第三章 ニートと幼馴染の物語
1
それから、しばらく経過した日の午後のことだった。
僕が自室で適当にネットサーフィンをしながら録り溜めたアニメを消化していると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
音量、およびその間隔から判断するに、来客は我が愛しの妹のようだ。
「どうした?」
その向こうにいるであろう、妹に向けて声を掛ける。
「あ、お兄ちゃん。起きてた?」
扉を開けて、紗奈が顔を見せる。
「ああ、ばっちり起きてたけど……。どうした、何か用か?」
「うん。あ、でもわたしじゃなくて……。お兄ちゃんにお客さんだよ」
「客?」
ニートという定職に就いている僕は当然、別に何らかの商売をやっているわけではないから、それは僕を個人的に訪ねてきた知り合いということになる。
僕を訪ねてくるような人間など、片手で数えるほどしかいない。というか、右手の人差指だけで十分だ。
まあ、あいつだろうな。
「うん。おねえさ……いや、お姉ちゃんが」
「お前今、あいつのことお姉さまって言いかけたか?」
こいつの言うお姉さま――いや、お姉ちゃんというのは
このところ会う機会が激減したとはいえ、幼い頃はよく遊んでもらっていたので、お姉ちゃんと呼び慕っている。
「そ、そんなことないよ。ただ、噛んだだけ」
「そうか、それならまあいいんだが……」
僕の知らないところで妹と幼馴染による薄い本的展開が繰り広げられていたらどうしようかと思った。何だそれ、ちょっと萌えるじゃないか。
「上がってもらっても大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「うん。分かった」
すると彼女は嬉しそうに階段を下りていく。
しかし旋風の奴、僕に何の用なんだろう。
「往人。元気だった?」
やがて紗奈と入れ替わるように旋風が僕の部屋へとやってきた。
最後に彼女がこの部屋に来たのは、いつのことだっただろう。少なくとも、このニート生活が始まってからは一度もなかったはずだ。
「僕は元気だよ。今なら素手で揚げ物を油から取り出せそうな気がする」
「元気の基準がよく分からないけど」
「そのくらい細胞が活性化してるってことだ」
「細胞レベルで元気なんだね……とりあえず安心したよ」
僕の軽口に小気味よい反応を返してはくれるものの、旋風の表情はあまり明るいものとは言えなかった。
このところ――僕が学校を辞めたことを彼女に伝えてからというもの、よく見る表情である。その辺、紗奈と共通している。まあ、僕のせいなんだけれど。
「それで、何か用か?」
「いや、用っていうほどじゃないんだけどね……」
「うん?」
「往人、どうしてるかなと思って」
「どうもこうも……」
僕は今日も元気だご飯が美味いとばかりに、今すぐにでも冒険の旅に出られるくらいなんだけれど……。どうもその辺、旋風や紗奈は誤解しているようなんだよな。
「今日は特にすることもないから、家でゆっくりしてたよ」
「そっか」
「といってもあれだぞ? 普段の僕は超多忙なんだぞ。たまたま、そう、たまたま今日がヒマだってだけで――」
「それは誰のための、何のための見栄なの?」
「それで、そっちはどうなんだ? というか今日、学校は? もう終わったのか?」
今は平日のおやつ時だ。
妹は中学生だから高校よりは早く学校が終わるし、そもそも中学校は我が家から歩いて五分ほどの場所にある。
だが旋風の通う高校はバスと電車を乗り継いだ先にあるから、放課後を迎えてからBボタン押しっぱなしで猛ダッシュしたとしても、帰ってくるのは夕方辺りになるはずだ。
「えっと、今日試験だったからね。早く終わったの」
ああ、そういうことか。
そういえばこの時期、全国の学生たちはせっせと勉学に励んでいるわけか。
「試験……か。何というか、懐かしい響きだな」
「往人にとってはそうかもね」
「そうか……試験、ちゃんと現代まで存在してくれてたんだな。あいつはもういなくなっちまったけど、僕は約束を果たせたんだ……」
「どうして試験という存在を消滅の危機から守った英雄風の語り口なの?」
「それで、今日は何の試験だったんだ? 算数? それとも生活? あ、図工か?」
「いくら何でも試験に関する記憶が古すぎない?」
