6
「兄ちゃんみたいに早くなりたいなー」
まだ俺が中学に上がりたての頃、幼かったあの頃は兄のことを尊敬していて、よく兄みたいになりたいって言ってた。
兄が使ってる水着と同じようなものを使って、兄と同じ水泳部に入って、兄の後ろをついてまわる弟だった。
その時の俺は、明るい方で今より笑ってた。友達もそこそこ作れるやつだったし、部活だって兄に追いつきたくて必死に頑張ってた。
元々スイミングスクールに通っていたこともあって、俺は当時泳げる方だった。まあスイミングスクールに通っていたのも兄の影響だけど。中学を上がると同時に辞めてしまった。部活をやるのならそっちでいいんじゃないという親の方針で。
兄だって辞めてたし、その分部活に専念してどんどん速くなってって部長にまでなっていた。
そんな兄がかっこよくてきらきらして見えて、こんな風になりたいって、こんな風に魚みたいに泳げたらなあって思ってた。
「アキは成長が早いから大丈夫だよ」
俺も負けねぇように頑張らないと。
そう言った兄は笑って俺の頭を撫でてくれた。
兄に撫でられるのは好きだった。俺より大きな手とあったかい温度、それからふわふわと撫でてくれる。その全部が心地よくて好きだったんだ。
俺の中では兄はライバルとでも言える存在だった。尊敬しているけど、超えたい人。
それを目標に今まで頑張ってきたし、兄の泳ぎはよく観察してどうしたらあんなに速くなれるかって研究してた。
俺が中学生になって少し経った時、部活で自己ベストを更新した俺は舞い上がってこれなら勝てるんじゃないかって兄に勝負したいと申し込んだ。
兄は快く引き受けてくれて、部活が休みの日曜日に近くのプールでやろうかと日程まで決めてくれた。
嬉しくて舞い上がって、その週の部活はいつも以上に張り切ってしたし周りからは、なんで浮かれてるのかとおかしな目で見られていたことだろう。
今の自分なら勝てるって思ってた。
今までの練習の成果を出せば勝てるって、謎の自身が俺の中ではあって。日曜日、勝負の日がやってきてスタート台に立った時不思議と緊張はしていなかった。
「負けないからね!」
「俺もだ」
このままずっと笑っていられたら良かったのに。
開始の合図は俺がして、二人一緒に水の中へと飛び込んだ。幸いなのかその日プールには誰も来ていなかった。いわば貸切状態。
いつも以上に調子は良かった。体調だって優れてたし自分の泳ぎに集中出来てた。自分の世界に入ることが出来た。でもーー。
「アキ、ほんとに速くなったな。俺油断してたよ。もう少しで追いつかれそうだな」
笑って、泳ぎ終わった俺に褒め言葉とも呼べる言葉を伝えた。
俺は、顔をあげれなかった。兄に顔を向けれなかった。多分、その時の俺の顔は絶望に満ちていて今の俺でさえ見ていられるものかと思うほどだ。
当然の結果だったのだと皆言うだろう。
そんなのわかってるよ。今の俺は痛いほどわかる。でもさ、その時の俺は純粋でただ真っ直ぐに兄貴の背中を追ってて、勝てるって自信があって自分から勝負をしかけたのにーー負けて。
悔しかった。恥ずかしかった。
兄に遠慮させて俺が速くなったと、追いつかれそうだったと言わせたことが。兄に勝てるはずないのに“天才”でもないのに、勝てるって信じて呆気なく負けたことが。
知ってるよ。
兄ちゃんは俺とはずいぶんの差で泳ぎ終わってたよね。俺が知らないとでも思った?そんなの気づくよわかるよ。なのにそんな気を使って、嘘ついて。
笑ってるの……兄ちゃん。
可哀想だと残念だなと同情してるの……兄ちゃん。
ーーもういいよ。もういい。
俺が
「……アキ?」
馬鹿だった。
俺に触れようとした兄の手をはらって、何も悪くない兄を水で潤んでしまった目で睨みつけた。その時何か流れた気がするけど、プールの水なのか涙なのか今でもわからない。
その後は、兄を置いて更衣室へと逃げた。兄は追いかけてこなかった。
張り詰めて押し殺していた感情が一気に流れて、嗚咽と涙と鼻水が溢れて俺は崩れた。
顔はぐしゃぐしゃだし、嗚咽で苦しいし声は枯れてるし、すすってもすすっても鼻水は出るし。
悔しい。悲しい。恥ずかしい。苦しい。
ぐるぐる感情は回ってそれが俺の声となり涙となりどんどん溢れてくる。止めようなんて思わなかったし思えなかった。ただ身を任せてよろよろしながらすぐそこにある更衣室へと入った。
少し泣き止んで着替えて、兄には無言で帰って、その時はお金を自分で少し持っていてよかったと思った。
両親はとっくに帰ってきていて、「おかえり」そう温かく迎え入れてくれたけど返すほどの気力はなく、顔を見られたくなくてうつむいたまま頷いた。
「ご飯出来てるよ」
「…………後で食べる」
「そう。早く降りてきなさいね」
