傷口を覗く

「なにやってんの」


 後ろから声がかかった。メイクを落とした聖子だ。顔だけは、出会ったときに戻っている。それ以外はもう戻らない。


「帰ってなかったんだな」


 どうして俺に声をかけたのだろう。なにが欲しくて、まさか俺のためではないだろうに。


「……ここは、夕日がいいの」


 そう言って、遊歩道を渡る聖子。俺はそれについて歩いた。


「疲れた」


 そう言って、聖子はベンチに座る。無言でうながされ、俺も隣に腰かけた。


 ここのベンチは少々変わっている。白く塗ったコンクリートで、正面以外の三方と屋根が囲まれており、座ってみると、目の前の景色以外が無くなる。


 しかもこのベンチ、それほど大きくはない。二人で座ればほぼ密着状態だ。しかも三方向と屋根を壁に囲まれているせいか、二人きりで海を見ているような気さえしてくる。


 聖子はなにも言わず、海を見ている。俺は急にその存在を意識し始めた。覚悟の上とはいえ、聖子は俺を殴り、クズっぷりを罵倒した女だというのに。


 答えは簡単で、聖子がどんな奴でも、女だからだということだ。悲しいかな、俺は女性に慣れていない。


 少しだけ風が強くなる。温度はさらに下がっている。薄ピンクのワンピースドレスの袖が、風にはためく。夕日まで、聖子はここで待つつもりだろうか。インナーくらい下に着ているのだろうが、それでも厳しくないか。


 俺は急に格好を付けたくなった。ジャケットを脱ぐ。


 やはりポロシャツでは寒い。となると、長そでとはいえ、聖子の寒さは推して知るべきだろう。


 脱いだジャケットを無言で押し付けると、聖子はじろりとこちらを見た。


「……なんなの」


「寒いだろ」


 俺がそう言うと、聖子はジャケットを胴体にかけた。肉食獣の凶暴性を持つとはいえ、その体は小さい。毛布に包まる子猫のようだ。


 陽が傾く。空が色を変えていく。日差しが蜜色になり、ヨットや海を彩っている。


 風は冷たい。ポロシャツの俺には特に。情けないことだが、今度は俺が両手を抱えるはめになった。


「……なんかやだよ、そっちの方が寒そう」


 ため息をついてジャケットを押し付けようとする聖子。俺はその手を断る。


「俺は、君が寒そうなのが嫌だ。人の目があるし」


 聖子の体と人の目と、それらの心配の比率はいくらか。答えが出ない。しかしどち

らも捨てられはしない。どうせ読まれるのだから、素直な気持ちでそう言った。


 情けなくて視線を落とすと、ふわりと腕に枝垂(しだ)れかかる感触。


 驚いて振り向いた俺の胸元に、聖子の頭がある。親にすがりつく子供のように、聖子はその肢体を俺に預けてきた。ジャケットが、密着状態の俺達を包み込んでいる。


「……あの、なんで」


「さあ。でも温いでしょ」


 確かにそうだが。俺は唇を噛んだ。これは、これは一体どうすればいいんだ。聖子の全身を感じる。金縛りにあったように、身じろぎ一つしない俺。聖子はため息をついた。


「女の子に抱き着かれたこともないの? 童貞って、本当面倒くさいね」


「……うるさいな」


 憎まれ口を聞かれたことで、ようやく俺は落ち着いた。聖子は飼い主の膝でくつろぐ猫のように、俺の胸元でジャケットに収まっている。


 ジャケットと聖子で、風は平気になった。再び、時間が流れていく。


 陽が、巨大なつり橋で本土と結ばれた、島の端にかかっている。東の空が群青に染まっていく。秋と似た、寂しさを感じる春の夕暮。平和な人達も家路についた。


 なんだか人が恋しくなる。たとえどんな奴であっても。つい聖子の体に手を回しそうになったとき、当の聖子が口を開いた。


「……私ね、中学のとき、一年くらい学校に行けなくなったの」


 ここまでを吹っ飛ばす衝撃の告白だった。俺が相槌を打つと、語りが続く。


「一年生の、最後ぐらいかな。先輩に告白されて。格好いいって話題の人だったんだけど、そのときは子供でさ。付き合うとかよく分かんないし、なんか怖かったから、断ったのよ。そしたら、それがあたしの部活の部長の彼氏だったみたいでね、生意気だって、部活でいじめられたの」


 いじめ。聖子は、あれの経験者か。


「部活だけかと思ったら、クラスに居た同じ部活の子もやり始めてさ。すぐにクラス中に広まったわ。あたし頭良かったから、生意気だとか思われてたのかもね。教室でも、部活でも無視されたり、消しゴムのかすをちょっとずつ頭に乗っけられたり。部活以外で友達だった子も、いじめられたくないからって、私に近付かなくなっちゃって」


