崩れたオリオン

二石臼杵

オリオン座はぶきっちょの証

「ご飯粒、ついてるよ」


 昼休みに浅海あすみが発した第一声がそれだった。


 頭上では青空が木々の額縁に囲まれていて、横を見渡せば木漏れ日が芝生にちらほらと降りそそいでいる。

 四限目の授業が終わり、疲れと眠気がまだなりを潜めている頃。秋孝あきたかと浅海は大学の裏庭で二人、ベンチに座っていた。


 膝の上に弁当を広げて、お互いにもくもくと、別段話すでもなくただ食べる。

 ときおり相手の横顔を見やることはあるが、タイミングがずれるので見つめ合いにまで発展しない。一緒に並んで食べているものの、とくに会話もない。

 喧嘩していて気まずいというわけではなく、これがいつも通りの光景だった。


 しかし浅海は気づいてしまった。秋孝の頬に、白いご飯粒がくっついていることに。

 咀嚼のリズムに合わせてご飯粒が上下に動く。目に入ってしまったからには、無視したくない。その思いが彼女の口の鍵を開け、食事中は喋らないという暗黙のルールを破らせた。

 指摘された秋孝の方はというと「そうだね」とだけ言って、ご飯粒をとるでもなく、そのまま箸を口と弁当箱の間で往復させていた。

 浅海はもう一度教えてあげるべきかどうか、箸を止めて考え込む。


 いい案が降ってくるのを待つかのように視線を上に向けると、さざめく木の葉のカーテンの隙間から、柔らかな日差しが差し込んできた。

 この人の考えていることは、相変わらずわからない。

 目を細め、そんなことを思った。






 秋孝に告白されたのは、ちょうど五日前、今いる裏庭でのことだ。

 あのときは今のように爽やかな快晴ではなく、どんよりとした曇り空だった。

 秋孝の想いを伝えられてから最初に浅海が抱いた感想は、何もこんな天気のときに告白しなくても、というひどく冷めたものだった。

 別に秋孝のことは嫌いじゃない。少し寝癖のついた髪も愛嬌があるし、眼鏡の奥の目は優しそうだし、背も自分より高くて好みだ。


 けれども、やっぱりもう少しムードというものを考えてほしかった。

 さらに言うならば、間も悪かった。

 浅海はここ半年ほど、彼氏と別れたことを引きずっていてばかりいた。はじめての彼氏だった。高校時代の片想いが実った、はじめての恋だった。だからこそ、別れたあとの浅海の胸には見えないおもりが巻きついて離れなかった。


 もちろん、大学に入ってから知り合った秋孝がそのことを知っているとは思えないし、知らない相手に気を遣ってほしいと思うのも勝手だと頭でわかってはいるのだが、どうしても「なぜよりによって今なのか」という不満を抱かずにはいられなかった。


 どう返事をしようかと答えあぐねているうちに、ぱらぱらとまぶすような小雨が降りだす。

 悪いけどやっぱり断ろうか、と浅海が考えはじめたときだった。


「あのさ」


 秋孝が口を開く。


「もし考え中なら、そこに座らない?」


 そう言って彼が指差したのは、裏庭にひっそりとあるベンチだった。

 木に囲まれていて晴れの日はいい日陰になるが、ぼろぼろなので誰も使おうとしない、年季の入ったベンチだ。

 伝統があるほど古くはなく、座りやすいほど新しくもなく、撤去するほど危険でもない。とにかく中途半端な、もてあまされたものだった。

 本当にどこまで空気が読めないんだろうと呆れた浅海は、ベンチを見てわずかに目を見開く。


 表面が新品のようにつやつやときらめいていたのだ。

 ささくれ立った木の肌はやすりで磨かれて、その輝きはニスできれいに閉じ込められている。

 半年間、毎日毎日浅海にまとわりついていた錘が、このときばかりはどこかへ飛んでいっていた。急に軽くなった肩に拍子抜けして、浅海は思わず勧められるままベンチに腰かける。秋孝もそれに続いて隣に座った。

