2
無理を言って帰ればよかったと後悔した時には、時すでに遅しというもので。なんで俺が泳ぐという日に来るんだろうか。
俺の兄は。
噂でも聞きつけたかのようにタイミングがいい。
部員の人があの人は来なかったら放送をかけるのだと知ったから、しぶしぶ水着とその他必要なものを詰めて鞄に入れた。
見学に来るなり手を引かれ、更衣室であろう部屋に無理やり押し込まれ「何かあったら言ってね」その言葉の後に扉が閉められた。
泳がないなんてない、とでも言うように。俺は強引に部屋に入れられたのだ。
着替えを終え外に出るとまたもやあの人に手を引かれ、スタート台へと立たせられた。
隣を見ると昨日あの人が放送かけそうだと言っていた人で、まさかこの人と競争しろということなのか。それが顔に出ていたのか、男の人は
「ごめんな。あいつが強引にしたんだろ?」
「…………いえ」
眉を下げて笑って謝ってくれた。
少なくとも悪いのはこの人じゃないと思うんだけど。
それは言わないでおいた。
「でも、あいつが一番楽しみにしてたんだ。だから許してやってよ。ま、巻き込まれたもの同士頑張ろうぜ」
この場から逃げれるとは思えない。とゆうかそうはさせないようにあの人は止めるんだろう。笑顔で「戻ろうか」なんて言ってさ。
周りを見ると部員の人たちは、さっきまで練習していたはずなのにみんなプールから出ていて今やギャラリーと化している。
……
入口付近には他の新入生たちが見学に来ている。きっとあの人はなんであそこに立っているのかと疑問に思っているだろう。
正直、俺もこうなるとは思わなかった。なんでこうなってるのかを知りたい。
もう諦めて泳ごう。そう決意した時、何やら歓声が起きた。
「萩野先輩、来てくれたんですね」
「おう。みんな元気そうだね」
最悪だ。なぜ今このタイミングで兄は来るんだ。
俺は心底嫌な顔をしている。確実に。
さっきより泳ぎたくないという気持ちがどっと増えて、諦めて泳ごうとも思わない。
部活に入っている時だったらとーってもしょうがないことだと言い聞かせて泳ぐけど、今はまだ見学の時だしなんか競争したいになってるしみんなが練習してない時。
バッドタイミングってやつだ。
「アキーー!がんばれよー!」
応援しないでほしい。最前列に来ないでほしい。俺の隣の人をずっと見ていればいいのに。
ーー帰ればいいのに。
兄はいつもそうだ。俺が泳ぐところを見る時の顔は、なぜか嬉しそうで真っ直ぐな目で見られるからすごく嫌なんだ。
俺が、適当にやってたってことがバレるんじゃないかって。怖くなる。
「じゃあ、用意いいかなーっ」
手を挙げてぶんぶんと振るあの人には反応せず、俺は軽い準備運動を始める。
俺が終わる頃をはかって、準備が出来たと隣の先輩は合図を送った。そんなのに気づかなかった俺はスタート代に立って、体を曲げた。
「負けないからね」
隣から聞こえた声に、俺の闘争心は少しだけ火がついた。
「……俺もっす」
そう答えた瞬間、過去に一度だけ兄と争った日のことを思い出した。
小さい頃にしたものじゃない。俺たちがほどよく大人になっている時期にやった、小さな争い。
俺は兄に勝てないのだと痛感した日のことを、蓋していた感情とともに思い出した。
「よーい」
高い笛の音が静かなこの空間にはうるさいほど響いた時、レースはスタートしたのだ。
ほぼ同時に水しぶきが上がって、誰もが結果をわくわくと観覧している。そんなのは泳いでいる時に見ようとすれば見れるが、俺は見たくなかった。だって、俺はどっちでもよかったから。
たとえ少しだけ火がついたとはいえ、結局はどっちでも構わないんだ。勝っても負けても。本気でやったところで、今まで必死にやってきた人に勝てるわけないだろ。
二十五メートルを一本だけ泳ぐというシンプルなもの。泳ぎ方は自由……と言っても大体がクロールだろうけど。
どんどん抜かれていくのがよくわかる。
ほらな、こんなことしたって結果は目に見えてる。でもどうして俺は頑張って泳いでるんだろう。
明らかに俺の負けが決定した時、周りからは拍手が起こった。俺は手を壁についたまま、片方の手で帽子とゴーグルを外し息を整わせた。
後ろを向いて、何事かと先輩に聞こうと口を開いたが言葉は出せずに代わりに先輩に肩をつかまれた。
「すげえよ、お前」
興奮気味に言われたことに首を傾げると、また「すげえ」と漏らした先輩の顔は笑っていて。周りの拍手の意味も未だわからない。
「後輩に本気出したのは初めてだ」
はてなばかり浮かぶ俺には訳のわからないことを言っているとしか思えなかった。
すると上からあの人と兄が一緒に覗きに来て「お疲れ」とかけられる。
「すごいね!弟くん。
「練習しとかないと俺、負けそうだなー」
てっきり相当な差で負けたのだとばかり思っていた。俺が壁をついた時には先輩はもう立っていたし、頑張ってしたとはいえ俺はこんなものだと思っていたのに。
俺は、少しの差で負けたのか……。
春休みの練習が無駄ではなかったのかな、なんて考えて嬉しくなった。良かったと思った。
なんでこんなにほっとしてるんだって、不思議になるくらい体の力が抜けたんだ。
俺は先輩の後にプールから出た。