 俺はいじめを、ただ見ていた側だった。中学のクラスは、阿修羅の巣。空気を外れた、地位の低い人間はそういう目に遭う。どうしようもないことなのだ。


「我慢してたんだけど、二年になっても続いてさ。そのうち学校に近付くだけで息が苦しくなってきちゃったから。お母さんに言って、休むことにしたの。あたしが衣戸のことに詳しいのは、そのとき、衣戸のおばあちゃんの家に泊まってたから。弁護士のお姉さんとも、そのとき知り合ったの」


 この海岸には、不登校の期間、自分を立て直すために来たのだろう。明日は明日の風が吹く、そう自分に言い聞かせたのだ。でなければ、学校に行っていない事実に耐えられるはずがない。


「休んでから、半年くらいかな。部活も辞めて、ある程度元気になって、ちょっとずつ家から出始めてね。サキとはそのときから。冬のシーズンオフとか、あたしの所に来てくれて、二人で一緒に買い物とか行ってくれたのよ。元々仲良かったんだけど、いじめが始まって、私と距離取っちゃったの、ずっと後悔してたみたい」


 そうか。俺にああまでしたのは、サキなりの負い目からか。


「三年の二学期に、なんとか学校戻ったけど、勉強の遅れが響いてさ。出席日数の関係で卒業のごたごたがあったし、順調だったらあんたの高校行けたんだけど、無理だったからサキと同じ高校にした。本当だったら、あんたより成績良かったのかもね」


 そうだろうな。俺より年下だというのに、あれほど面倒な文章で書かれた法学の教科書を読みこなせるのだ。素質はある。


 惜しむらくは、いじめから来たブランク。俺なら、なぜだと泣き叫び、周囲に当たり散らし、引きこもっても、おかしくない。


「あんた騙して引っ掛けようとしたり、サキが言ってたくだらないことの理由はね、高一のとき。また中学のときと似た様なのに告白されてね。目付けられるのが嫌だったから、付き合ったのよ。私がフッたとか、変な噂になるのも嫌だから。怖かったけど、何でもさせてあげた。あんたより全然カッコいい奴で、童貞だって言ってたけど、初めてのときも、余裕あったわ」


 放っとけ、非処女。俺はそう心の中で吐き捨てた。しかし、話は聞いてやろう。


 童貞の俺の葛藤を察したのか、聖子は小さく鼻で笑った。腹立つな。


「……なんだかんだ好きになってきてさ、あたしそいつのこと信用して、色々話したの。中学のこととか、法律のこととか。でもそういう話をするようになるとね、私のこと、面倒臭くなったみたい。自然消滅っていうのかな、もう連絡、つかなくなっちゃった」


 そう言った聖子の手。俺の腰をつかんだまま、ぎゅっと力が込められている。


 傷は、深いな。


 しかしなるほど、クズな俺にはその男の言い分も分かる。たかが高校生。女と付き合うのなど、自分のはくと快感のためなんて奴、ごまんと居る。ゆるい進学校で高校デビューを気取り、楽しくやれそうな、見た目の可愛い女の子に告白したら、いじめと不登校の壮絶な体験に、法律の知識を持つ、けた違いの才媛だった。どうしたものか、さぞ狼狽しただろう。


 が、許せんな。聖子の処女を味わったうえ、捨てやがって。

 俺がクズなら、そいつはドクズだ。去勢されちまえ。どうせこの後も、それなりにもてて、いずれ結婚して家族を作り、善人面で世の中を渡るのだろうが。


 そんなものだ。くそったれな、この世界め。中学で見た不良は、こういう気分で道路に唾を吐いていたに違いない。もはや、うまいまずいは関係ない、煙草が欲しい。


 自分にそんな反抗ができないことは、知っている。恐らく聖子もそうだ。


「弁護士目標に、勉強だけは続けてるけどさ。サキはいい子だけど、なんでもいいから、男の子が居ないと、どうしても寂しくて。そんなとき、あんたに会ったの。とりあえず、法律の話しても逃げないし、無害そうだったから、受験まであんたで精神安定させようかなと思って」


 俺は繋ぎだったのだ、聖子が上昇するための。淡々と語るその言葉は、さすがに俺に圧し掛かる。だが、聞こう。


「結構必死だったのよ、童貞とオタク調べて、変なキャラ気取ってみたり。付き合わされるあんたも可哀想だって、サキはぶち切れたんだけどさ。でもほら、一生モテそうにない童貞が、あたしくらいの女子高生と付き合えるんだから、ボランティアにもなっていいかなって」


 普段から心の中で巡らせていた、クズ思考そのものの言葉。他人の口から聞くと、ここまでキツいんだな。


 聖子。こいつは、俺レベルで、自分の名前が泣くほどのクズだ。色んなものが壊れている。


 だが、それを引き起こした苦しみはどれほどだったのか。俺には想像するのすら恐ろしい。いや、俺にはその苦しみが恐ろしいことが想像できる。なぜだといって、同じクズだから。