「ふええ、七の段が分からないよう」
「何キャラなの、それは。……今日は英語と数学だよ」
「うわあ……」
強烈な組み合わせだな、それは。悪魔と親戚のおじさんが肩を組んでやってくるようなものじゃないか。いや、あの人、ニートという存在について異様に厳しいんだよ。来年の正月が今から憂鬱だ。
「そういえば往人、英語と数学苦手だったね」
「ああ。数学なんて、アルファベットのbの書き方が独特だったことしか覚えてない」
「えらく局所的な上に、全く役に立たなそうな知識だね……」
「大体数学なんて勉強したところで、将来住宅ローンの計算する時とか、凄腕プログラマーとして複雑な画像処理ソフトを開発する時くらいにしか役立たないじゃないか」
「存分に役立ってるね、その場合」
因みに英語はというと、ゲーム内で外国人と一緒になった時に、思わず『Konnichiwa』と思い切り日本語で話しかけてしまうほど苦手だ。Hello? 何それおいしいの?
しかし、やはり旋風と話すのは楽しい。
中学校まではこんなことは日常茶飯事だったのだけれど、卒業して離れ離れになって以来、すっかりレアイベントになってしまった。
「あ、往人。それ……」
点けっぱなしになっていたPCのモニターを指差して、旋風が言う。
「まだそれ、やってたんだね」
そこに映し出されているのは、僕がいつも参考にしている攻略サイト。言わずもがな、『Divine Destiny Online』の攻略情報が事細かに記載されているものだ。
「うん? ああ、まあね」
あれ? 今、『まだ』って言ったか?
「僕、このこと話したことあったっけ?」
「うん。中学の頃、一時期良く話してたよ」
そうだったっけ……。
あの頃は旋風と下らない会話ができることの尊さに気が付いていなかったから、その内容についてはいちいち記憶していなかった。
「良く覚えてるな」
「覚えてるよ。……往人のことなら、何でも」
「そ、そうか……」
何となく気恥ずかしい。
ということはあれか。
中学校時代の、若気の至りとしか説明できないあんなことやこんなことまで、彼女には全て記憶されているということか。……出来ることなら忘れてほしい。僕の右腕はただの右腕だから、別に何かが封印されているなんていうことはないんだよ?
「まあ、お前はどう思ってるか知らないけどさ。ゲームやる時間たくさん取れて、僕はこの生活結構気に入ってたりするんだぜ」
「……」
旋風からの返事はない。
僕の言葉に、彼女は何かを考え込んでいる風だった。
「仲の良い友達もいるしさ」
僕はレーゲンやナギ、並びにギルドの他のメンバーやら、ダンジョンなどで出会った戦友たちの姿を思い浮かべながら言う。
流石に、女の子キャラクターを使っていることまでは言えなかったけれど。それを言ってしまうと旋風だって僕を気持ち悪がるかもしれない。しかもこいつの場合、それを忘れてくれることはないのだ。
「往人。そのことなんだけど」
「そのこと?」
――とは、どのことだろう。
その真剣な眼差しから察するに、ゲームのこと……ではないだろうから、ニートをやっていること、だろうか。
「あのね、お父さんの学校、今何人か空きがあるらしいんだけど……どうかな? 結構自由な校風みたいだし、往人が前にいたところとは環境も違うだろうし……」
旋風の父親は、高校で教鞭を取っている。『お父さんの学校』というのは、つまるところそういうことだ。昨今、少子化で生徒数も少ないから、少しでも学生を確保したいという事情があるのだろうか。
「……」
「それか、もし往人が何かやりたいことを見付けたっていうなら、専門学校とか……」
「……あのさ、旋風」
ああ、なるほど。
『用っていうほどじゃない』とか言っていたけれど、要するにこれを言いに来たということか。
少し前までのコメディタッチのそれとは打って変わって、僕の部屋は急にシリアスな空気に包まれ始めた。
「何度も言ってるけど、僕は現状に満足してるんだよ」
そりゃ、将来の不安がないわけではないけれど……。
そう簡単にニートが更生して社会復帰できるのならば、そもそもこんな言葉は誕生すらしなかっただろう。
「でも……」
「まあ……何だ。きっといつか、何とかなるって」
「いつかって、いつ?」
「いつかは……いつかさ」
一年後。
……二年後。
あるいは、三年――いや、五年後?
