神の螺旋
春野
第1話
――神が死んだ。
その史上最悪の通達が各国へと為されたのは、およそ三〇〇年前のことだ。
神はこの日出づるこの国で誕生し、そしてやはりこの国で突然亡くなったのだった。それはもう、人々が慌てふためく間もなく突然に。病気であったわけではない。何せ神だ。
だが、神はある日突然死んだ――、一見『死』とは無関係でありそうな存在であるにも関わらず、神は死んだようだった。納得がいかないが。
神の奇蹟などあるのだろうか。神と同じ国に生まれ育った
尤も、それは脳内会議であって、議長はおろか書紀も不在の『一人会議』であったが、この際それもやはりどうでもいいことだった。専らの議題は『実際のところ、神様なんて居たわけ?』と言う話である。
暦の上では季節は春。のんびりとした春の朝、寄木は今日も一人会議に興じていた。寄木が義務教育大学を卒業して三回目の春である。全く信じがたいことに、神の存在を疑って憚らない寄木のような人間が、もう二十五年も生きているのである。不思議なものだ。
神の存在を疑うような罰当たりは、本来死ななくてはならないのだが――、どういうわけかこのように、大変ありがたいことに、寄木は健在である。
神に感謝! そんなことを考えながら、トーストをコーヒー(コーヒー豆に限りなく似た遺伝情報を持つ物質を、炒って砕いてお湯を注いだものである。ホンモノのコーヒーは疾うの昔に絶滅している)にチャプチャプを浸しながら咀嚼したのであった。
この世の全ては神次第。そう小さな頃から教えられてきたのだから、寄木がこうして生きているのも神の思し召しなのであろう。その神はとっくに亡くなっておいでであったが、神殿に居座り政を行う神官によれば、『神の御遺志』なるものでこの世は守られ健全性を保たれているというのだから、きっとそうなのだろう。寄木はそんなことはあまり信じては居ないが、まぁそんな人間が生きているのも『神の思し召し』なのだから仕方がない。
今日も明確な決着が着かなかった会議はお開きにして、濡れたトーストを片手に寄木はテレビを点けた。
「今日は午後から『降雨の予定』と神殿が発表。外出には傘を忘れずに」
浮かび上がるホログラムの虚像が、開口一番にそんなことを笑顔で知らせている。
雨かぁ、と寄木は溜息を吐く。月曜は仕事が多いから、あまり雨は歓迎できないのだが、それに不平不満を漏らして神官の怒りを買うほど、寄木は愚かしくはなかった。
降雨は神殿の意思によって完全にコントロールされている。何を基準に日付を選んでいるのか皆目判らないが、兎に角、神殿の神官たちが『降らせたい』と感じたときに雨は降るのである。一般人はただ大人しくそれに従うだけで、不平を漏らす自由はない。なにせ、神官とは、『神の御遺志を引き継ぎこの世を正しく保つ使命を担った者』なのだ。つまり偉いのだ。逆らえるはずがない。
「でもなぁ……」
寄木はコーヒーに角砂糖三つ――、これも勿論本物の砂糖ではない。あれはとても高価だ――、を入れて考えた。
だが、なにも月曜を選んで雨を降らせることはないと思うのだ。
「はぁ……」
自然と溜息が漏れる。ただでさえ月曜日は仕事が多いというのに、なんと非道な仕打ちであろう。憂鬱な憂鬱な月曜日、その上雨と来た。まな板に乗った鯉に『お前は今から死ぬんだよ』などと宣告するようなものであろう(最も、寄木は鯉を見たことがないので、それがどんな魚なのかは知らない)。
兎にも角にも、神殿に篭りきりの彼らに、雨の中ダサくて蒸れる合羽を身につけ西へ東へと奔走する寄木の気持ちなど、きっと判らないのだ。
できれば悠々自適な神官様になりたいものだが、生憎あれらには尊い血の流れを汲む者しかなれないらしいのだから、仕方がない。
「時刻は八時になりました」
アナウンサーの女性がノイズの混じった虚像の中、綺麗に微笑んでみせる。
ング、と息の詰まったような音を立てて、寄木は慌ててトースト――、ひたひたにコーヒーを染み込ませたもの――、を咀嚼など碌にせぬまま飲み込むと、椅子を蹴るようにして立った。