いきなり態度が変わったのに、何の変わりなく普段通りの態度で接してくれて有り難さと、その優しさが兄の優しさと重なって虚しくなった。
ごめん、と心の中で呟いて早く自分の部屋に入った。そこらへんに荷物をほっといてベッドに寝転がった。
数十分して兄が帰ってきたのがわかって、母と話している声が聞こえた。兄は自分の部屋に入ってその後俺の部屋の扉を叩く。
「アキ、ご飯食べよう」
食べる気は今ないんだ、だからほっといて。兄ちゃんが食べていいから。俺の分はなくていい。……ごめん、兄ちゃん。無視する俺を許して。
兄ちゃんが階段を降りる音を聞きながら、俺は目を閉じ現実世界から逃れる。
いつまでたっても弱い自分だった。兄の背中を追い、兄の後ろを歩いて、兄の真似事をしていた自分。
何が悪かったのかと自問自答してみるけれど答えは出ず、壁が大きすぎて兄のことが見えなくなる。俺と兄は違うのだと線をつけられたみたいだ。どうやっても勝てない、全部無駄だと。
違う。そう否定したい。
俺だって頑張れば……って、言いたい。
でもそんな力俺には残ってなくて、現実を素直に受け止めすぎて心が耐えられなくなっている。
「アキ、ご飯置いておくから。ちゃんと食べろよ」
兄に迷惑かけていることを自覚してる。兄が困惑していることを自覚している。
それでも素直に感情をぶつけたり出来ないのは、弱い自分のせいであって兄は悪くない。
そう思いながら、悪くないというところをどこか受け入れれない自分がいて。結局自分は人のせいにすることしか出来ない。
わざと負けられても怒っていただろうに。
自分に腹が立つ。
兄が去って誰もいなくなった廊下には、おぼんに乗った不格好なおにぎりとお茶と漬物。一目で母が作ったものじゃないと気づいた。
こんな時でもこうやって弟のために何かしてくれる兄は、優しい。
部屋におぼんごと運んで小さなテーブルに置き、少しずつおにぎりを食べ進めていく。決して綺麗じゃないおにぎりにはちゃんと海苔がつけられていて、兄なりに頑張って作ったのだとわかる。
一口、また一口食べるごとに目が潤み始める。
「……あまい」
普通のおにぎりにはない甘ったるさが口の中に広がる。咀嚼をするごとに増していく甘さに顔が歪むが俺は食べ続けた。食べて食べて、食べ終わったらお茶で口直しして。
みんなが寝ただろうなって頃に下を降りて茶碗を片付けた。
息を吐き出してソファに体を委ねた。すっかり重くなってしまった体の分だけソファはへこんで、でもそのふわふわさが体を包み込んで気分が和らぐ。
誰も起きていないと油断していたから、突然ドアが開いた時思わず身構えた。
母だった。
「おにぎり、美味しかった?」
俺の前に来て少し詰めるように手で指示する。他に座る場所はあるのに、母はそこに座りたがった。
渋々間を開けると、ゆっくりと腰掛ける。
「……甘かった」
「でしょうね。ナツが行った後心配になって台所行ったら砂糖の入れ物が出してあるんだもの、思わず笑っちゃった」
「止めてよ」
笑ってないで階段を上ってる兄を止めてほしかった。お世辞にも美味しいとは言えない味だったし、出来ればもう二度と食べたくないな。
「いいじゃない。ナツの優しさが感じられるでしょ?」
意地悪くそう言った母に溜息と無視をプレゼントして、自分の膝を抱えた。
しばらく時計の音しか聞こえない時間が続いたと思ったら、母がまたしゃべり始めた。
「貴方達ほんとそっくりね」
「は?」
「不器用なところが」
生まれて初めて言われた言葉だと思う。
別に似ていないことをどうこう思ったこともないし、兄弟が必ずしも顔とか似ているわけなんてないんだから気にもしていなかった。
でもこうして言葉として「似ている」「似ていない」と言われるのは初めて。
それも言われることは無いだろうと思っていた「似ている」。
不器用ってどうゆうこと。
「喧嘩でもしたの?」
「…………別に」
「そう。早く仲直りしなさいね」
多分、母は大体の事情を把握している。例え兄が俺が話していないとしても、母にはバレてしまうんだろう。さすがは我らの親ってところかな。
怒ることなく詳しく聞くこともなく、こうしてサラリと話していつもの同じ明るい態度で接してくれる。そこが母のいいところ……というか両親のいいところ。
俺の感情は話しても解決しない。俺自身の問題だから。
「早く寝なさいね」
「うん」
「おやすみ」
あくびを一つ零しながら、眠りにつきに行こうとした母を思い出したように呼び止めた。
「ねえ、頼みがあるんだけど」
俺が変わらないと。大人にならないと。
「水着、買いに行かせて」
兄貴離れしよう。
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