3
入部届けを無事提出してから初めての部活日。俺が来た時にはもう練習は始まっていて、ちょうど矢田先輩が泳ぎ終わったところだった。
俺に気づくなり笑って
「弟くん、いらっしゃい」
「……ちわっす」
「着替えるところは昨日と変わってないから、これからはそこを使って。荷物は空いてるところに入れてくれればいいから」
「……っす」
会釈してから、昨日着替えた場所の扉を開けると部員の数だけロッカーは荷物で埋まっていて、昨日と同じ場所なのかと疑ってしまった。
いつも使っているはずなのに昨日はなんでなかったんだろう。変なことを考えたが、すぐに頭の端に置いた。
エナメルバッグから水着とタオルを取り出し、服を脱ぐ作業に取り掛かる。
俺の水着はハーフスパッツで太股までの長さがあるやつだ。前までは足全体が隠れるタイプを使っていた。兄と同じものを。
ーー今はもう、使っていない。やめたのだ。
それも、諦めてしまったからなのかと聞かれればそうだと答える。
俺は兄に対して劣等感しか持っていないのだと思う。……いや、自分に対してもだ。
ガチャっと突然開いた扉の音に俺の意識は引き戻された。入ってきたのは二~三人の男子で、顔つきや態度からして同じ新入生だとわかった。
残念ながら、兄のような明るい性格じゃないしコミュニケーション能力が高いわけじゃない。前はもう少し高かった気がするけど、思い出すと泣けてくるからやめておこう。
なので、俺は気にせずに着替えを終えるとあちらから話しかけられた。
「昨日の……人だよな」
「……うん」
若干緊張で堅苦しい声になってしまったが、相手はさほど気にしていないようだ。
俺が昨日の人と確認が終わると、何やら周りと興奮気味に話し出す。ただ確認されただけの俺は何について話しているのか、何にそんなに興奮(?)しているのかわからないから呆然と見ているだけ。
この状況はどうしたらいいんだ。
話が終わったのなら、俺、行っていいだろうか。
「昨日の泳ぎ見たよ。すっげえなお前!俺尊敬したよ。あ、俺
「萩野……だったよな。中学の時、確か大会出てたよな?相変わらずはええのな!すげかった!」
いきなりバッと来られて処理に相当困った。結構な勢いで話の内容が飛びそうになっていたけど、褒められていることだけはよくわかった。
褒められて嬉しくないわけがないが、こうも唐突に来られて盛り上がってる目の前の二人とは温度差がすごかった。
多分、俺の顔は引きつっているだろう。
とゆうか着替え終わってるから早く行きたいんだけど、全く話す気配がない。
「俺らも今日から水泳部なんだ。仲良くしようぜ」
「……あ、ああ」
差し出された手を握るとあっちも握り返してきた。
悪い奴らではない。むしろ俺の無愛想さに何も思わず話しかけてくれて、こうして仲良くしようと言ってくれる。それが有り難く嬉しかった。
無愛想な人に好んで話しかけたりしないだろ?
「名前なんてゆーの?」
「あ、俺
「…………アキ」
またよろしくと言われ、俺もよろしくと返した。その後、二人は着替えに入って俺は先に行くことにした。
扉を開けると涼しい空気とプールの独特の匂いが鼻を通って感じる。来た時はあまり気にしてなかったからあまり触れなかったけど、いよいよ始まるんだと思ったら匂いとか温度とかを敏感に感じる。
体を水で濡らしキャップを被る。泳いでる途中につったりしないように準備運動を始める。
その他することを終えた後、ちょうど矢田先輩が俺のところに来て今からする練習を教えてくれた。
「一年は、実力確認も兼ねて昨日みたいにレースをしてもらうから、もう少しだけ待っててもらえる?もうすぐ終わると思うから」
「はい」
「弟くんは昨日したけど、またする?」
「……はい」
先輩の顔を見た時、泳いでと言わんばかりの目の輝きに気づいてしまい「はい」と言わざるを得なかった。
客観的に見たいっていうのがあるんだろうな。昨日は競争する立場だったから。
「楽しみにしてるね」
満面の笑みで言われ、断ることも出来ず俺は溜息をついた。泳ぎたいっていう気持ちはあるけど競争?レース?みたいなのをしたいわけではない。
ただ普通に練習して、ただ普通に他の人の泳ぎを見て。そんな風にいつも通りにしたいだけ。
目の前のプールで水しぶきを上げながら泳いでいる先輩達を見て思う。俺はあの中に入って大丈夫なのか、成長するのかと。
中学の時から俺は成長しているという実感がない。昨日のレースの後はちょっと思ったけど、少し前まではずっと変わらないって思ってた。
