4

「うーむ、これはどうしたことだ」

 何だか先ほどから心臓が痛い。胸が苦しい。

 先ほど――葉漆はしちの笑顔を見た辺りから、だ。

「いやいや、そんなはずは……」

 多少顔は整っているけれど、中身は極悪非道だし、ぺったんこだし。僕のことを虫ケラ程度にしか思っていないし、何よりぺったんこだし……。あとぺったんこだし。

 だから、きっとこれはそういうことではなくて。

 レーゲンの正体があの葉漆玲音はしちれいんだという事実に動揺しているだけなのだ。

 うん、そうだ。

 たぶんそうだ。きっとそうだ。絶対そうだ。

 そうやって自分に言い聞かせながら、我が家の前まで辿り着いた。

 僕の心臓は未だに正月恒例のお家芸よろしく、いつもより早めのペースで収縮を繰り返している。

「うおお、鎮まれ、僕の心臓!」

「そんなことしたら死んじゃうよ」

「問題ない、手加減するから!」

「一体何があったのか知らないけど、大丈夫?」

「割と大丈夫ではない――うわ、旋風つむじ!?」

 僕の独り言にごく自然な流れで入って来たものだから、全く気が付かなかった。

「往人」

「よ、よう……。何か久し振りだな。確か、先月の祝日に本屋の前でばったり会ったっきりだったっけ?」

「この一ヶ月の記憶、すっぽり抜け落ちてるね……」

 まあ、そんないつもの冗談はさておいて――。

 さて、この場合、彼女に何と言ってやればいいのだろうか。

 友人だと思っていた葉漆に軽くあしらわれ、その葉漆は僕と一緒に書店へと消えていったというのだから、彼女としては複雑な心境だろう。

「葉漆さんと、何話してたの?」

 案の定、彼女はそんなことを尋ねてきた。

「ええとだな……」

「葉漆さんと、二人っきりで、何を話していたのかな?」

 こちらに一歩、ずい、と詰め寄ってくる。顔は笑っているのだけれど、何となく怖い。

「その辺、詳しく聞かせてもらうからね」

「お、おう……。まあ何だ、こんなところじゃあれだし、とりあえず上がれよ」

 何かを追及するような彼女の視線から逃げるように背を向けて、玄関へと向かって歩き出す。

「あ、お兄ちゃん。お帰りなさい」

 甲斐甲斐しくも出迎えてくれたのは、我が不肖の妹。不肖すぎてどこにも出せないから、僕が貰ってやりたい。

「ああ、ただいま」

「それに――」

 紗奈はここで、僕の後ろにいる旋風に気が付いたらしかった。

「これはこれは女王陛下。よくぞお出で下さいました」

「せめて『お姉さま』くらいで留めとけ!」


 場所は変わって、僕の部屋。

 僕は旋風を部屋に通すと、室内で紗奈が隠れられそうな地点を隈なくチェックして回った。天井裏や通気口なんかは冗談としても、僕の部屋は意外とかくれんぼに適した作りとなっていた。

 旋風が不思議そうな顔をしていたが気にしないことにして、僕は作業を完遂。どうやら、奴はどこにも潜んでいないようだ。

「まあ、わたしは、往人が葉漆さんに何かするとは思えないんだけどね」

「はあ……そうか」

 幼馴染の信頼を勝ち得た――のだろうか。

 どこか釈然としない。

「それで、あの後何話してたの?」

「大したことは話してないよ。まあ、お前とのことは聞いたけど」

「そっか」

 彼女は納得した風に呟く。

 まあ、あの状況だ。彼女にしてみても、きっとそういう話をしていただろうことは容易に想像がついたのだろう。

「友達――なんだろ」

 一瞬、過去形で表現しそうになったのを、どうにか抑え込んだ。

 きっと彼女は、今でも葉漆を友達だと思っているのだろう。

「うん。……まあ、ね」

「いろいろ聞いたよ。一足す一の証明の話とか」

「そんな下らないことまで聞いたんだ……。いや、あれはね? 葉漆さん、そんな感じで、あのままだったら教室の空気悪くなりそうだったから、手を打ったんだよ。どうにか更生させようと思って」

