3

「助かったわ。新戸にいど往人」

 店内の自動ドアをくぐった辺りで、彼女は言った。

 相変わらず、僕のことをフルネームで呼ぶ。

「あん?」

「あんたがちょうど来てくれたおかげで、あの娘を振りほどくことができたわ」

「ああ、そういうこと」

「それで、あの娘は?」

 一瞬、何のことを問われているのか考えあぐねる。

 だが、すぐに旋風つむじが僕にとって何者であるのかを尋ねているのだと理解した。

「幼馴染だよ、ただの」

「いえ、私は現実の話をしているのよ。あんたの妄想じゃなくて」

「紛れもない現実だよ」

「幼馴染なんて、マンガの世界だけの存在なのよ。考えてもみなさい。子供の頃から一緒にいて、大きくなってからも仲良く会話する男女なんて気持ち悪いでしょう」

「いや、そんなこと言われても……」

「まあ、いいわ」

 やがて僕たちはコミックコーナーへと辿り着く。

「それで、お前は? あいつとどんな関係なんだ?」

 元同級生――だということは旋風の方から既に聞いていたけれど、あの様子ではそれ以上に何かがありそうだ。

「そうね。簡単に言うと、あの娘×私と言ったところかしら」

「お前は絶対にそっちじゃないだろ」

 いや、何か突っ込みどころを間違えたような気がする。

「それは冗談として、本当のところは――あの娘はね、私が無くした光なのよ」

「それこそマンガの世界じゃねえか」

「私とあの娘が再び一つになった時――何かが起こるわ」

「その辺の設定はちゃんと考えておくように」

「まあ、あれよ」

 葉漆は大きく溜息をつく。

「昔の――友達よ」

「昔の……」

「そう、あれは確か――私が参勤交代で江戸に向かっていた時だったかしら」

「そりゃえらい昔だな」

 僕たちの会話っていうのは、ボケがないと成立しないのだろうか。

「しかし、お前僕たちとは別の中学だっただろ? たぶん……」

「言い切れないのね」

「まあ……僕はそんなに記憶力のいい方じゃないからな」

「犬は三日の恩を三年忘れず、猫は三日で忘れ、新戸往人は三秒で忘れる、って言うものね」

「諺に登場するとか、一体僕は何者なんだよ」

 どうもいちいち話の腰が折られる。

 まあ、そうやって冗談を挟みでもしないと話しにくい内容なのだろう。その気持ちは僕としても分からないでもない。

「塾で、一緒だったのよ」

「なるほど」

「あれは、私が塾で教鞭を取っていた頃のことだったわ。当時から彼女は出来のいい生徒でね……」

「はいはい、それで?」

「……私がどうして家事手伝いをしているのか、っていうのはこの間話したわよね」

「ああ」

 彼女のボケをスルーしたせいだろうか、何だか睨み付けられている。

 ええと、葉漆はしちがニート――ああいや、家事手伝いという立場に身を窶しているのは、自身の希望と反する進路を余儀なくされて、結局その後の高校生活にも馴染めなかった、ということだったはずだ。

「私の本来の希望通りであれば、塾なんて通う必要なかったんだけど。まあ、そういうことになっちゃったからね。両親に放り込まれたのよ」

「ああ、そういえば僕も放り込まれたな。全く身に付かなかったけど」

「当然、私はやる気なんか全くなかったわ。数学の授業で、『一足す一はどうして二になるのか』みたいなことを質問して、授業を妨害して遊んだりしたものよ」

「お前はどこの発明王だよ」

 その時の数学講師には同情しかない。

 こいつを受け持ったことで、彼あるいは彼女の人生に悪い影響を及ぼしていなかったらいいのだけれど。

「そんなだから、私は教室で孤立してたんだけど……。あの娘だけは違った」

 まあ、あいつはそういう奴だ。

 今だってニートに堕ちた僕を心配して、あれやこれやの策を講じてどうにか更生させようと躍起になっているようだし。

「私は授業を妨害しようとしてやっているだけだというのに、わざわざ『一足す一は二』であることの証明をしてくれたりしたわ」

「半端ねえな僕の幼馴染……」

「私も最初は鬱陶しく思ってたんだけどね。いつの間にか、仲良くなってたわ」

 そういえば、中学の頃、塾で友達ができた、とか言っていたことがあったっけ。

 それがこの葉漆だったということだ。

「この娘がいるなら、もしかしたら高校でも楽しく過ごせるかもしれない。そんなことも思ったわ。……まあ、実際にはそんなことはなかったのだけど。あの娘とはクラスも違ったしね」

