裂け目

 自分の口で言ってみると、その発言の重さが分かる。放っておけば、数年の楽しさは味わえたのかも知れない。しかし俺の最初の決断。このまま聖子の恋人になるつもりはない。


 信じられないといった様子で、凍り付いた表情の聖子。俺はただその目を見つめ、こう言った。


「俺は本当に、君みたいな女の子が、そこまでする程の相手なのか」


 壊れかかった肩をつかみ、そうっと引き離す。手も離したかったが、今の聖子は萎れた花のようで。砂の上に倒れてしまいそうだ。


「最初の日、法学のことを話して、アドレスをくれただろ。あのとき、本当は俺が、法律に興味が無い事、分かってたんじゃないの。急に受験の話に切り替えたのも、君を黙らせるためだって分かっただろ。年下の君が俺より成績が伸びそうで、くやしかったんだよ。そんな奴、君は本当に好きなの」


 聖子はうつむいた。その唇が震えている。俺が触れている肩に、小さいながら筋肉の動きがある。悲しみで振るえているのでは、なさそうだ。


 これは、覚悟を決めるか。


「あの日、三呂に行ったのは、勉強なんか忘れるためだ。声優のイベントに行きたくてさ。紀州屋にも好きな小説を買いに行ったんだ。たまたま君と出会ったから、格好つけて歴史の本の話をしたけど、あれは適当だった。君ほど賢いなら、おかしいって気が付いて」


 歯が飛んだかと思った。口の中が血の味で一杯だ。手加減なし、強く握った聖子の拳が、俺の左頬を張り飛ばした。


 ジャケットの襟首をつかまれる。首がへし折れそう、アニメやゲームで規格外のパワーを持った美少女キャラが流行ったのは、いつだったか。本気の憎悪が火を噴けば、男も女も関係ない。


「なんで! なんでそれ言っちゃうんですか! 全部台無しですよ! 馬鹿じゃないの、あなたみたいな人、私が彼女になったらラッキーでしょ! 黙ってたら気付かないフリしてあげたのに!」


 金切り声というのは、今の聖子の声をいうのだろう。


 海岸の平和は既にない。平和を構成する全ての人達は、痴話げんかをするカップルの目撃者となった。しかも、うどの大木のような男の方が、小柄な女から、鬼気迫る表情で吊し上げられているのだ。相当の見ものだろう。


 聖子は自分の言葉で、自分の憎悪を煽っていく。


「全部知ってたわよ、見りゃ分かるもん、あんた適当に勉強だけしてきた童貞でしょ! たまたま頭良かったから、褒められて、調子乗っていい進学校入って! 他のことがわかんないから、とりあえず偉ぶれる法学部行くんだ! 全部分かってるじゃない。分かってんなら、そんな奴に、あたしくらいの彼女ができたらラッキーじゃない。頭いいなら、自分の価値くらい、わきまえなさいよ! 何が気に入らないっていうのよ?」


 喉元に込められた力と、飛び出してくる、砲弾のような言葉。聖子はハムスターなどではない。イタチとかオコジョのような、小型の凶暴な肉食獣だ。可愛いらしい顔で、自分より大きな獲物の喉笛を食い千切って殺し、食らう。


