人魚姫
吉田はるい
1
初めて見た時。
『あの人の前世は人魚なんじゃないか』って思うぐらい、綺麗で早くて圧倒された。
たまたま休日に行われていた水泳の大会に俺は、半ば強制的に引きずられていくように連れてこられた。俺の兄によって。
去年、高校を卒業したのだがその時に入っていた水泳部が大きな大会までいっていると聞いて、見に来たらしい。
俺も兄の影響で水泳をやっているとはいえ、適当にやっている俺にとっては別に興味がないものだった。
大会なんてものは出れなくてもいい。ただちょっと楽しいからやってるだけ。中途半端にやってる俺には本当に帰りたかった。
兄が指さした選手。部内ですごく速かった選手だと言っていた。
兄が見てみろよっていうもんだから、ちょっと目を向けてどんなものかと俺は見ていた。
――甘く考えていた。
普通の上ぐらいだろ。なんて思ってたけど、それ以上にうまくて速かった。
フォームが綺麗で楽々と他の選手達を追い抜いていく。それはまるで魚が海を泳いでるみたいに、すいすいと。
その人は簡単に優勝をもぎ取って、表彰された。
圧倒される俺を見てか兄は笑って言った。
「すごいだろ、あいつの泳ぎ」
ゆっくりと頷いた。
来年から俺は兄と同じ高校に進学することが決まっている。まだ受験はしていないが受かるだろうと見込んでいる。
高校でも何となく水泳部に入って何となく泳ぐんだろうなって思ってた。でもそれはあの泳ぎを見てから変わった。
あの人の近くに行きたい。
もっと間近で見たい。
絶対にあの人のいる高校に受かりたい。
そんなことを考えた。
兄は言っていた。
「あの子の進化を見てみたかったよ。入ってきた時俺は三年だったから、ちょっと残念」
と。
兄もそこそこすごい選手だと思うのに。その兄がこんなにも真剣な目で面白そうに見るのは初めてで、それだけすごい人なのだと感じさせられた。あんなに人を褒めるなんて。
優しい兄だけど、進化を見てみたいなんて言うのはなかなかない。俺さえ言われたことない。
……まあ、そうだろうけど。
試合が終わった後、母校の水泳部員がいるであろう場所へ差し入れを持って兄とともに行く。
「水野、お疲れ。みんなもお疲れ様」
袋ごと渡して、みずのと呼んだ人に話しかける。その人はあの泳ぎの人だった。
「
「みんなの泳ぎ見てみたかったし。それにしても相変わらず速いな、水野は」
「ありがとうございます」
会話を聞いている限り、明るい人なんだなって思う。笑顔も耐えないし。
兄の後ろに間隔をあけて立っていると、ちらりと俺を見てから笑った。
「弟さんですか?」
「そーそー。可愛い俺の弟」
横に立たせられて肩を組まれた。恥ずかしくなって下をうつむいたけど、ちゃんと挨拶だけはした。
「はじめまして」
「お兄さんにはいつもお世話になってます。泳ぎ速いんだってね。楽しみにしてるから」
この人に比べたら、俺なんて比べ物にならないのに感心したようにそう言う彼女は、俺に笑顔を向けてくれて。楽しみにしてるから、なんて俺が進む道をわかってるみたいだ。
多分、兄に聞いたんだろうけどさ。
「みーずのー!集合だってー」
「今行くー」
「じゃ、俺は帰ろうかな」
「差し入れありがとうございました。先輩、たまには練習見に来てくださいね」
「見に行くよ。弟の泳ぎも見たいしね」
な?と顔を向けてきた兄に嫌そうな顔で返す。中学の時、大会に出たってそれを言わないで来ないようにさせてたから、今更自分の泳ぎを見られるのは物凄く嫌だ。
「面白いね、きみ」
「…………あざす」
なんとも言えない複雑な感情だけど、とりあえずってことで。
「じゃあ、失礼します」
「今度顔出すよ」
嬉しそうに笑って、もう一度お辞儀してから部員が待っている場所まで走っていった。
泳いでいる時はわからなかった長めの髪が、走る度に揺れて濡れた髪がキラキラして見えた。
「帰ろうか」
出口へと向かう兄に無言でついて行って、俺は考えた。
俺は兄に追いつけない。
俺だって最初は真面目に一生懸命やってた。兄に追いつきたくて勝ちたくて。でも、大人になっていくにつれそれは無理なんだとわかって、それからは本気でやらなくなった。
勝つことなんて諦めている。
勝てないってわかっているものに、どんどん差は開いていくばかりのものに、どうやって立ち向かえばいいかわからなくなった。
ムカついて兄の方を軽く殴った。
「なんだよいきなり」
「別に」
驚いて止まった兄を俺は抜かして歩いていく。
こうやって簡単に抜けたらどんなに楽だろう。そうしたら俺は今でも本気で水泳やってたのかな。
ーー少しでも近付けていたら、変わっていたのだろうか。
そんなこと無理で、兄はきっとすぐに俺の隣に並んですぐに追い抜いていくんだろうな。
隣にいる兄を見て思った。
「久しぶりに勝負したいね。速くなってるんだろうな」
「…………いつかね」
「おっ、言ったな。よしじゃあ約束だ」
