4

 やってきたのは書店の近くにある公園。

 とは言っても今は冬なので、ご近所の人たちの雪捨て場と化している。ブランコもシーソーも雪にすっぽりと埋まり、およそ公園として機能しているとは思えなかった。

 僕たちは雪捨て用の通路として確保されているらしき狭い道から公園内へと侵入、辛うじて雪の浸食を免れているガゼボの元へとやってきた。

 寂しげに佇むベンチから粉雪を払いのけ、間に一人分くらいのスペースを置いて、二人でそこに座った。

 いつしか日も落ち、辺りを照らすのは、今にも消えてしまいそうに点滅を繰り返す公園内の街灯だけだ。照明としては非常に頼りないことこの上ないが、ある種、ムード作りに貢献しているような気がする。

 こんな状況でムードも何もないけれど。

「全く、このニートは。こんな遅くに人気のない公園まで幼気な女の子を連れ込んで……何をしようというのかしら」

 白い息を吐き出しながら、幾分か離れたところに座る葉漆はしちが言う。

「いや、ここに連れてきたのはお前だからな」

 僕の息も白い。

 日中気温でさえ零度を割るこの時期。日の入り時刻を過ぎてしまえば、そこに広がるのは凍てつく氷の世界だ。

「今私がここで『助けて!』とか大声出したら、どうなるかしら」

「やるなよ? 絶対やるなよ?」

「そこまで念を押されるとやりたくなるのが人情ってものよね」

「そんな人情ならいっそ捨ててしまえ」

 まあ、別に後ろめたいことがあるわけでもなく。

 仮に警官がやってきたところで、早く家に帰るよう諭されて終わりだろう。

「大体、幼気な女の子って……さっきあんな風に激昂してた奴の、どの辺が幼気なんだよ」

「……それもそうね。言ってくれるじゃない、新戸往人にいどゆきと

 どうでもいいが、何故こいつは僕のことをフルネームで呼ぶのだろう。まあ、不名誉なニックネームで呼ばれるよりはいいか。

「ええと、それで何の話だったかしら? 私に何か相談があるんだっけ?」

「恐らくそんな話ではなかったと思うが……」

 僕をここまで連れては来たものの、切り出しにくいのだろうか。彼女はあくまで惚けたようなスタンスを貫く。

「……そうね。そうだったわね」

 大きく白い息を吐き出して、嘆息。

 僕は彼女が話し始めるのをただ待っていた。

 正直に言うとさっさと快適な自室へと帰りたい気持ちが強かったけれど、ここまで来てしまった以上そんないい加減な対応は許されまい。

「どこから話そうかしら」

「……」

 そういえば、先に立ち入ったことを尋ねたのは僕だったか。

「あんたはどうしてニートなんかやってるの?」

「これまた漠然とした質問だな。……そうだな」

 逆に質問が飛んでくるとは予想外だった。

 だが、無下にするわけにもいかず、顎に手を置いて考え込む。

 僕はこの件に関して、明確な回答を持ち合わせてはいない。

「特に理由はない、かな」

「そう。学校は?」

 続けて放たれた質問。

 一瞬、その意味を捉えかねる。

 しかしすぐにその意図を理解して、続ける。

「辞めたよ。そもそも行きたくて行ってたわけじゃなかったしな。何て言うのかな、あそこは僕の居場所じゃなかった」

 最初は、小さな違和感だった。

 義務教育の延長としてしか考えていなかった、新たなステージ。中学以前と同様、何に打ち込むでもなく――これはオンラインゲームを除いて、という意味だが――無為で無益な日々を送っていた。

 周りを見渡せば、それぞれに部活なり勉強なり、あるいは委員会活動などに精を出している。そこでは、ただ僕だけが、妙な義務感だけで、消極的に貴重な青春を費やしていたのだ。クラスにも、馴染めなかった。

 やがて一週間が経過して、一ヶ月が経過して――。

 ゴールデンウィークが明けた頃には、物理的あるいは制度的にはともかく、学校内に僕の居場所などなくなっていた。教室内には複数のグループが出来上がり、そんな喧噪の中、いつも寝たふりをして過ごしていたように思う。自分はあいつらとは違うんだ――なんて、思春期の若者特有の痛々しい思想を持っていた。