少々、脳内会議を長引かせすぎたようだ。始業まであと三十分しかない。ツルツルの床に足を取られそうになりながらも、ソファに放置してあった黒いツナギを引っ掴み、今度はそれに足を突っ込む。
靴下の柄が左右で異なったが知ったことではない。要は履いていればいいのである。取り敢えずは靴下と黒いツナギ、そして靴を履いていれば文句は言われない。寄木のツナギの下がパンツと靴下だけだなんて、誰も知らないのだから問題はないはずだ。
問題はない――、不信心者がことごとく排除される世において、しかし寄木のような信仰心薄い人間がこうして生きているのだって、誰も寄木の内面を知らないのだから、きっと問題はないことなのだろう。
寄木の仕事は掃除屋だ。
掃除屋と言ってもただの掃除屋ではない。立派な国際公務員である。
神殿で死体をベルトコンベアに乗せたり、血液で汚れた床をブラシで擦ったりする仕事は、一般のビルや病院の掃除を請け負う業者とは仕事の内容が明確に異なり、職業としても全くの別ものとして世間様にも認識されている。
なにせ神殿所属の国際公務員だ。国に属している国家公務員ともまったく別格扱いの存在で、正直、合コンでもモテる。
とは言え、仕事はかなりキツい。
特にコンクリに染み込んだ血液を洗い流すのは大変難しく、ちょっとしたコツが要されるのだ。そして、月曜はその掃除屋の仕事が最も忙しい曜日だ。
なにせ神殿勤めの名誉処刑人たちは土日の間にもせっせと働き、子供たちを殺しまくる。彼らはそのまま死体を放置するから、月曜日には仕事が増える。
死体の処理は早いほうがいい。生命活動を止め、肉の塊と化した子供たちは、どんどん腐っていく。遺体を火曜日までを持ち越すと、腐敗した肉から溶け出した『何か』が床へと滲み、奇妙で不潔そのものの匂いが部屋全体の空気を汚染する。
クレームを受けるのは真っ平ゴメンであったから、月曜のうちに全ての遺体を処理せねばならなかった。
数十に渡る死体を焼却施設へと運ぶのが、また骨の折れる作業なのであるが、それが寄木の仕事なのだから仕方がない。
本日は雨を降らすとの通達があったのだから、さっさと仕事をこなしたほうがいいだろう――、そんなことを考えながら、寄木は職場へと向かってひた走った。
「おはよう!」
見知らぬ誰かが寄木に声を掛ける。寄木も清く正しい『地球人』として真っ当であることを装うべく『おはよう』と返答をする。
時刻は八時十分と二十秒。レンガ造りの小道を、出勤途中であろう人々が行きかっている。両脇に植えられたヒマワリ(遺伝的にも列記としたヒマワリである。これは焼け落ち、のちに海の底へと沈むことになる、ノルウェーの世界種子貯蔵庫から奇蹟的に回収されたものだ)が、立ち並ぶ薄汚れたビルとのアンバランスさにまるで気づかぬようにサワサワと揺れていた。
全く暢気な風景である。
ビルの隙間から覗く空は高く青い。太陽は激しくぎらつき、まるで夏。温度は三四℃であったから、気温としては夏と言っても差し支えはないだろう。とは言えカレンダーはまだ四月であったから、失われた四季を忘れられないこの国の国民は、今を『春』と称するのだ。
彼らは四月を『春』と呼ぶし、七月は正しく『夏』、十月はたとえ気温が三〇度であっても『秋』であるし、肌寒さを微塵も感じず半袖で出歩く一二月を『冬』と呼ぶ。
そんな拘りを捨ててしまえば楽になるだろうに、なにやら四季と言うものは日本国民に深く根付いたアイデンティティに一つであって、決して捨てられないものだというのだから厄介だ。桜復興プロジェクト――、そんなものを国が資金を提供してまで行われるのだからまったくまったく、四季に執着を見せる人々は厄介で暢気な存在だ。
桜なんてなくても死にはしない。桜に復活に資金を投入するよりも、ほかにやるべきことがあると思うのだが――、神殿の神官たちが国会で『復活するべきだ』と発言し、そしてそれが議決してしまったのだから仕方がないのだろう。
因みに同時期には、『稲復興プロジェクト』なるものも立ち上げられている。
兎にも角にも、この世の全ては、神官たちが操っているのである。寄木たち一般国民はそれに付き従うよりほかはないし、政治家と呼ばれるお飾りの存在たちもまた同様だ。