「お前らしいな」

 本当にこいつは昔からぶれないな。

 その辺、僕とは大違いだ。僕にはもったいないくらいの、よく出来た幼馴染である。

「わたしは葉漆さんのこと、今でも友達だと思ってるんだけどな。そう思ってるのは、わたしだけだったのかな」

「……いや」

 辛そうに歪められた旋風の表情。

 あの書店で、葉漆も同じように辛そうな表情を浮かべていた。

「あいつも、お前には親しみを感じてる、って言ってたぞ。まあ、ただ……いろいろと複雑なんだろうけどな」

「そっか……。でも、嬉しいな」

 旋風はそう言うが、きっと本心では、昔みたいな関係を望んでいるのだろう。

「ねえ、往人は葉漆さんのこと、どのくらい知ってるの?」

「どのくらいって……。まあ、ニートになった経緯くらいは聞いてるよ」

「往人には、ちゃんと話したんだね……」

「ん? うん、まあな」

 僕は彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。

「え、じゃあお前は聞いてなかったのか?」

「うん。聞いてない。わたしがそれを知ったのは、葉漆さんが学校を辞めてちょっとしてからのことだよ。あらゆる情報ネットワークを駆使して集めた情報を、わたしなりに整理して推理して――真実に辿り着いたのは、夏休みが終わる頃だったかな」

「末恐ろしい奴だな……」

 情報ネットワークとは一体何なのだろう。

 僕もそのネットワークに監視されていたりするのだろうか。

 となれば下手なことはできない。するつもりもないけれど。

「ねえ、さっき見た感じだと、どうやら往人は葉漆さんと結構仲良さそうだよね」

「え? うーん、どうだろう?」

 まあ、僕はあいつと話していて、それなりに楽しいと感じているのだけれど。

 僕の方だけが知りえた情報として、あいつはゲーム世界における僕の親友でもあるわけだし……。

 だが、向こうがどう考えているかなど、僕には知る術もない。ましてや相手は、何を考えているのか分からないあの葉漆玲音なのだ。

「いや、わたしは往人が誰と仲が良かろうが、別に構わないんだけどね?」

「うん? ああ」

「わたしは往人が、どの女の子と仲が良かろうが、別に構わないんだけどね?」

「……今どうして言い直した?」

 しかも何だかニュアンスが少しばかり変わっていたような……。

「分からないなら、いいよ」

 旋風はこほんと、わざとらしく咳払いをしてみせた。

「少しだけ、往人に嫉妬かな」

「何、お前あいつのこと狙ってんの?」

 そういえば旋風×葉漆がどうとか、その相手自身が言っていたっけ。絶対そのカップリングは逆だと思うんだけどなあ。

「違うってば。……わたしには何も言わずにいなくなったのに、付き合いの浅い往人にはちゃんと話したんだよね」

「ああ、そういうことか。まあ、この件に関しちゃ僕は部外者だからな。話しやすかったんじゃないか? というか、たまたまその場に僕がいただけというか……」

 あの時、葉漆が元同級生たちと揉めている場面に居合わせなければ、僕は彼女の過去について踏み込んだ話を聞くことはなかったはずである。

「それに、同じニートとしての立場から、シンパシーを感じるところがあったのかもしれないしな」

「ニートもたまには役に立つね」

「褒めたって何も出ないぞ」

「褒めてないけどね」

 冗談めかしたやり取りの後、旋風は黙り込んで、何事かを考えているようだった。

「往人」

 そして、いつものように僕の名を呼ぶ。

 その顔は、真剣そのものだった。

 こちらも真摯に受け止めねばなるまい。

「わたしは、友達の力になりたい」

「……ああ」

「でも、わたしじゃ、彼女にどうしてあげることもできそうにない」

「……ああ」

「この件に関して、往人は全く関係ない。それは分かってる」

「……ああ」

「今、葉漆さんが心を開いているのは、往人だけだから」

「……ああ」

 僕はただ、彼女の言葉に頷くだけだった。

 何かを告げようとしている彼女を、そうやってひたすら見守る。

「往人、お願い」

 改めて僕をまっすぐに見据えて、ようやく告げる。

 その瞳には、じんわり涙すら浮かんでいる。

 それは、友達を想ってのことなのか。

 それとも、自分の無力さに打ちひしがれてのことなのか。

 その両方が答えなのだろうと思う。

「葉漆さんを――玲音を、助けてあげて。それはきっと、往人にしかできないことだから」

 玲音。

 葉漆玲音。

 ここに来て、旋風は彼女のことを『葉漆さん』ではなくて、『玲音』と呼んだ。

 それはきっと、彼女たちがまだ、ちゃんとした友達だった頃の呼び名なのだろう。

 幼馴染たっての願いでもあるし、僕としてもあいつはまだ、やり直せると感じている。

 だから、重い腰を上げるに、やぶさかではない。

「まあ……僕だって、あいつに何もしてやれることなんかないんだけどな」

 この件に関して、僕は何もできない。

 こちらの世界の僕は、何もできない。

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