アキが去った後の水泳部では傍から見てもわかるほど、どんよりとした重い空気が漂っていた。


それもそうだろう。突然調子の悪くなったアキの顔には、いつもとは違った表情がはっきりと現れていて明らかに何かあったのだと思われる顔つきだった。


刻まれた眉と眉の間のシワ。瞳には自分たちではない何かが映っていて、いつも異常に黒く濁り光がないように見えた。口元は何も話さないとでも言うようにきつく結ばれていた。


練習を続ける雰囲気でもなければ、続けようと声をかけれる人もいない。

皆気づいていた。アキの感情が今最悪の状態にあるのだと。


本人は心配かけまいと薄ら笑って「体調が悪いから帰る」そう言っていた。が。そんなのは嘘だとすぐに気づく。


一番どうしようもない感情になっているのはアキの兄であるナツだろう。アキがああなってしまった原因を知っている。確実だとは言えないものだが、おおかたナツにはこれだろうというものは頭にある。


ナツはまだアキが去っていった道を見つめている。



「俺のせいだ」



静まり返っている中、聞こえた震える声。自分だと責める声の主は、健太だった。さっきまで明るく笑っていた顔は正反対のものになっており、動揺の色が浮かんでいる。


誰もそう言った理由がわからないだろう。何を言い争っていたわけでもなく、仲良く話していた姿しか見ていないのに健太は自分だと責めるのだ。


矢田が聞く。



「……どういうことだ」


「俺が、泳がせたから」



意味がわからない。矢田はそう思う。

それは俺だって同じことだ。自分がアキの泳ぎを見てみたいという気持ちから、アキに、まあ強制的に泳ぐように説得(そう言うのだろうか)をしたのだから。



「考え事してたことわかってたのに、順番が来てるって行ってこいって言っちまった。今思えばあいつは無理に笑ってたのに、変な感じはしてたのに…………っ、俺は!」


「違うよ」



健太の頬に一筋、涙が零れる。自分の言葉に否定を返してきたのは、あの先輩だ。


いつも笑顔を振りまいているその人からは考えられないほど真剣な顔になっていて、健太には少なからず安堵の気持ちが生まれた。俺のせいではないのかと。



「……俺のせいだよ」



そう言って苦笑した兄のナツ。一斉に部員の視線が集まった。



「アキと俺は正反対なんだ。“天才”と“努力”……もちろん努力が俺の方なんだけど。アキに負けたくなくて部活の後も練習して、いつもギリギリの差を保ってた」



今でも鮮明に思い出される記憶。ナツは今でも気にかけていた。アキが水泳を嫌いになっていないだろうかと。

でもあの日の次の日から普通に部活の水泳をしていたし、サボらずにちゃんとしているようだった。変わったことと言えば、俺との会話が極端に少なくなったことぐらい。


高校に入ったらやめるのかなと思っていたナツだが、続けると聞いて嬉しく思ったのをよく覚えている。そりゃ嬉しいものだ。ずっとやめるのではないかと心配していたのだから。


無理やり連れていった大会も、水野の泳ぎを見て少しでも考えとかそういうものが変わってくれればと思ってらしい。


少しは変わったのかな。安心していたのも束の間だった。ナツにもわからなかったのだ。アキの奥底に眠る闇の感情には。



「アキが中学に入学したての時、アキとは一度勝負したことがあるんだ。……ほんと大人気なかったと思う。どんどん成長していくアキに負けたくなくて、本気出してさ。勝っちゃって……」



笑ってくれると思っていた。


ちょっとは手加減しろよーとか次は勝つしとか。言ってくれるって思ってたんだ。



「勘違いしてたんだよなー」



アキは強い。俺よりか成長力はあるしこれくらいじゃ諦めないだろうなってさ。


兄貴ならわかっててやるべきだったのに、勝手にそう決めつけて何もわかってやれてなかった。


ナツの手に力がこもる。爪はくい込み、力の入れすぎなのか若干震えている。



「アキの気持ち、バラバラにしちまった」



誰もがナツの気持ちを痛いほどわかった瞬間だった。


いつも笑って自分たちを支えてくれた先輩が、顔を歪ませて涙を流している。滅多に見せない表情に皆の顔が下へと下がっていった。


声なんてかけれるはずがない。かけれるやつはよっぽどの空気を読めないやつだ。


しばらくナツの鼻をすする音と涙を拭く音が聞こえた後、明るい声をナツが出した。



「ごめんな、暗い話して。今日は解散にしよう」



ゆっくり、更衣室へと動いていく部員達。その顔は皆暗く、とても明るいと言えたものじゃない。

そんなの関係ないと明るく「ごめんな」と声をかけながら部員を誘導していくナツに、何も言えないことが悔しいのか別のことが悔しいのか、固く目をつぶりナツの前で軽く会釈して更衣室へと入っていく矢田。


その数歩後ろを水野は歩いていた。


誰いなくなったプール。一人取り残されたようになっているナツは、さっきまで水しぶきが上がっていたプールを見つめる。さっきまで自身の弟が泳いでいたプールを。


自分の気持ちとは裏腹にきらきらと太陽の光に照らされ、ほんのりオレンジ色に染まっている水面に笑って見せた。



「……馬鹿だなあ、俺」




***




風呂から上がった後、玄関にほっといた荷物を力ない腕で持ち上げ自分の部屋へと持っていく。


荷物をまた自分の部屋のそこらへんにほっといてベッドへとダイブする。スプリングが軋む音と自分の体が数回跳ねる。短い髪はまだ濡れているといっても半分は乾いている。枕に顔を埋めた。


幸いなのか家には誰もおらず、風呂から上がった後ホッとした。両親のどちらかがいれば理由を問いただされかねない。それは避けたかっ

た。


……めんどくさいし。


疲れからかうつらうつらになる瞼。朦朧とする意識。睡魔が突然に俺を襲ってきた。


本格的に意識を手放そうとした時、聞こえてきた声、懐かしい……今は嗅ぎたくない匂い。ゆっくりと夢の中へと堕ちていった。

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