報告

 あれだけ恐ろしく見えた通りが、慣れてしまえば気安い印象だ。


 地下鉄の出口横、たくさんの道路に面した大きいバス停。俺は安奈を待っていた。


 暇過ぎるので、路線図など見てみる。色とりどりの線が複雑に絡み合っていた。東へ受験に行ったとき、首都の地下鉄網を見たが、これはそれと並ぶくらいだ。たかが市バスがここまでとは。衣戸は、やはりでかい。


 ここは、俺が転んだ町。安奈の出身の町だ。


 あの日、安奈にかいつまんで聖子のことをメールした。すると、是非、直接報告が欲しいと言われた。それで、次の日に会うことになった。今日、聖子やサキは学校だ。


 聖子の奥底の苦しみや悲しみ、俺が触れたものを人に話していいものか。葛藤はあったが、そもそも俺がここまで聖子の心に肉薄できたのは、安奈のお蔭だった。それに、これから聖子とどうするのか、俺自身誰かに話して整理したかった。


 時間は午前十時過ぎ。ここへ来るには、衣戸に入ってしばらくの駅で地下鉄に乗り換え、たった一駅。歩いてもいいくらいの距離だった。


 ぼーっと待っていると、商店街の方から、安奈がやって来た。この間と同じ格好だ。


「おはよう。寛志君」


「おはようございます」


 元気な挨拶も、声も、相変わらず俺の好きな響安奈そのもの。この間と違い、俺自身落ち着いているせいか、無責任に盛り上がるのは抑え込めた。


 安奈はそんな俺を、しげしげと見つめてくる。それは対等な人間の間では失礼だろうが。安奈にやられても不快にはならない。こういうことが似合うのだろう。難しい顔で一言。


「……どうしたの?」


 それはこっちがききたい。


「なんか、おかしいですか」


「うーん……分かんないけど、なんか違う気がする」


 首をひねり、ほっぺの怪我とかじゃないし、とつぶやく安奈。


「この間は、泣き叫んでましたからね。怪我もちょっとは治ってるし」


 それくらいしか思いつかない。安奈は納得できないらしい。


「そういうのかなー、まあいいや。こっちね」


 その案内に従い、俺は商店街を歩いた。


 またあの部屋に戻るのかと思ったら、安奈は商店街のパン屋に入った。


 中央にはレジ、その奥にキッチンがあり、右半分は棚が二段、そこに焼き上がったさまざまなパンが並べられている。左半分は、イートインというのだろうか。テーブルや席が用意されていた。


「いやー、良い匂いだわ。やっぱここが一番」


 安奈はトレーとトングを取ると、嬉々としてパンを選びにかかった。淡い黄緑のメロンパン、香ばしいアップルパイに、優しい褐色のクリームパン。分厚い食パンにチーズや玉ねぎ、ハムを乗っけて焼いたピザトーストまで。カロリーだなんだと気にもせず、ひょいひょいと取っていく。朝食がまだなのだろう。