俺たちの突然始まった競争の後は、普通に部員の人たちは練習を再開しててあの人は競争を売りにして一年生を勧誘していた。
「あんな風になりたいならぜひ来てね!大丈夫、ちゃんと変われるよー!」
なんてことを大きな声で言っていた。
俺はそれをスルーして、着替えに行こうとするとさっき一緒に争った先輩が俺の前へと現れた。
「お疲れ様」
「……お疲れ様です」
軽く握手を交わして、少し目線の高い先輩に頭を下げた。
「いやあ、あんなに速いとは思わなかったな。君すごいね。あ、俺の名前は」
「矢田先輩……っすよね」
「そっか、水野が言ってたな」
あちゃーなんて顔をして、笑った。
この人もあの人とよく似ている。笑顔が印象的で優しい人に見える。でもあの人とは違った笑顔だ。好青年みたいな、みんなに好かれてそうな先輩だ。
あの人も好かれているんだろうけど。
「今日はありがとう。またやろうな」
そう言って練習に加わっていく先輩を少しだけ見て、俺はあの人に案内された更衣室へと向かった。……あ、体洗い流さないと。
***
着替えを終え、一気に疲れて重くなった体を動かして帰る気満々であの人たちがいるところへ向かうと、なぜか部員全員揃っていて俺を見るなりあの人は手を招いた。
せっかく頭の中からはてなが消えたと思ったのに、また出てきたことに溜息をついた。
今気づいた。なぜ兄貴もいる。
てっきり帰ったものだと思っていたのに、当然とでもいうように部員の中に混じっていた。
このままでは兄と帰るパターンだ。
「せーのっ」
俺が部員の人たちの前に来た途端、あの人は大きな声を出して。俺の体が少しだけ跳ねた。
「水泳部へようこそっ!」
ご丁寧にポージングまで決めて、そこにちゃっかり兄もいることになんだか笑えて。しかも俺は絶対入るっていうのは決定している。
これで入らないとか言っても無駄なんだろうな。あの人が止めるんだろう。
でも、いいかな。
入らないなんて俺の中にはなかったんだし。
そんなこと素直になって言える俺じゃないから、
「……入らなかったら“水野先輩”は、放送かけてでも入らせるでしょ」
「いや、今ならもれなく俺もついてくるぞ」
胸を張ってそう言った矢田先輩に、周りは笑っていた。
「部員全員で迎えに行きますよ、弟くん」
満面の笑みで相当怖いことを言われたけど、それは勘弁したいので俺も少しだけ笑って答えてみせた。
「それは嫌なので、入ってあげます」
それはそれは上から目線に。
帰り道。いつもだったら一人分の足音しか聞こえないはずなのに、今日は多めに聞こえる。
それは隣に相変わらず笑顔の兄貴がいるからで、まだ少し、少しだけ背の高い兄貴を横目で見た。
茶色がかったさらさらと少しセットした髪、俺は黒髪で大して特徴もない普通の髪。大きな目と笑うことを忘れない口元、俺は特別大きくない目に笑うことを忘れたかのように硬い口元。
身長は今から伸びるからまだ負けてない。
足のサイズは…………すこーしだけ負けてる。
成績は俺だって悪い方じゃない。むしろいい方だけど、兄貴には負けることが多々ある。それでもいい争いをしていたからそれほど差はない。
部活もそう。兄貴が上。俺は追いつくことを諦めた気だるげな弟。
そんな弟を責めもせず理由も聞かず普段通りに接する兄は本当はどんなことを思っているのだろう。
「水泳部、入るんだろ?」
「……言ったじゃん」
やっぱり嬉しそうにする兄はわからない。俺が水泳部に入ったからといっていいことがあるわけじゃない。むしろ中学の時の繰り返しにならないかと思うところだろ。
今日勝負(?)には負けたけど嬉しかった。高校入る前の練習が結果となって現れたし、頑張ることが出来たから。
「俺も頑張らないとな」
「……俺に勝たせようとか思わないの」
「あ、泳いでくれるんだ。やりいー」
「……」
しまった、と思う前に兄は気づいてしまい両手を拳にして掲げた。その姿を見ると何だかしてやられたみたいな気分になったのでとりあえず、軽く蹴った。本当に軽く。
それさえも嬉しそうに受けたから、そういうタイプなのかと疑ったが、ただ浮かれてるだけだとすぐに理解した。
どうせ勝負したところで、兄貴が勝つとわかっているのにそんな勝負する意味あるんだろうか。
最近兄の泳ぐところを見ていないから、どれほど速くなってるとかここが変化しているとかが把握出来ていない。そこは怖いところだ。兄は……言いたくないけど成長というものが早い。努力の賜物なんだろうけど、それでも兄はすごいと思う。
俺だって努力してたよ。諦める前までは。
「頑張れよ。兄ちゃん応援してっから」
「…………見に来なかったら完璧なのに」
「それは無理だなー」
肩を軽く叩かれた時、じんわりした温かさを感じた。何でか、すごく安心したんだ。
ああもう。嫌だな。
兄の笑顔も優しいその性格もたまにお節介で世話焼きなとこも、俺よりも大きな手も、ーーあの人からの想いも。
俺は本当に、負けているんだ。
何も近づけていない。兄貴はどんどん、どんどん、俺の届かないところへ行っているんじゃないかと感じる。
「アキー、どうしたー?」
ほら。
「……別に」
兄貴は俺の前を行ってる。
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