「あーでも、もうちょっとだと思ったのに。放っとけばエッチもさせてあげたのに。なんであんなこと言っちゃったのよ。あんた本当、馬鹿よね」


 空ろに微笑む聖子。その言葉にも雰囲気にも、俺は怒りより、悲しみを感じた。


 あの夜安奈と話したことが、方向性だけ合っていた。その慧眼、恐るべし。


 悪ぶって言い捨てた酷い言葉が終わった。それでも俺は、聖子を離さなかった。そして聖子も俺を離さない。陽は沈みかけている。


「……全部言ったのに、あんた、なんで私と居るの」


 こちらを見上げて、問いかける聖子。尋ねるというよりは、すがるようにも思えるその口調。俺にひっつき、ジャケットに包まりながら夕日を見ておいて言う台詞ではない。


「君こそ、何でだよ」


 一言で黙ってしまう聖子。そう、もう理由はないはずなのだ。

 聖子と俺の計算は壊れた。聖子も俺も、お互いの汚い腹の底を洗いざらいぶちまけた。真面目な才女と、前途有望な少年の、お上品な恋愛関係は粉々になったのだ。


 今ここに居るのは、傷だらけの孤独な心をさらした、薄汚い子供二人だ。


 聖子が俺の胸元にしがみ付く。手が震えている。俺の胸に顔を伏せ、その背中まで震わせて。もう自分で自分のことが分からないのだろう。どれだけ傷ついてきたんだろうか。


 面倒から逃げることを考えないのは、初めてかも知れない。


 壊れものを扱うように、その頭をゆっくりとなでてやる。


「……格好つけないでよ」


「辛いんだろ」


 聖子は言葉を失くした。再び、その顔が涙と苦しみに歪んでいく。耐えられなくて、俺は顔を逸らした。


 聖子が俺に突っ伏した。獣のような嗚咽。全身から涙を絞り出しているかのようだった。化膿を重ねた体中の傷に、一気に刃を入れたのだ。激痛を伴う、最悪の自己分析。俺を殴ったときから、聖子をそれが襲っている。


 経験があった。自分はクズだという思いが、最悪の形で現れるときだ。何を考え、何をしようとも逃げきれない。襲ってくる衝動を前には、ひたすら泣きもだえるしかない。


 さしずめ今の俺は、聖子にとって部屋の布団か、枕だろう。だがそれでいい。無駄にでかい体は、こういうふうに使うべきだ。


 夕日は、聖子の涙に沈んだ。夕闇が、宵闇に変わっている。


 聖子が顔を上げた。涙と鼻水が、俺のポロシャツをめちゃくちゃにしていた。最初あんなに意識した聖子の体も、ずっとしがみ付かれている内に平気になってきた。童貞だというのに。


 俺か聖子か、どちらかの腹が鳴る。ロマンチックでもなんでもないことが、今日を終わらせるけじめになる。


「お腹、空かない」


 泣いてかすれた聖子の声。


「空いたな」


 俺が答えると、聖子はジャケットを返し、体を起こした。


「帰ろっか」


「ああ」


 俺はうなずいて、立ち上がると、聖子の後を追った。


 乗車時間は午後五時過ぎ、帰りの電車から、兄貴にメールを打った。夕飯に遅れるかも知れない、と。すると返信で、母が帰ってきて、夕飯を作ってくれているとあった。


 兄貴のことは、聖子の関心に触れた。俺は兄貴の経歴や、武術のことについて、延々と話す羽目になった。当然、それ以外の家族についても。親父が船に乗っていることを話すと、やはり食いついてきた。あの海岸までの聖子も、丸きり嘘ではないらしい。誰かに家族の話を聞いてもらうのは、初めてだったかも知れない。


 乗換駅からは、通勤や通学の奴らと一緒になり、とても落ち着いていられなかった。二人ともひたすら立つことになったのだが、聖子は人目はばからず俺の手を取り、必死に握りしめていた。恋人というより、親の手を離せない子供の様だった。


 駅に着いた俺は、ここまで歩いて来た聖子に合わせて、自転車を押した。

家並みの迫る狭い車道が続く。俺は聖子を路側帯の側に押し込むようにして、車道側を歩いた。車が迷惑そうに俺達を避けていく。


 聖子はなにも言わずに、俺の家まで着いてきた。そして俺の家を特定した後、例のキャラで俺の母に上品な挨拶をし、徒歩数分の自宅へ帰って行った。


 出張から帰ってきた母が、コロッケを大皿に一杯作ってくれている。飯もどかっと炊いてある。俺と兄貴は手を合わせると、競って飯を平らげた。


 母と兄貴が、聖子を褒めそやしながら俺をからかってくるのが、正直うざったい。そして聖子のつけた傷に、ソースと油がひどく沁みた。


 だがその痛みは、俺が初めて、他人の心に深く踏み込んだことを自覚させた。


 それも、自分の意志で。


 飯を食い終わったら、聖子にメールしておこう。安奈への報告はそれからだ。

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