いくらタイムが早くなったって試合で勝ったって、自分の変わりようの実感が自分の中で感じられなかった。本気を出そうとしても、どこか俺は本気なのかと考える。
全て適当にしてしまっていた俺の責任だと気づいてはいる。だけど。
ーーいつの間にかわからなくなった。
今、自分がしていることが正解なのか。今のままで大丈夫なのか。……俺は今でも兄に勝ちたいと思っているのか。
無意識に握りしめていた手の中で爪が食い込んでいく。
「萩野アキ」
いきなり名前を呼ばれ、驚きで素早く右を向いた。そこにいたのは、泳ぎ終えたあの人の姿。ぴったりと体にフィットしている水着からスタイルの良さがうかがえる。
初めて聞いた、俺の名前を呼んだ声を。
「……何か用が、」
「みんなの泳ぎどう思う?」
「……は」
さっきのトーンはどこへ行ったのか、普段の明るいトーンへと変わっていてマヌケした声が出た。
「…………綺麗だと思いますけど」
なんで俺に意見を聞いてきたのか理解出来なかった。仮にも後輩でこれから先輩達の指導や泳ぎを見て学ぶ立場になるのに、適当にやってしまっていた俺に(あの人は知らない)聞くことがわからない。
もう一度見てみるが、やっぱり二年も三年も……それ以上かもしれないけどやっているから、速いし、綺麗なんだと思う。
「だよね」
本当に聞いてきた意味がわからない。
読めそうで読めない人だ。
「あ、弟くん泳ぐんだよね!」
「……まあ」
「じっくり見ててあげるね!」
「……他の部員を見てください」
ルンルンとした足取りで矢田先輩の元へ歩いていった。俺の言葉は無視された……のか?
また溜息をついた。
「アキー」
「……健太とシン」
「おっ早速覚えてくれてる」
着替え終えた二人がさっきまであの人が立っていた隣に来て、俺が話していたところを見ていたのかあの人の話題になった。
有名なのか二人はあの人を当然のように話していて、知らなかったと言ったらものすごく驚かれた。
大会に行ったのだって、あの時無理矢理に連れていかれた時だけだったしそもそも断ってた。
あまり行く気になれなかったっていうのが本音だけど。
二人は中学からの同級生らしく、よく大会とかには見に行っていたらしい。あの人のことも矢田先輩のことも知っていた。
矢田先輩もすごい人らしい。
あの人と同じく大会にはほとんどと言っていいほど出ているらしく、だから昨日俺が僅差(?)で勝ったことに驚くのは当たり前だと言われた。
…………本気でしてないだろ。
矢田先輩の本気に勝てるわけない。あれが本気なんて信じないだろ。
あの人はいつも笑ってる、らしい。試合が始まる前、わくわくした顔で自分がこれから泳ぐプールを見るらしい。
……相手からしたら怖いだろうな。
やっぱり泳ぎはどこの誰よりも綺麗で速いらしく、大体勝ってきてるんじゃないかと二人は言っていた。
「矢田、タイム速くなったんだって?」
「げっ、なんで知ってんだよ」
「勝負しよう!」
「……これだから嫌なんだよ」
渋々スタート台へと歩く矢田先輩と楽しそうに歩くあの人。
二人が言っていたようにスタート台に立ったあの人は、すごく楽しそうに嬉しそうに今から泳ぐ水を見ていた。
水面が太陽の光に反射してきらきらと光り、それがあの人の体全体に投影されてなんか……水野先輩がきらきらして見えた。
眩しくて、日陰にいる俺とは大違いだ。
何が“ただ楽しいから”だ。何が“兄がしてたから”だ。何が“大会には出れなくてもいい”だ。
「なあ、アキ」
始まりの合図と共に水へと飛び込む。水しぶきが上がり数秒間静寂が続く。水音、すなわち二人がクロールを始めた音が聞こえたタイミングは一緒だった。勝負はわからないと思っていた矢先、あの人のスピードが変わった。
「水野先輩の泳ぎを見た時、思ったんだよ。お前は知らないよな」
どんどん追い抜いていく様は泳いでいるようには見えなかった。思わず見入ってしまう泳ぎにただただ圧倒された。
息継ぎの瞬間見えたあの人の顔は笑ってるようで、俺の体にぞわりとしたものが駆け上がった。鳥肌が立って、胸がうるさくなって。
「水野先輩の呼び名があってさ」
それを聞いた俺は、あの人にぴったりだと思った。
「“人魚姫”らしいぜ」
ああ、この感覚は……初めてあの人の泳ぎを見た時と同じ感覚だ。
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