「そうか……」

 こういう時、何て言って声を掛けてやるべきなんだろうか。どうも僕は、シリアスな空気が苦手だ。

「まあ、どうやらあの娘は、私のことを今でも友達だと思ってるみたいだけど……」

「そうみたいだな」

「この間の三人なんかと比べれば、私としてもあの娘にはそれなりに親しみを感じているつもりよ。……でも」

 彼女はその整った顔を、辛そうな表情に歪める。

「あの娘が友達だと思ってるのは、昔の私であって、嫉妬と憎悪に塗れた、今の嫌な私ではないのよ。……そんな私に、彼女の気持ちを受け取る資格なんかないわ」

 先日、元同級生に対してあれほどの怒りを露にしていた彼女。

 しかし、旋風に対してはどこか、悲しげな表情を浮かべていた。

 嫌いで、憎くて仕方のない場所。

 でも、きっと旋風が、彼女にとっての唯一の例外だったのだろう。

 マイナスの感情と、僅かばかりのプラスの感情が入り乱れて、彼女の心はぐちゃぐちゃに搔き乱されている。

 僕は――そんな彼女の力になってやりたいと、改めてそう思った。

 何か僕にできることはないのだろうか。

「資格――ね。果たして、そんなものが必要なのかね」

「どういうこと?」

「昔は昔、今は今、だろ」

 何だかこんなことを最近、どこか別の場所でも言ったような気がする。

「……」

 葉漆からの返事はない。

 僕の言葉に、彼女は何を思っているのだろうか。

「でも、今の私を知ったら、あの娘だって幻滅するに違いないわ」

「あいつはそんな奴じゃないさ」

「そうかもしれない。……でも、これでいいのよ。友達なんかいなくたって、人間生きていけるわ」

 何もかもを諦めきったかのような口調で、溜息混じりに言う。

「お前はお前だ。僕は今の、ええと……家事手伝いだっけ? そのお前しか知らないけどさ。別に破局を迎えたわけじゃなさそうだし、お前が旋風の友達だってことには変わりがないんじゃないかな」


「……リッカみたいなこと言うのね」


「え……」

 小声で放たれた、そのワンフレーズ。

 恐らくは僕に聞かせるために放ったものではなくて、単なる独り言だったのだろう。だけれど、僕はそれをしっかりとこの耳で捉え、そして言葉を失った。

 何だか、嫌な予感がする。

 それはつい先日経験したばかりの感覚と似ていた。

「今、お前何て言った?」

「え? 『あんたみたいなダメなニートは、友達がいないと生きていけないでしょうけど』……だったかしら?」

「過去を捏造するな」

「『私はアスファルトから芽を出して健気に咲く一輪の花のように、最期のその瞬間まで孤高に生きてみせるわ』」

「過去を美化するな。……その後だよ」

 そう、その後。

 酷く耳に馴染む、一つの言葉。

 一つの、人名。

「その後? ……ええと、そうね。『リッカみたいなこと言うのね』って言ったような気がするわね」

 やはり僕の聞き間違いなどではなかった。

「その、『リッカ』っていうのは――」

「私の――親友よ。まあ、顔は知らないし、どこに住んでるどんな娘なのかも知らないけど……。でも、私は彼女を誰よりも信頼してるわ」

「変わった形の――友情だな」

「そうかしら? この時代、それほど珍しくもないと思うけど。なんて」

「まあ、そうかもしれんが……」

「その娘――リッカに、似たようなことを話したことがあったんだけど……。ちょうど、今のあんたと同じようなこと言ってたわ」

「ふうん……」

 恐らく、間違いはないだろう。

 ああ――思い出した。

いつだったか、確かにそんなことを、に言って聞かせたことがある。

 つまり、こいつは。

 つまり、こいつも。

「変な新戸往人ね。どうしてそんなことを気にするのよ」

「いや、別に……」

 あっちの世界における僕の親友にして、頼れる相棒。

 レーゲンとは、つまりこの葉漆玲音だったということだ。

 全く、世界って奴は狭いにもほどがある。

 一応あの世界には、世界各国から様々な人間が集まっているはずなのだけれど。

「まあ、いいわ。何かあんたに話したらすっきりしたわ。誇っていいのよ? あんたは私にとって、ちょうどいいサンドバッグみたいに掛け替えのない存在よ」

「それ、物凄く替えが効きそうなんだが……」

「あら、そう?」

 僕の指摘に、彼女は力なく笑う。

 それでも、一瞬見せてくれたその表情に、僕の心臓は柄にもなく跳ね上がった。

 僕は今の彼女しか知らない。

 家事手伝いの葉漆玲音しか知らない。

 人間族の騎士ナイトレーゲンしか知らない。

 きっと、壊れてしまう前の彼女は、こんな風に魅力的な笑顔を振りまく、ごく普通の女の子だったのだろう。

「まあ、その、何だ。僕はこれでも、お前と話すの、楽しかったりするんだぞ」

 どうしても照れくさくて、彼女の顔から視線を逸らしてしまう。

「だから『友達なんかいなくたって生きていける』とか悲しいこと言うなよ」

 客観的に見れば、今僕はすごく恥ずかしいことを言っているような気がする。こうやって僕の黒歴史というものは積み重なっていくのだ。

「あんたの友情なんか御免蒙りたいけどね」

「……」

 くそう、折角いいこと言ったってのに……。

「でも」

 力なくも、彼女は再び微笑んで、そして言った。

「……ありがとう」

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