「寛志君、良かったらおごるけど、何かいる?」


 不意に振り向かれ、俺は少し戸惑った。焼きたてのパンの匂いは、素晴らしい。少し早いが、腹の虫に嘘は付けない。


「あの、じゃあそこのクロワッサンを」


「渋いねー。了解」


 俺の希望は、安奈の四つものパンと比べ、随分可愛らしく見える。


 そうではないかと思っていたが、店主も店員も安奈の知り合いだった。安奈が話し込んでいる間、俺は先に二人分の飲み物とトレーを席に移した。


 席を確保していると、会話の内容が聞こえてくる。やっぱり俺のことを冷やかされている。図体のでかい新しい恋人とかなんとか。


 俺は複雑な気分だった。安奈を知る人から、俺の存在はそう見えるのだ。聖子とのことがあるのに。


 安奈が会話を終え、俺の前に座った。


「お待たせー……うん、やっぱりなんかあったみたいね」


 その透き通った目に、嘘など通じないのだろう。俺は吐き出すことにした。


「メールだと、本当、少ししか言えなかったんですけど」


「寛志君が本音を言って、聖子ちゃんの本当の姿を見たってだけじゃ、ね」


 なるほど、何も言ってないに等しい。俺も相当動転していたものだ。


 何をどれくらい伝えていいか分からなかったが。俺はとりあえず話し始めた。


「どこからだろうな、とりあえず、昨日一緒に買い物に行ったんです」


「予定通りね」


「地元の駅で待ち合わせたんですけど。聖子ちゃん、大分早く来てくれたみたいで。楽しみだったのかどうか、分からないんですけど」


「そりゃあ、楽しみだったんじゃない。女の子って、人と出かける前は、化粧したり、服で悩んだり、色々時間がかかるもん。それで、君より早く来たんだから、気合、入ってたんだと思うよ」


 考えてもみなかった。そういえば、聖子は俺の好みなんかも考えたらしい。俺と見る幻のためにそこまで。いや、それとも本気だったのか。


 少し考え込む俺を、安奈がけげんそうにうかがう。俺は口を開いた。


「……とにかく、それで法律の話とか、進路の話とかしながら、三呂まで行ったんですよ。今から法律やる俺より、法律知ってて、改めて驚きました。俺が大学で使う教科書も、もう読んでたりして。弁護士の女の人と知り合いで、勉強の仕方とか教えてもらったらしいんです」


 安奈はふんふんと興味深そうにうなずく。変わった経歴を持つ彼女ですら、法律を知っている高校生というのは珍しいらしい。


「化粧とかお洒落とかしてきてるのもあって、改めて話してみると、俺も、聖子ちゃんのこと、意識し始めて。三呂駅ではぐれそうになったとき、俺、手を握っちゃったんですよ。そしたら、向こうも、余裕ある感じで、許してくれて」


 話しながら、耳まで赤くなるのを感じる。安奈は、子供を見守るような微笑をたたえる。まさか俺が、自分でニヤニヤするシーンを演じることになるとは。それで済んだらどれだけよかったことだろう。


「それから、専門書を買って、お昼ご飯をお寿司屋さんで食べて。予定にはなかったけど、聖子ちゃんのわがまま、になるのかな。水族館のそばの、海岸に行ったんです」


「あそこかー。天気良かったし、雰囲気よかったでしょう」


 安奈がうっとりと呟く。海岸に、個人的な思い出があるのかも知れない。地理的にはここからそう遠くないし、歩いていけばお金も特にかからない。イエロー・モンキーの代わりに求めた誰かと、あそこを歩いたのか。


「それで、二人で浜辺を歩いて、映画の『風と共に去りぬ』の話なんかして。聖子ちゃん好きなんですよ、あの映画。俺がスカーレットの台詞知ってて」


「『明日は明日の風が吹く』ってやつね」


「そう。関係ないけど、俺、安奈さんがラジオで言ってたからあの映画見たんです。三時間半もあると思わなくて、びっくりしたけど」


「あーそうなんだ。でも寛志君、あれ見たら、無意味にへこみそうよね」


 なぜ分かる。いや、ここでへこんでいる場合じゃない。


「続けます。俺が映画を知ってたせいかな、聖子ちゃん気持ちが盛り上がったみたいで、向こうから告白されそうになったんです」


 含みを持たせた言い方に、安奈も食いついてくる。


「……されそうに、なったんだ。その前に自分から、告白したとかでも、ないのね」


 俺はうなずいた。安奈の表情が曇る。それ以上の成功が望めないのであれば、最悪の失敗の可能性しか予想できない。


「俺も、そのまま転んじゃってたかも知れないんですけどね。でも、なんだろう、安奈さんと言ってた、聖子ちゃんの事情を知って、ボディーガード兼カウンセラーになるっていうのかな。あれやろうと思って。ほら、それだったら、ここでただの恋人に転んじゃうわけにはいかないから」