 だがその数は減っている。その生態を理解した人間が、駆除し、乱獲してしまう。そう強いわけじゃない、人間に勝てる程、ずるがしこいわけでもない。


 むき出しの怒りが、聖子自身を傷つけて、夜叉のような目に涙が満ちていく。


「あんたみたいなのなら、すぐに手に入ると思ったのに。せっかく、もう寂しいの、終わるはずだったのに、せっかく……やっとあたしの話……しても、逃げない人……」


 嗚咽で途切れ途切れになりながらも、呪詛のような言葉が続く。これが本質。くだらない現実の中で、クズの俺を勝手に求めてきた奴だ。これくらいのものは抱えているだろう。


 俺は聖子が泣くに任せた。今聖子を苛んでいるのは、俺に近付いたときの計算だ。もう俺を落とす計画は壊れた。俺を通じて欲しがったものは手に入らない。


 今更さっきの発言を撤回はできないし、するつもりもない。可愛い女の子を泣かす、最低のクズ。そういう非難が、平和を構成していた人達から俺に向けられている気がする。


 どうとでも、勝手に思っていろ。どういう事情があるかは知らんが、相手は俺をみくびり、簡単に落として好きなようにできると思っていた女だ。俺は人に操られたくない。


 騙されておけばそれなりに幸せだったのだろうが、操られて見る幻など要らん。大体、逃げない人形である俺を通して得られるものなど、聖子にとっても幻だろうに。


 嗚咽が少しずつ収まっていく。涙が途切れてきているようだ。聖子の体に力が戻っている。俺はゆっくりと右手を離した。さっきから唾と血が口の中に溜まっていて、気色が悪い。吐き出せばいいのだが、唾を直接砂浜に吐き捨てるのは最低の行為だ。


 手のひらに出してみると、小さな白い欠片がある。舌で歯を確かめたら、前歯が少し欠けたらしい。聖子め。


 顔をしかめて手のひらの血を眺めていると、左手もそっと引き離された。


 薄めの化粧が、涙のせいで線状に剥がれている。聖子は確かに顔の造りがいいが、今の状態はまるで塗りに失敗したイラストだ。だが、涙は止まっている。


 俺達は、模範的な恋愛を、自分達の言葉と拳で粉々に壊した。後に何が残るのか。


 あざけりとも笑いともつかない、投げやりな声が、聖子から漏れた。


「……歯、欠けちゃったのね」


「殴られたからな」


 非難を込めてそう言うと、聖子は軽く鼻で笑う。


「殴られるようなこと言うのが、悪いんじゃない」


 俺をお兄さんと呼んでいた少女は、どこに行ったのだろうか。いや、こいつがそうなのだ。あんな聖子は最初から存在していなかった。


「いまどき警察官でも殴らないよ」


 俺がそう言うと、聖子は肩をすくめてせせら笑う。


「取り調べで殴るクズみたいな刑事、どこの署にも居るんだって。訴えたら他の事件で警察の協力が得られなくなるから、被疑者から相談されてもはぐらかすって、お姉さんが言ってたわよ」


 本当だとしたら、嫌な事実だ。刑事ドラマなど、しょせん脚色か。


「今、法律の話は聞きたくない」


「そう」


 煙草でも取り出して、吸いたそうな口調。


 俺が自分の血に塗れた手のひらを見つめていると、聖子がポーチからティッシュを取り出した。俺の胸倉をつかみ、殴りつけた女に不釣り合いな可愛さのポーチ。


「ふいたら」


「ありがとう。でもそっちも、顔、なんとかした方がいいよ」


 ティッシュを受け取った俺の言葉に、目元を拭う聖子。涙で剥がれた化粧が指についたのを見て、顔をしかめる。


「サイテーだ……。トイレ行くわ」


「俺も」


 二人して、砂浜を後に、松の木立と遊歩道の間にあるトイレに入る。今までの距離感のせいか、無駄に並んで歩いてしまった。


 この際、汚いとかどうとかは無視して、洗面所の水で口の中をゆすぐ。血がある程度流れると、傷口を確認する。唇と頬の裏側か。


「痛ぇな……」


 鏡で見れば、俺の頬はわずかに腫れあがっている。親父にも、おふくろにも、兄貴にも友達にも、中学の不良にさえ殴られたことはなかったのに。よりによって、女の子から拳を食らうとは。しかも浮気がバレた末とかではなく、恋愛の空気を、あえて読まなかったせいで。


 ついでに用を足し、手を洗ってトイレを出ると、聖子の姿がなくなっていた。怒って先に帰ったのだろうか。考えられるな。


 俺は帰る気になれなかった。ぼーっと、海の方を見つめる。


 陽が、だいぶ傾いている。さっきのやりとりなど無かったかのように、穏やかな夕暮れが近づいている。風も少し冷たくなってきた。


 俺はなぜ、涙を流さないのだろう。ついさきほど、女である聖子から与えられた傷や言葉は、生涯で最も凄まじいはずだ。安奈の言葉で予測していたとはいえ。自分でも理由が分からない。だが悲しく、寂しい気持ちが湧いてくる。


 まだ吸えはしないが、煙草でも一本、ふかしたくなる。俺はまだ十八だが、大学生や社会人になりさえすれば、誰も気にしない気はする。安奈なら、分けてくれるかも知れないな。

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