おはよう、おはよう、おはよう。
気味の悪いほどに健全で清潔な挨拶は無限に繰り返される。
神殿が定めた『隣人を愛し、挨拶を怠らぬこと』という決まりを厳守しつつ歩みを進め続けると、やがてレンガの先に神殿――、周囲のビル群から、抜きん出て高い建物だ。形状は円柱で、その天に届かんばかりの先端は、何かに削り取られたかのように斜めにカットされている――が見える頃になると、すれ違う人々は、寄木を羨望の眼差しで見つめるようになる。人々が海に面した市街地に向かう中、山を目指し歩みを進めるのは神殿勤めのみであるからだ。
「手足様だ」
子供が声を弾ませながらそう言うと、寄木に向かって手を振った。寄木も当たり障りのない微笑を作りながら、子供向かって手を振った。
なんの力もない平凡そのものの寄木までをも敬う必要はあるまいに――、そう思いつつも微笑んで見せるのは、それが『神殿』が定めた決まりであるからだ。
神の手となり足となり生きていく『手足様』は、地球人すべてのお手本なのだ。
額を滑り落ちる汗を、手の甲で拭う。春らしい猛暑日である。この陽気で、雨を降らせるというのだからたまらない。きっととても蒸し暑くなることだろう。
寄木は平坦な道を只管走った。
――寄木の住まうこの街は、日本中部支部と呼ばれる日本最大の陸地である。昔は山も海もある豊かな都市だったと聞くが、今は見る影もない。
どこまで行っても平坦で、海と陸地の境目は実に曖昧、そして立ち並ぶビルが途切れたかと思えば急に海へと繋がる。
寄木の職場は海から最も離れた場所にあり、嘗ては『山』と称されていたようだが、今は開墾され海の際と然して変わらぬ海抜となっている。
世界の全てがこんな状態だ。海底を開発するなどと言う夢物語もしばしば耳にするが、それがあまり現実的ではないことは子供でも判る話であろう。
人が住める陸地が少ないのだから、居住区は自然と縦に伸びていく。高いビル、小さいビル、それらの隙間を寄木は駆け抜けていく。
宙を浮遊する電子広告にちらりと目をやれば、『礼拝へ行きましょう』と言う旨の政府からの――、つまり神殿からの『お知らせ』が緩やかに点滅していた。
礼拝に、何年行っていないのだろうか。思い出したくもなかった。
神殿まであと十分程度。寄木は相変わらず走っている。
もう間もなくセキュリティドアの前である。ドアの横の小さな窓口には、寄木と同じく神殿勤めの人間が座しているはずだ。
神殿とその周辺一キロメートルは、高さ二メートル程の鉄壁に覆われ、神殿を何かから守っている。
壁には五〇〇メートルごとにセキュリティが施されており、つまり約十二ケ所に窓口がある。
窓口に鎮座する人間は、特に何もしていない。神殿を訪れた者が、怪しい動きをしないかどうか、見守っているだけの仕事なのである。これで寄木と同じ給料なのだから、全く腹が立つ。
その腹が立つ受付の――、今日は妙齢の女性だ――、に地球人らしい健康的な挨拶をし、寄木は彼女が見守る中、鉄扉の取っ手の直ぐ横に設置されたセキュリティボックスを覗き込んだ。己の九桁からなる『地球人ナンバー』を、計算機のようなキーボードを使い打ち込んで行く。ちなみに表記は漢数字である。それらを打ち込んだのちに、今度は五桁で構成された国際公務員ナンバーを打ち込んだ。そして漸くパスワード。寄木が不審人物ではないことが証明されると、扉は重々しい音を立てて開錠された。
軋む金属音。まるで地獄の入り口だ。美しさも神秘的な要素も一切を持ち合わせていないこの黒塗りの扉。無骨で無愛想なこいつが神の住まいの入り口だというのだから、滑稽だ。
神はもう居ない。
ならばこの鉄扉でなにを守っているのだろう。
ふとした瞬間に、寄木は神殿への『不信感』が頭を擡げるのである。いや、端から信用してなどいない。最初からそこにあるのは疑いばかりだ。
寄木が生きていることこそが、神殿がなにも神秘的な力など有していないことの証明なのではないだろうか。
神の御遺志――、そんなものは、存在しないのではないか。
「いかれている」