 俺がそう言うと、安奈は顔をしかめた。


「そのタイミングでかー……結局どうしたの」


 言えば安奈を失望させるだろう。けれど、ここでつく嘘などなんの意味もない。


「言ったんです。初めて会ったときとか、本屋さんに居たときの事とか、俺が考えてたこと。全部、本当のこと」


 安奈は目を覆ってうなだれた。リアクションがオーバーな気もするが、これは彼女が声優だからだろうか。いや、改めて自分で話すと、俺だって目を覆いたい。あのときは幻を暴こうと思ったが、それは気持ちの盛り上がった女の子に対して、言葉で殴りつけるようなものだ。聖子を傷つけず、苦しめず、うまくやる方法が、あったのかも知れない。


「それで、ほっぺたの傷なのね」


 安奈が傷を見つめた。俺は答える。


「……はい。アニメとかみたいな、ビンタじゃなくて。胸倉つかまれて、グーで思いっきり。手加減とかなかったみたいで、口の中は切ったし、ちょっとだけど歯も欠けて」


 安奈は、ほう、とため息を吐いた。声優には、派手な修羅場を背負っている人も居る。安奈の半生もなかなかのものだが、その彼女が、この溜め息。昨日の出来事はそのレベルだったらしい。


 安奈は紅茶を飲み干すと、ため息を吐いた。


「それじゃあ、もうおしまいじゃないの。私が悪かったかなあ……まず君が」


「いいえ」


「え」


 俺の言葉に、安奈はこっちを見返した。関係ないが、この人の反応は素直で、話していて楽しい。この間一晩近く話し続けることができたのも、偶然ではないのだろう。


「問題は、その後なんです」


「その後って、聖子ちゃんもう、怒って帰っちゃったんじゃないの」


「いいえ。わけわかんないんですけど、帰らなかったんですよ」


 あのとき、俺はともかく、聖子が帰らなかったのはなぜだ。動揺して、気持ちが疲れて、自分でもわけがわからなくなったせいだとは思うが。


 それはさておき、安奈には俺の言わんとしていることが分かるらしい。


「ちょっと、まさかそんな修羅場の後に」


「ええ。なんだか分からないんだけど、俺達、その後もそこで二人で居て、夕日を見たんです。聖子ちゃんは、ずっと俺にひっついてました」


 このことを言っても、俺の顔は赤くならない。どういう意味の行動だったか分からないせいだ。安奈の方はいよいよ頭にハテナが浮かんでいる。


「どういうことなの。聖子ちゃん、グーで殴るくらい怒ったんでしょ」


「そのはずなんですけどね。俺なんかに、考えてたことが見抜かれてショックだったのかな。聖子ちゃん、俺がどういう奴か、最初から全部分かってたんですよ」


「それって、寛志君が、あんまり自分に自信が無いっていうか……」


 俺を配慮してか、言葉を濁す安奈。俺は言い直した。


「無駄に頭いい童貞で、プライドばっか高い、主体性の無いクズってことですね」


「……それ、自分で言って大丈夫なの」


 苦笑する安奈に、俺も苦笑で返した。


「いや、多分もっと酷いこと言われたと思います。詳しく言うと、聖子ちゃんも気の毒だから伏せるけど、とりあえずあの子にとって、俺は本当、相当下のランクっていうか」


 字面だけ思い出すと心が凍り付きそうだ。俺のような人間が、聖子レベルの女の子を彼女にできるのがラッキーだとか。頭がいいなら自分の身の程を知って、満足しろだとか。


「そんなこと言われて、君の方は辛くなかったの」


 安奈が不思議そうに尋ねて来る。なるほど、サキに泣かされた俺には、自殺レベルの言葉だったはずだ。それで泣きながら帰っていれば、今日は安奈と徹夜でゲームをしたのかも知れないが。


「確かに、酷いことは言ってたんだけど、それ以上にキツかったのは、聖子ちゃんなのかなって」


 安奈は紅茶をすすって、目で続きをうながす。俺はまた話し始めた。


「聖子ちゃんが、俺に言ってくれたんですけど。あの子、中学の頃いじめられたんですよ。一年くらい学校に行けなくなるほど。その一年、衣戸で暮らして、弁護士さんと知り合って、法律勉強したらしいんです」


 ほぼ絶句した安奈。だがまだ疑問が浮かんでいる。なんとかあの子の苦しみを語り尽くさなければ。


「あの子、多分俺より頭良くて、本当だったら俺の高校に入れるくらいだったんだけど、ブランクのせいで、言ったら悪いけど、下のランクの高校行っちゃって。サキちゃんがいるから、それも良かったのかも知れないけど」