 そんな日々に耐えきれなくなって、もう少しで夏休みに入ろうかという時期に、学校側に退学届を提出するに至ったのだった。

 これはこの間、旋風にも語ったことだけれど、僕は別にその決断を後悔していない。

 ただ、どうしてこうなってしまったのか――こうなることは回避できなかったのか。

 そう考えてしまうことは、時々ある。

「なるほどね」

 その辺のことを噛み砕いて伝えてやると、葉漆は短くそう呟いた。

「まあ、何となく分かってるかもしれないけど、お友達とやらから聞いてるかもしれないけど――私も学校、辞めてるのよ」

「……そうか」

 確か旋風の情報では、それは夏休み前のこと。

 奇しくも僕が学校を去ったのと同時期のことだったはずだ。

 ニート歴で言えば、僕たちは同期ということになる。何その悲しい同窓会。

「私、絵を描くのが好きだった」

「絵――美術、ってことか」

「そうよ。ああ、あんたが教科書に載ってる偉人の写真に髭や角を描き足して喜んでたようなものとは全然違うわよ?」

「おい待て。どうしてお前が僕の小中学校時代の趣味を知っている」

「中学生にもなってそんなことしてたの、あんた……」

 しまった、誘導尋問だったのか。

 でもやるよな、そのくらい。だってあの人たち、落書きしてくださいって言ってるようなもんじゃないか。僕の歴代国語の教科書なんか、それだけで個展が開けるレベルだ。

「まあ、私の最高傑作、大天使与謝野晶子には勝てないと思うけど」

「お前もやってんじゃねえか!」

「小学校の時の話よ。……それで私は、本格的に美術の道に進みたいと思った」

「美術の――道」

 その時点で将来を見据えていたというのは、何の夢も持たなかった僕とは、酷く対照的だ。それが同じ地点に行きついてしまったというのは、やるせない話だ。

「あんたは知らないと思うけど、この辺の私立で美術を教えてる有名な先生がいるのよ。海外で個展を開いたりしてて、評価も高いの。……私は、そこに行きたかった。そこで、その先生の下で絵を描きたかった」

 言葉を紡ぎながら、葉漆は夜空を物憂げに見上げる。

 ここは政令指定都市で、住宅街だから、人工の光に阻まれて星々の姿はあまり見えない。

 彼女はそこに、何を見ているのだろう。

「でも、私の希望は叶えられなかった」

「……どうして」

 例えばそれが、僕の家だったらどうだっただろう。

 僕は高校を決めるに当たって、消極的な態度で臨んでいた。ただ、自身の成績と照らし合わせて、確実に狙えそうなところを選んだだけだ。

 もしも、僅かにでも僕自身の希望による選択をしていたならば、両親は喜んで後押ししてくれたのではないかと思う。

 一つ、問題があるとすれば――。

「私立、だからか?」

 経済的な問題が挙げられるだろうか。

 我が家なんかは典型的なサラリーマンの中流階級だから、行きたいところがないならどこでもいいから公立、と口酸っぱく言われていたものだ。

「そんな理由だったら、まだ納得も出来たんだけどね」

「それじゃあ……」

「うちはね、両親とも公務員なのよ。いや、だからそうだっていうわけじゃないんだろうけど……何というか、お堅い家なのよ。別に由緒正しい歴史がある、とかそういうことでもないのにね。ただ、大学進学には……あの学校が一番有利だから、って。その一点張りだった」

「……」

 僕は何も言えない。

 何を言ってやればいいのか、全く分からなかった。

「それでも私は、納得しようとしたわ。納得なんか到底出来るはずもなかったけど、それでも何とか納得しようと努力した」

 思い出したくない過去を噛み締めるような表情。

 そうまでして、彼女は出会ったばかりの僕に語ろうとしている。

 となれば、こちらも真摯な態度で受け取るしかない。

「幸いなことに――いや、それが災いの元だったのかしらね――成績は良かったから、特に苦もなく、合格通知を受け取ったわ」

 さらっと学力自慢をされたような気がする。

 そんなことを気にする僕ではないけれど。

「それから、着々と新学期の準備が進んでいった。両親は、学校が始まれば、新しい友達が出来れば、きっと楽しいからって私に何度も言い聞かせたわ。私も、それに期待する気持ちが全くなかったといえば噓になるけど」

