も聞けず俺は帰り道、溜息をつく。


俺が深く考えたところで解決できるものじゃないし、そもそも「手、どうかしたんですか」「なんであんな顔してたんですか」なんて聞いてもあの人は誤魔化したり、心配したことによる茶化しがあるに違いない。


あの人は俺と同じだけど違う。俺もまあ……抱え込む方だとは思うけど、あの人は俺以上に一人で抱え込むんだと思う。それも態度には出さないでずっと笑って最後の最後に「ごめんねー」なんて言いながら説明するんだ。


それほど大きなことじゃないんだろう。そう思っておこう。




でも次の日、あの人の姿はなくて気にしてない風に矢田先輩に聞いてみたら



「あいつ学校にも来てないんだよね。休むってのは聞いてたけど……、なんか静かだな」



笑いながら言ってたけど心配してるのは丸わかりで、事情を聞いたら教えると言われたからそれで納得して練習に戻った。


確かにあの人のいない部活は初めてで、水の音が鮮明に聞こえるぐらいとまではいかないけどそれでも静かだって思うほど独特の空気が漂ってた。


体調不良とかだろって簡単にその日は片付けたけど、その次の日もその次の日もーー結局今週いっぱいあの人が部活に顔を出すことなく、理由もわからないまま大会の日程だけが近づいてきていた。

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