五年後の僕はどこで何をしているのだろう。
さすがに、この生活を続けているとは――いや、いるのだろうか。
「だから、僕のことなんかお前が心配する必要はないんだよ。こんなニートのことなんかほっといてさ、一生に一度の高校生活なんだからもっと楽しんで――」
「……いけないの?」
俯いて、フローリングの木目でも数えるようにしながら、震える声で旋風は言う。
「わたしが往人の心配したらいけないの!?」
「つ、旋風……?」
旋風が声を荒げるところは、久し振りに見た。
ましてや、それが他ならぬ僕自身に向けられているとなれば、尚更珍しいことだ。
「あの頃の往人はどこに行ったの? 何でも出来て、頼りになって、かっこよかった往人はどこに行ったの?」
彼女は未だ俯いているので、重力に従って垂れ下がった前髪に隠れ、その表情を伺うことはできない。
でも、何となく、今どんな顔をしているのか想像できるような気がした。
「そんなもの、忘れてくれ」
脳裏に浮かんだ彼女の辛そうな表情に、胸が締め付けられる思いだった。
「……忘れられないよ」
そこで彼女はようやく顔を上げた。
その顔を見て、僕の心はより一層締め上げられる。
「……往人のバカ」
それだけ言い残すと、旋風はいつの間にか開け放たれていた扉を通過して、脱兎のごとく飛び出していった。
「……何やってんだ、僕は」
彼女が最後に見せた、あの顔。
心なしか、目尻の辺りが濡れていたような……。
「はあ……」
幼馴染を泣かせてしまった。
しかもその原因は僕の不甲斐なさにあるというのだから、気分も重い。
かといって、こればっかりは一朝一夕で解決できる問題でもないんだよなあ……。
とりあえず開け放たれたままの扉を閉めようと、重い腰に鞭を打って立ち上がる。
ノブに手を掛けて、扉を閉じ――。
「……」
「……」
人間と目が合った。
「えへへ……」
「いや、この状況でそんな可愛らしく微笑まれてもな……」
紗奈だった。
こいつ、旋風を呼びに行ったと思ったら扉の裏に隠れていたのか……。通りで扉が開いているわけだ。いつの間に忍び込んだのかは分からないけれど。
「お前、何やってんの?」
「えへへへへ……」
「笑って誤魔化すな」
いや、可愛いけれど。
このまま不問にしてしまいそうだけれど。
「因みに、いつからいた?」
「お兄ちゃんたちが『ジャンボ!』って挨拶してた辺りから」
「どこの人なんだ僕たちは」
要するに、僕たちが挨拶を交わした時からだとしたら、最初からということになる。
「あのね、ここか天井裏か迷ったんだけど……」
「お前はいつ忍者の修業を積んだんだ」
何賀流なのかな。
そういえば失念していたけれど、この妹。
僕の妹というだけあって、中々に変な娘である。
「なあ、全部聞いてたんだよな? 今のって――」
「お兄ちゃんが悪いね」
僕の質問に、食い気味で答えてくれる。
「……だよなあ」
確認するまでもなかったか。
「僕はどうすればいいんだろうか」
「それ、普通妹に聞く?」
「……ごもっともで」
デリケートな話題だと捉えているらしい学校の話題を出す時以外は、こんな感じで快活な妹である。
ともあれ、これで僕は、旋風の件について頭を悩ませることになった。
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