なぜかウキウキしている兄に呆れた笑みを浮かべて俺達は大会会場を後にした。
あの人は、兄貴が好き。
見ていて嫌でもわかった。
俺は結局勝てないんだ。
兄貴もきっとあの人のことが好きだから。
***
無事受験(推薦だが)に合格して、その日の晩ご飯はすごく豪勢だったけど。とりあえずほっとした。
あんなにも緊張したのは初めてだった。もう面接なんてしたくない。するものじゃない。
暖房によって温められたこの部屋で一人、布団のふわふわとした感覚に包まれながら考える。あの人は今頃どうしているのだろうか、と。
水泳でいったのだから俺も少しは練習とかした方がいいんだろうけど、温室プールが近場になくしょっちゅう通えるほど手持ちのお小遣いは多くない。
頼んだら、水泳のことだからくれるんだろうけどそんなのは嫌だったから。週に一回は行くようにしている。
好きなことに使えるお金は少なくなってしまったが。
あの人の泳ぎを間近で見れるチャンスがきたのだ。
何度頭に思い浮かべたことか。その度に綺麗に半円を描く腕と水しぶき。(水しぶきに綺麗なんてあるかは俺にはわからない)
色褪せることなく、鮮明に思い出せる。あの泳ぎを。
どうやっても勝てないけど、せめて間近で見れる一年間だけはこの目にしっかり焼き付けておきたい。
俺は適当にやってきてしまったからーー。
わくわくとしたものと小さくもぞもぞとしている不安。
あの人に会えることと見れること、まだ未知の高校生活へのわくわく感。不安は、今まで適当にやってきた俺が本気の人ばかりがいるであろう水泳部に、入っていいのかやっていけるのかということ。
そうこう考えている時、ドアが二度叩かれて開かれる。
「ご飯だってよ」
そう言って俺の部屋にどすどすと入ってきた兄は、寝転がっている俺の隣、ベッドの脇に座った。兄の重みだけベッドは沈む。
「水泳、続けるんだよな」
「……うん」
「がんばれよー。兄ちゃんはいつでも応援してるから」
兄によってくしゃくしゃにされた髪の毛。満足気に微笑んだ兄の顔を片目だけで見た。
立ち上がって俺の部屋から出ていく。俺も飯は食べたいので起き上がろうと腕を起こそうとした時、兄は振り返ってこう言ったのだ。
「合格おめでとう」
入学して一、二週間後に体験入部の日がやってきた。俺は何の躊躇いも迷いもなく、水泳部のあるところへと直行した。
どうやら俺が一番乗りだったみたいで目線が一斉に向いて、驚きはしたがぼそぼそと名前だけは名乗った。
「萩野です。見学にーー」
「弟くんっ」
何やら下の方で声が聞こえると思ったら、プールに入ったまま俺の顔を見て笑っているあの人がいた。
頭を軽く下げてあの人を見るとそんなの見てなかったかのように、プールからあがり俺の前へ足を進めた。
「来てくれたんだね」
生憎、「はい」とか頷くとかそんなことをしない素直じゃない俺なので。
「…………来ないと放送とかけそうだと思ったので」
まさかこんなことをいうとは思わなかったのだろう。あの人を含めみんなが俺を方を見て、キョトンとした顔をしている。
でもすぐに笑い声が響いた。もちろんあの人も笑っている。お腹を抱えて。
「あははっ、やっぱり面白いね弟くん」
別にウケを狙いに行ったわけではないが、何やらとても面白かったんだと思う。俺はわからないけど。
複雑な顔をしているであろう俺に近くの先輩が、
「君鋭いね。水野はするもんな絶対」
「よかったね、呼ばれなくて」
周りの人たちが俺の言葉をその通りだと笑いながら言う。それに対して反論するあの人を見て、ああこの人は好かれているんだろうなと感じた。中心人物なんだろうと。
あの大会の時だって、初対面なのに変わりなく話しかけてくれたし笑ってくれた。面白いって言ったことは未だに意味がわからないけど。
でも、あったかい優しい人だと。
……何言ってるんだか。
その後はスムーズに見学出来て、練習内容とか部員人数、その他諸々知ることが出来た。
ちょっと仲良くなれた気もする。
でも、あの人には勝てないかもしれないが周りの人たちもレベルは高かった。
平均タイムは中学の時とはかけ離れていて、すごく速い。俺なんてこの中では最下位じゃないかと思うぐらい。
本当にやっていけるだろうか。
時間もあっという間で見学出来る午後五時を、もうすぐに迎えたところで帰ることにした。
「明日は水着、持ってきなよ」
もう入ってもらっても構わないんだけどねー。
なんてことを言いながら、俺に手を振り帽子をかぶりゴーグルをつけスタート台に立った。
飛び込む瞬間が見たくて、あの人が泳ぐところを少しでも見たくて、それが現れたのか足が自然と止まった。
深く深呼吸した後に、体を曲げて反動をつけて飛び込む。水しぶきが上がってすいすいと、魚みたいに泳いでいく。
相変わらず綺麗な泳ぎで。
やっぱり。違うって思ったんだ。
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