俺の他に新入生はたくさん入ってきて、ほとんど全員と言っていいほど矢田先輩とのレースのことを言われ聞かれた。


健太やシンとはクラスも近く今では部活へ一緒に行く仲にまでなった。健太はよく笑ってたまに馬鹿なことしたりする。シンもよく笑うけど結構しっかりしてるお兄さんって感じだ。


俺も前よりかは笑うようになった。


部活にもなれてきて、最初はきつかった練習メニューも今はそこそこ出来るようになっている。


兄はあの日以来部活に顔を出していない。こうやって考えた時にほど兄は来るのだけれど、当分来ないでほしいと願う。

兄貴だって大学生だし水泳続けてるんだから来る時間なんて限られてる。だから大丈夫だと思うけど、こればっかりは確実とは言えない。


俺は、少しは変わったのか。


入部する前までは楽しければそれでいい、大会なんて出れなくてもいい、兄に勝とうなんて思わない、そう思っていたけど。その考えがほんのちょっと変わりかけていることは事実。


でも、俺はここにいていいのだろうかと感じることが多々ある。

数ヶ月前まで適当にやってた俺が、今もその気持ちがある俺が、本気でやってる人達の中に入っていていいのか。


場違いなんじゃないかって……。



「アキ」


「……っなに」


「次、アキの番だぞ」



そうだった。今練習中なんだった。


いつの間にか目の前はすぐスタート台になっていて、俺の前だった人は泳ぎに入っていた。ボーッとしていた俺はそれに気づかず用意もしなかった。


何やってんだか。



「……ごめん」


「いいって。ほら行ってこい」



健太に背中を押され、俺は軽く笑みを浮かべた。


ゴーグルをはめて、スタート台につく。体を曲げて少しだけ重心を後ろへとやる。ピーッという笛の合図で俺と同じ順番の一年が一斉にスタートする。


ダメだ。さっきまで考えてたことがまだ頭の中に残ってる。そればかりが頭の中を支配して集中出来ていない。


追い抜かれているのが水の中でもよくわかった。両端から水の泡が発生している。


自分の水をかく腕、前に進むのに必要な足の上下運動、それらを行う体が重く感じる。目の前が見えない。光が差し込んで綺麗に光っているはずの水の中は、暗くて濃い青になっていて手を伸ばしても伸ばしても何も掴めない。



“……っ、兄ちゃん!”



困ったように笑って、遠く遠くに消えていく。



“待ってよ、兄ちゃんっ!”



もう、届かない。


ザラッとした感覚が手の先から伝わる。それはゴールまでいったのだとわかる感覚。俺はゆっくり泳ぐのをやめその場に立ち上がった。


泳ぐ前までは話し声などでざわついてたはずなのに、その面影もないほど妙に静かになっていた。

一緒に泳いでいた一年は俺が泳ぎ終わるのを待っていたかのようにその場に立ったままだ。見てはいないがわかる。痛いほど視線を感じる。


一年の練習を見ていた先輩達、まだ泳いでいない順番待ちの他の一年、たった今泳ぎ終わった一年。俺以外の全員の困惑した視線。


そりゃそうだよな。

今までずっと最初に泳ぎ終わっていたやつが突然一番遅く終わったんだから。



「……ははっ」



自分でも驚くほど乾いた笑いが出た。


こんなにも俺が弱いことがわかった。どう足掻こうとも俺は兄に勝てない。どこかでまだ頑張りたいって思ってたけど思い知らされる。だから嫌だったんだ。



ならないようにしてた中学生の時。ちょっとポッカリした感覚はあったが別に気にはならなかった。楽だったから。何も考えずに、何も感じずに過ごせていたから。


高校もそれでいこうって、それでいいってしようとしていたのに。あの人の泳ぎを見て俺の中で何かが変わってしまったんだ。きらきらしたものが俺の中で生まれてしまって、少なからず俺は頑張ろうとしていたんだと思う。


でもやっぱり無理だった。


あの時の兄貴との思い出を、出来事を、俺がまだ引きずっていて。その時の思いが感情が気持ちが全て思い出された。


思い出したくなかった。またこうやって中学の俺に戻りたくなかったから。あんな思いをもう一度経験するなら適当にやっていたかった。そうすれば思い出さないって思ったから。



「あれ、どうしたのみんな」


「……萩野先輩」



ほら、兄貴は俺が来て欲しくない時に必ずやってくる。



「…………馬鹿みてぇだ」



気にして気にし続けて、強くなれなかった俺はまた蓋をしていたものを溢れさせた。


上がりにくいがやろうと思えばやれる。スタート台がある目の前のコンクリートに手をつき水から上がる。俺は相変わらず下を向いたまま。



「アキ?」



兄貴が俺の名前を呼ぶのなんて反応せずに、更衣室へと直行した。



「アキ」


「……すいません、矢田先輩」



何を聞かれるかおおよそ予想はついていた。

どこに行くんだって聞かれることくらい、誰だってわかる。


誰にも気づかれなくていい。別に助けてもらおうなんて思ってない。助けてもらわなくて結構だ。ああ、ほんと、



「気分が悪くなってしまったので、今日は帰ります」



面倒だ。


軽く会釈してまた歩き出す。


早く着替えを済ませてこの場から去りたかった。今はもうこの塩素の匂いは嗅いでいたくない。早く風呂に入って体からもこの匂いを消してしまいたい。


更衣室から出ていく。プールの中や外にいる水泳部の部員は一言も話してないのか静寂に包まれていた。


そんな空気知ったことじゃない。



「失礼します」



もう一度会釈して、帰ろうとする俺に近づこうとした兄貴に言ってやる。



「先に帰るから」



兄貴の動きがピタッと止まった。


とにかく一人になりたかった。

学校の門を抜けた瞬間、俺は家まで走った。息切れなんて家に着いた時はすごかったけど、気にせずに荷物は玄関にほっといて風呂場へと急いだ。


シャワーから流れてくる暖かい水は、冷たい体によく染みた。取り付けられた鏡に自分の顔が映っていた。無表情だと思っていた顔には、わかりやすいほどに感情が現れていて後悔した。


バレているじゃないか。


鏡に背を向けて壁にもたれかかる。

冷たい、頬を流れたものはシャワーから流れ出る水ではないと気づく。俺は泣いていた。



「……どうしろっつーんだよ」



自分に腹が立った。


それは七月の大会を一ヶ月半に前に控えた日のこと。

俺は最悪のタイミングで壁にぶち当たり、もう泳ぐことが嫌になっていた。

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