この世を統べるシステムも横暴で不完全。完璧なはずの神が作ったとは思えないような荒さだ。あの塔の如しビル。円柱の先端を斜めに切り落とした、まるで天を貫かんとする針のような形状。その先端に、神がいたことなど本当にあったのかさえ、怪しいものだ。
ぼんやりとした呟きは、僅かにそよいだ風にかき消される――、はずだった。
「言葉を慎みやがれ」
咎めるような言葉と共に、後頭部に小さな衝撃が走る。どうやら、何かで頭を軽く一発、殴られたようだった。
神が嘗てお住まいになられていた塔を睨みつけての発言だ。捉えようによっては神への冒涜とも取られかねない発言を、何某かに聞き取られたことになる。が、寄木はゆっくりと後ろを振り返る程度で、焦ることもなければ怒りを示すこともない。
「聞いていたのが僕じゃない別の誰かだったら大事にされんぞ。少しは気ィつけろ」
声を潜めて男は言った。
「聞かれたら聞かれたでその時だ。それが神の思し召しというものだよ。おはよう、ヨク」
「おはよう、じゃねぇよ――、おはよう」
人と人はまず正しい地球人として挨拶をせねばならない。それは人々が健やかに平和的に暮らすための手段の一つとなり得るから。
「本当に、気をつけろよ」
「判っているよ」
「判っちゃいないね、テメェは無防備すぎるんだよ」
澤野と寄木は長い付き合いだ。ハッキリと口にしたことはなくとも、寄木の不信心をなんとはなしに察している。
「気をつけるよ、神官見習い様」
とってつけたような言葉に、澤野の視線がスッと冷える。
「僕はお前のそういうところが嫌いだね」
神官見習いは、苛立ったようにして早足でレンガを踏みしだきながら去って行った。
塔の、丁度斜めに角度がつけられた場所。そこから上には、神官しか入れない決まりとなっている。
澤野はその斜めの『神域』と呼ばれる場所で仕事をしているのだ。
義務教育初等教育学校からの付き合いとなる彼は、ある日突然神官見習いとなった。同じ釜の飯を食い、同じ教育を受けたにも関わらず、澤野は急速に寄木とは格の違う人間となってしまったのだ。職業に貴賎はないというが、職業によるヒエラルキーはこうして、確実に存在するのである。
現に寄木は神殿勤めでも下っ端の掃除屋で、方や澤野は神官見習い様だ。
だが、そんなことはまるで知らぬかのように、空は健全に清々しい青を保っている。
健康的で、健全な青。そして、清潔感のある『神殿』。
人は確実にランクわけされ、生死さえをも神殿に委ねられているこの世界は、神の御遺志によれば『全て正しい』のだから狂っているとしか言いようがない。
いつか塔の切っ先が空に触れ、今度こそ本物の神が、地上を今度こそ滅ぼすために降りてくるのではないか。
そんな妄想をする人間は、寄木を除いてこの世には一人も居ないのだ。
異常だ。
地球人のほぼ一〇〇パーセントの人々から見れば、異常者は寄木だろう。だが、そんな調和が保たれた世界を、寄木は異常だと感じるし、不気味だとも感じる。
「暑いな」
額から滑り落ちる汗を拭う。今日もいつも通り暑くなるだろう。
寄木の歩く歩道の横を、大型のトラックが通り過ぎていく。
排ガスなど疾うの昔に廃れた存在で、車は音さえ碌に立てずに走り去る。幌を被せられた中に、一体何人の『子供』が入っているのだろう。
寄木は何故、この幌のついたトラックに乗らずに済んだのだろう。
陰鬱な気持ちと疑念が立ちこめたが、寄木は溜息を引っ込めて再び走り続けた。
ここはプライベートな空間ではない。澤野の言うとおり、いつ、誰が寄木の様子を眺めているのかわからないのだから、神の御遺志を信じきった健全な『地球人』らしく、美しく振舞わなくてはならないのだ。
空が青い。海は真っ黒で海底に何かを隠している。白亜の塔は健全の象徴。
寄木は健全で居なくてはならない。
神など微塵も信じていない寄木が、二五年も生きている事実は、寄木の人生で唯一の奇蹟と呼んでも差し支えのないものであった。
神の螺旋 春野 @_haruya_
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