 生い茂る木々がベンチを守り、雨粒をほとんど通さずに二人を温かく見下ろしていた。


「この椅子、土山つちやまくんが?」


 その頃はまだ、お互いに相手のことを苗字で呼ぶ間柄だった。


「うん、まあ。午前中の講義さぼっちゃったけどね」


 頬を掻く秋孝はどこか後ろめたそうでいて、ほんの少し嬉しげにも見える。


平川ひらかわさんと座ってみたくって」


 たったそれだけのために、わざわざベンチを手入れしたのだろうか。

 浅海が座るという確証もなく、そもそも話を聞くかどうかもわからないだろうに。

 よほど自信があったのか、それとも単にアプローチ下手なだけなのか。そのときの浅海にはまだわからなかった。


「おれ、平川さんの横顔が好きなんだ」


 ベンチに座って正面を向いたまま、秋孝が言う。爽やかな言葉に反して、その横顔は心なしか強張っているように思えた。頬がぴくぴくと痙攣している。


「それだけ?」


「他にもあるけど、一番はそれ」


 質問に答えるときも、彼は向かいにある北棟を見つめているだけで、こっちを向こうとしない。


「ねえ、喋るときは相手の顔を見たら?」


 やや苛立ちを含んだ口調で浅海は話しかけた。対する秋孝は、相変わらず北棟の方を見ながら口を開く。


「……じゃあ、お願いがあるんだけど、おれが平川さんを見ている間だけ、横を向いていてくれない?」


 自分に好意を持っている相手のものとは思えない提案に、浅海はさらに呆れた。


「私の横顔が好きだから?」


「そう」


「正面は嫌いってこと?」


「そうじゃないよ、横顔が一番好きなんだ」


 ふうん、と。浅海はそれだけ言った。

 正直、どう反応していいのかわからない。なにしろ、横顔を褒められているのだから。素直に喜べることでもないが、そんなに悪い気もしない。

 自分では見えない自分を好きになられているということが、かえって浅海を困惑させた。


「見るけど、いい?」


 心の整理が追いつかないままに秋孝がこちらに顔を向けたので、浅海はとまどった。

 二つの瞳が自分を見ている。

 こうまで遠慮のない視線を浴びせられたのは久しぶりだ。いや、ひょっとするとはじめてかもしれない。

 高校時代の彼ですら、ここまで浅海だけを見ようとしてくれていただろうか。

 目が合った瞬間に焦りが生まれ、慌てて視線を逸らす。

 結果的に横顔を見せるかたちとなってしまった。


 視線が熱を帯びているかのように、見られている側の頬が妙に温かくなっている気がする。

 浅海は自分の鼓動が耳に響くのを感じた。

 自分だけまじまじと見られるのは、こんなに恥ずかしいものなのか。


「はい、平川さんの顔を見たよ」


 こちらの気も知らないで、いけしゃあしゃあと言ってくれる。


「返事は今じゃなくてもいいから、考えてくれると嬉しいな」


 そう言われても、二人きりでベンチに座って見つめられているこの状況をほっぽり出して「考えさせて」と言えるほど浅海は図太くない。

 最初からこういう流れに持ち込むのが目的だったのか。

 天然なようでいて、案外この男は策士なのかもしれない。


 浅海はうつむき、湿って艶を帯びた芝生を眺めていた。

 雨粒の音だけが、しとしとと耳に届く。

 視線を手前にずらすと、ぴかぴかに磨かれたベンチが目に入った。

 それを見て、ふっと口を開く。


「一週間」


「え?」


 このときの秋孝は目を丸くしていたに違いない。構わず浅海は続けた。


「一週間、お試しっていうのも変だけど、つき合ってみて、それから決めていい?」


 不思議がる秋孝の声に、うつむいたまま答える。

 とりあえずつき合ってみようと決めた。高校のときの彼を忘れる、いい機会なのかもしれない。少なくともこの人といる間は、あのいやな気分から解放される。そんな気がした。


 同時に、後悔と後ろめたさもじりじりと背後に迫ってくる。

 自分は自棄になったあまり、へんなことを口走ってしまったのではないか。こんな逃避のようなつき合い方があっていいのか。

 そして、好きだと言ってくれた相手を幻滅させてしまっていたらどうしようか。

 さっきまで告白を断るつもりでいたにもかかわらず、浅海は自然とそんな心配をしていた。

 新しい恋をするほど、好きではなかったはずなのに。


「いいの? じゃあよろしくお願いします、平川さん」


 顔を見なくても、彼が笑っているのは伝わった。


「こちらこそ、秋孝くん」


 返す浅海の意図をくみ取り、秋孝の笑みの雰囲気がいっそう濃くなる。


「うん、浅海さん」


 言いなおす彼の声は弾むように軽くて、いつの間にか雨は上がって校舎の向こうには虹がかかっている。そのときはじめて、浅海は秋孝の告白をロマンチックだと、確かに感じた。