 言ってから、安奈の学歴を、考えてしまう。もしかしたら、彼女には伝わらない種類の苦しみかも知れない。だが、こっちはどうだ。


「いじめの原因っていうのが、格好良いって評判の先輩から、告白されたことだったんです。そのときはまだ聖子ちゃん、恋愛とか良く分からなかったから、怖がって断ったって。でもそしたら、部活の先輩がその先輩の恋人だったみたいで。部活でいじめられて、クラスでもいじめられて。そのせいで、またいじめられるのが怖いから、高校入ってから、告白してきた、似たような人と適当に付き合ったって」


 安奈は頭を振って、うつむいた。涙をこらえているようにも見える。この辺りの苦しみは、女性の方が分かるのかも知れない。


「腹立つけどなかなか、格好いい奴だったみたいで、付き合う内に、そいつを好きになったんですって。でもそいつ、聖子ちゃんが信用して、いじめられたこととか、法律のこととか話すと、連絡付かなくなったって。多分、面倒になって、逃げたんでしょうね」


 人をそいつ呼ばわりするのは初めてだった。他人を憎むなど馬鹿のすることだと思っていたが。俺はスマートに徹しきれないらしい。


 コーヒーを一口飲んだ。安奈もまた、手元の紅茶に口をつける。パンは、聖子の話題の前から減っていない。


 沈黙が横たわる。安奈は手つかずのクロワッサンを見つめている。俺もしばらく黙った。お互い、頭の中で聞いたことと言ったことの整理をしているのだろう。


「……結局、君のことは、なんで」


「寂しかったんでしょう。俺が法律の話をしても、進路の話をしても逃げなかったからだって。後は多分、ランクの低い俺に捨てられることはないって、思ったんじゃないかな。受験までの精神安定とか言ってたけど、体、っていうのか、そういうことも許すつもりでいたみたいです」


 多分、受験を機に別れを切り出すつもりだったのだろう。抱えきれぬ孤独を、受け止めてもらうための、ちょうどいい『お兄さん』が俺だったのだ。


 仮に俺が騙されていた場合、俺は一年ほど彼女の慰み者というわけだ。それとも、男は女子高生の体を味わえればそれで文句を言うな、か。


「そんなの、幻じゃないかと俺は思ったんです。そうやって良いようにされるのなんて絶対嫌だった。だから言ってやったと思ってたんだけど、聖子ちゃんは、あの子はそんなこと、楽しくやってたんじゃなかったみたいで」


 俺にばれて崩壊した計算、それは何より先に聖子本人へと向かった。


「それが、本当にめちゃめちゃ辛そうで。俺、放っておけなくて。二人で居たって言いましたけど、恋人っていうより、お母さんと小さい子供みたいに、くっついてただけなんです。ムードとかそんなのも何もなくて。けど俺、あの子のこと放っておけなくて。でもそれは聖子ちゃんが可哀想なせいじゃないかとか、何より、騙されかかったわけだし。俺、本当は俺を騙したり、操る奴なんてみんなくたばれと思ってるんですよ、なのにあの子のことは放っておけなくて……俺を、まるで俺を見てるみたいで」


 安奈が居るとか居ないとか、分からなくなっている。俺はひたすら自分の心を絞り出していく。


「分からないんですよ、もう全部。俺が、聖子ちゃんのことどう思ってるか。聖子ちゃんが、俺のことどう思ってるか。俺は、あの子と関わっていいのか、これからどうしたらいいのか」


 そこまで言って、俺はため息と共に顔を覆った。自分で自分のことが分からないのは、初めてだ。他の奴がぐじぐじと悩むようなところを、学校でほめられる方法で、すっぱりと解決するのが、俺の信条だったのに。


 安奈はやっぱり、答えてくれない。そういえば、この間、部屋でストーカーの理由を話したときもそうだった。彼女は俺に興味が無いのか、いや、興味のない奴と徹夜でゲームして会話したりはしない。なら、なんでなにも――。

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