 その気持ちは理解できる。

 僕もその頃は、そんな考えでいたものだ。

 でも――。

「でも、そんなものはただの幻想だった」

 ――そんな幻想はすぐに打ち砕かれた。

 ――気の合う人間なんて、誰もいなくて。

 ――楽しいことなんて、何もなくて。

 ――いつしか、そこにいること自体が苦痛になっていた。

 彼女が語るその言葉に、僕の心は自然と同調していた。

 壊れていく経緯や、抱えた問題。

 それらは全然違っても、僕たちはどこか似ているのかもしれない。

「クラスの誰かが楽しそうにしているのを見ると、ひたすら頭に来た。どうして私はこんなに苦しんでるのに、あいつらはあんなに楽しそうなんだろうって」

『あいつら』と、彼女は言う。

 それはやはり、あまり女子の口から聞く言葉ではない。

 それなりに育ちの良さそうな彼女をして、そう言わしめるだけの理由が、感情がそこにあるのだろう。

「今にして思えば、両親の反対を押し切ってでも、そっちを受けるべきだったのよ。それが自分で選んだ道だったなら、後悔なんてあるはずないものね」

 確かに、そうかもしれない。

 僕は学校を辞めたことについては後悔していないし、これからもしないだろう。

 それは紛れもなく、僕自身が選んだ道なのだ。

「決定的だったのは、夏に入った頃のこと。……確か、六月だったかしら」

 六月――というと、僕はどんな状態だっただろうか。

「あんたもさっき会った、あの三人の内の一人――一番、私に突っかかってきた、あの女」

 その言葉に、先ほどの三人の顔を思い浮かべる。

 今葉漆が言っているのは、その内の一人――あの、今にも泣きだしそうな表情をしていた、彼女のことだろう。

「どういうわけだか、いつも私に纏わりついてきてね。……反吐が出そうになるけど、『お友達』とでも思われてたのかしら」

 あの時の葉漆の憤りようといったら尋常ではないと思ったものだけれど、過去に何らかの因縁があったということらしい。

「あの女は言ったわ。『この学校が大好き。この学校に来てよかった』ってね。よりにもよって、誰よりもあの場所にいることを後悔しているこの私の前で。誰よりもあの場所を憎んでいるこの私の前で」

 そう言った時の葉漆の表情は、溢れ出る憎悪を隠そうとも誤魔化そうともしていないといった風だった。

「それから一ヶ月くらいして、私はやっとあの地獄から抜け出すことができた。……まあ、これが、私がニートになった経緯」

「そうか。何というか……」

 僕はようやく口を開いた。

 とはいえやはり、何と言ってやればいいのか皆目見当もつかなかった。

 家事手伝いじゃなかったのか――なんて、些細で下らないコメントをする気にもなれなかった。

「ごめんなさい。少し、嫌な空気になってしまったわね」

「いや、構わないが……」

「何なら面白おかしいことでも言いましょうか?」

「そんな気遣いはいらん」

「じゃあ、さっきからあんたの上着に、カラスの落とし物が付着してることとかも言わなくていいのね?」

「それはもっと早く言え!」

 うわ、ほんとだ。

 右肩の辺りに、白い何かがくっついている。何かこれ、どうやら今ついたものではなさそうなんだけれど……いつからこうなっていたんだろう。さっき、彼女たちの間に割って入った時からだったとしたら――うわー、かっこ悪……。

「まあ、いいじゃないの。『運』があるかもしれないし」

「……」

 運って――仮にも、いや正真正銘、可憐な少女が……。

 案外、こいつ単に言葉遣いが汚いだけかもしれない。

「運っていうのは……あるところにはあるし、ないところにはないのよね」

「いや、正直この流れからそんな悟ったようなこと言われても、反応に困るというか……」

「私には、それがなかった。ただ、それだけのことなのかな」

「……どうだろうな」

 僕はポケットに入っていたティッシュペーパーでカラスからの贈り物を処理しながら、適当に答える。

「まあ、私にとっては、もう全部終わったこと。今の生活にもそれなりに満足してるし、もうどうだっていいんだけど……ね」

 口ではそう言うが、その語調からは、何かを堪えているようなものが感じ取れた。そうやって具体的な言葉にして表すことで、一種の自己暗示を試みているのかもしれない。

「今日は、あの女が空気も読まずに気さくに声を掛けてきたせいで我を忘れてしまったわ」

「そうか」

「もう一度お礼を言っておくわ。ありがとう」

 僅かに微笑みながら、そんなキャラクターに合わないようなことを言う。

 彼女の表情は今にも儚げで、細々と振り続ける雪と相まって、まるで一つの絵画のようだった。

「……別に。知らない間じゃなかったからな。放っておけなかっただけだ」

 そんな彼女を直視することができなくて、反対側の街灯を眺めながら気持ち早口で言う。

「少し、気持ちも楽になったわ」

「そりゃよかった」

 僕が言うと、そろそろ帰りましょうか、と言って葉漆がベンチから立ち上がった。

「なあ」

 最後に一つだけ、訊いてみたいことがあった。

「美術の道に進みたかった――って、言ったよな。それ、今からでも頑張ることはできないのか?」

 僕と彼女は、なるほど確かに似ているのかもしれない。

 でも、一つだけ、決定的に違っているところがある。

 それは、夢。

 夢を持たない僕と、かつて夢を持っていた彼女。

 壊れてしまった原因がその夢にあるというのなら――まだ、間に合うのではないか。まだ、やり直せるのではないか。

 自分の立場とか状況とかを全て都合よく棚に上げて、そんな烏滸がましいことを思った。

「……描けないのよ」

 彼女は再度、儚げな表情で辛そうに呟く。

「きっと、心が荒みきってしまったのね。今の私は、どんなに綺麗な景色を見ても、筆を取る気にはなれないのよ」

 そんな彼女に、やはり僕は何も言ってやることができなくて――。

 僕たちはそのまま解散。

 薄オレンジ色をした人工の光に照らされて、とぼとぼと家に帰った。

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