 お互いに目も合わせない奇妙な関係だけど、それでも淡い期待を抱くには充分だった。






 だというのに。

 浅海は隣で弁当を食べる恋人を見やる。

 ご飯粒を頬につけたまま口を動かしている秋孝の横顔を拝み、再び視線を自分の手元に戻す。弁当箱の端っこでは、ミニトマトと卵焼きが肩を寄せ合っていた。

 あの告白から今日で五日目になる。けれども、彼はこれまでとくにこれといった動きは見せていない。

 デートに誘うでもなく、休日に会うでもなく、ただお昼を一緒に食べるだけ。その食事中もほとんど会話はない。


 本当に恋人を続けようという気はあるのか。好きにさせようとか、そういった気持ちはないのか。

 何より、そんな不安や苛立ちを抱いてしまっている自分自身に浅海は驚いていた。

 これではまるで、恋をしているのは自分の方みたいだと、そう思えてならない。

 もやもやした思考の渦を振り払うように秋孝の横顔を見る。が、違和感を覚えた。


 彼の頬にくっついているご飯粒が二つに増えている。一瞬見間違いかと思ったが、確かに二つある。

 これはどういうことだろう。そこまでまぬけな食べ方をしている風ではなかったが。

 浅海の関心は頬についたご飯粒へと向きを変えた。

 何か意味があるのだろうか。考えを巡らせるために視線を落とす。ミニトマトが箸からつるつる逃げるので、思い切って突き刺した。

 ミニトマトを頬張り、噛みしめても答えが出るはずもない。しょうがないのでまた隣を見ると、ご飯粒が三つになっていた。


 わけがわからない。

 それから時間を置いて何度か視線を秋孝と自分の弁当箱を行き来させるうちに、頬のご飯粒の数はついに七つにまで増えていた。

 恋人の頬に、崩れたオリオン座のようなものができている。

 そうか、彼は宇宙だったのだ。そんなばかな。


 くだらない考えをやめたとたん、あの錘がやってきた。

 前の恋人とオリオン座を見た記憶がよみがえってきたのだ。

 お互いに星座に詳しくはなかったが、雰囲気を楽しみたくて慣れない望遠鏡を覗き込んだことがあった。今の今まで忘れられていたのに、どうして。


 いきなりの秋孝の奇行に、浅海は混乱するばかりだった。ひょっとして自分は弄ばれているだけなのかもしれない。

 頭を切り替えようと、最後に残しておいた卵焼き(ひじきの入っているお気に入りだ)をかじる。卵に閉じ込められていたひじきたちが口の中でほどけていく。唇の端から一本だけひじきが顔を出していたので、爪で少し押して口の中に戻してやった。

 弁当箱のふたを閉じてゴムのベルトで留め、ケースにしまった箸とともにランチバッグに入れる。


 ぼうっと上を見上げる。木漏れ日がいくつか目に飛び込むが、まぶしいほどではない。ちょうどいい日陰具合。手の平を横に置くと、なめらかなベンチの感触が伝わってくる。ここは彼の用意してくれた、とっておきの憩い場だ。

 オリオン座は変わっているだろうかと、おそるおそる秋孝の方を向く。

 彼と目が合った。

 ご飯粒をひとつ、指先につけて頬へ運んでいたところだった。

 いたずらを見つかった子どもみたいに彼はぎくっと動きを止め、指のご飯粒をとっさに口に入れ、慌てたように目を逸らした。


 一連の流れを見て、浅海の頭の中の霧が晴れていく。錘はずいぶん軽くなっていた。

 秋孝は狙ってやっていたわけではない。でなければ、もう一つ星を追加しようとする理由がない。

 よくよく見れば、彼の頬はやや赤みを帯びていた。おかげで白いご飯粒がよく目立つ。どこかおめでたいその対比に、それまで絡み合っていた苛立ちや不安がするりとほどけ、心に余裕ができる。

 秋孝が照れていたと気づいただけで、なんだか嬉しかった。


 彼はただ、恋人にご飯粒をとってほしかっただけなのだと。そのなんてことのないしぐさに憧れていただけなのだと。そう考えるとすっきりした。

 今ならわかる。横顔が好きと言ったのも、視線がはち合わせるとすぐに目を逸らすのも、単に見つめ合うのが恥ずかしかっただけなのだ。

 そんな彼が可愛らしく見えて、浅海はつい声を出さずに笑った。

 どこまで気の利かない、不器用な人なんだろうか。そして、それはきっとお互い様なんだ。


 無理をして今までの恋を忘れる必要はない。焦らずにゆっくりと、錘が羽よりも軽くなるのを待てばいい。

 すぐに前の恋心をリセットするなんて、どちらの彼にも失礼な気がした。


「ねえ、ご飯粒ついてるよ」


 確認のために、もう一度だけ声をかける。秋孝は自分で頬のご飯粒をとるべきかどうか、悩んでいる様子だった。やはり、とってほしいがためにつけたらしい。

 お互いに言葉足らずで、いつすれ違いになってもおかしくないけれど、その距離感が今の浅海にはぴったりだった。

 浅海は無理をしていたし、秋孝は遠慮をしていた。

 自分の気持ちをうまく伝えるすべを知らなかった。

 嫌われたらどうしようと不安になって、動けなかった。

 ご飯粒は、そんな迷路から抜け出そうとした、秋孝なりの抵抗なのかもしれない。


 浅海は無性に、彼を安心させてあげたくなった。

 ここでご飯粒をとってあげるのは簡単だが、それではいまひとつ足りない気がする。

 今までさんざんじらされたのだ。秋孝にも、彼への気持ちの変化に目を向けようとしなかった自分にも。

 だから、ただとるだけでは割に合わない。

 今度は自分がいたずらをする番だ。浅海は少し腰を浮かせて隣との距離を詰める。


 そのまま秋孝の口に一番近いご飯粒に、そっと唇を寄せた。

 オリオン座の星が一つ消える。新しいキスは、冷めたお米の味がした。

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