デート2

 結局、俺達は手をつないで紀州屋まで歩いてしまった。


 俺は手を放すことができなかったし、聖子も放す気が無かったせいだ。


 まだ、何もしていない。一昨日会ってから、三日間、ただ話していただけだ。なのに、俺には聖子が必要な気がした。他人に対してそんなふうに思えたことは、初めてかも知れない。


 紀州屋では、ほとんど話をしなかった。俺は聖子の案内で必要な本を選び、紙袋一杯買い込んだ。あのとき、怒られたことが響いていたのだ。それ以上に、俺が聖子を意識して、何を話せばいいか分からなかった。


 そんな状態のまま、寿司屋に入った。


 そこは、安奈を追いかけたときの、高架下にある店だった。といっても、あの商店街に連なっているのではなく、入口部分に、電飾の付いた看板を掲げている。そこには、確かに、日替わりの握りずしのランチが八百円とあった。


 店に入ると、威勢のいい掛け声に少々面食らう。聖子はひるむことなくカウンターの空いた席へ座り、俺を手招きした。


 カウンターのすぐ近くが厨房だった。俺とそう年の変わらない割烹着の若者が、まな板で、うねうね動く蛸をさばいている。見事な手並みで、あっという間にぬめりも内臓も処理され、寿司ネタ用の刺身が作られていく。


 ぼーっと見ていると、肩を叩かれた。


「お兄さん、ランチでいいですか」


 注文を取りに来てくれている。聖子が受けてくれていた。


「ああ、うん」


 俺の答えを待って、聖子がランチを注文してくれた。情けなかった。


 ランチが来るまでの間、聖子は法律のことを話した。司法試験の、昔からの科目である六法のこと。そして、新試験になって増えた、行政法という科目のこと。また、簡単に知識をまとめた本と、体系書といわれる分厚い本の違いについても。後は、重要な判例についての語りとか。宇宙の言語のようだったが、ただ一つ。俺が志望校のオープンスクールで知った判例を、聖子はすでに知っていた。


 民法に属するらしいその判例についての話の途中で、ランチが来た。


 こはだに、鯵、烏賊、そしてハマチの握りと、玉子、それから鉄火巻き、かっぱ巻き、新香巻きだ。なかなかボリュームがある。


「いただきます」


「……いただきます」


 また遅れた。が、俺はわりばしを割った。


 鯵から食べてみたが、うまい。フライにしたり、塩焼きでしか食べたことがなかったが、寿司にしてもこんなにうまい魚だったとは。シャリの食感、味付けもいい。ネタの鮮度のせいか、親父が航海を終えたときに、記念して取るチェーン店のものとは、段違いだ。


 俺も聖子も、あっという間にランチを平らげてしまった。


 朝が遅かったせいか、俺にはそれで充分だった。茶をすすって、聖子に微笑む。


「うまかったよ、ありがとう」


「いいえ。でもよかったです。お寿司屋さんに入るの、初めてだって言ってたから」


「魚は嫌いじゃないんだ。結構料理もするし」


 ただ、さばいたり、食べた後の生ごみの処理が面倒なのが玉にきずで、スーパーでも、つい二の足を踏む。そう言ったら、聖子はうなずいて返してくる。


「それ分かります。うちは、次の日が燃えるゴミのときの夕食に食べますよ。すぐに捨てられるし。夏場は、一晩でも臭うから、冷凍しちゃうんですよ」


 それはいい。その後、俺たちは魚の料理についても話し合った。きく限り、聖子の料理の腕前は俺より上のようだった。協力すれば、面白い料理も作れるかもしれない。


 ただ、話の間、聖子は視線を泳がせていた。ちらちらと見つめる先は、厨房とカウンターの間にある、ショウアップ用のガラスや、手前の水槽だ。


 中身は、寿司ネタ用の切り身に、元気よく泳ぐ魚。


 まだお腹が空いているのか。そういえば、あれだけ早く来た聖子は、朝食も早かったのかも知れない。


 遠慮しているのか。実は、今日のことでも、交通費を出すといったら、聖子は断ってしまったのだ。ここの昼食は俺のおごりになっているのだが。


「……よかったら、もっと食べる?」


「でも、お兄さんのお金ですし」


「いいって。俺もちょっとだけ、分けてもらうから」


 しばらくためらった後、聖子はうなずいた。背中を丸めて、小さくはにかむ。


「……はい」


 遠慮は無かった。聖子はいきなり五貫、追加した。俺は内心驚いたが、鉄の決意でもって表情を隠した。来た寿司を分けてもらい、どれも物凄くうまかったが、増える勘定はランチもう一食どころではなさそうだ。


 鰈(かれい)や、鯛、蛸を頬張る聖子の嬉しそうなこと。わさびの刺激に震えつつも、よく噛んで飲みこんでは、その度、満足そうに頬を緩める。寿司も美味いが、こういう聖子を眺めるのも悪くない。


 それにしても、こんなに小柄なのに、大した食欲――いや、そういえば小さい哺乳類はよく食べるのが多い。昔ハムスターを飼ったことがあるが、旺盛な食欲だった。


 寿司五貫を食べ終えた後、聖子は大満足といった様子で手を合わせる。俺もごちそうさまを言った。


 その後は、場所を近くの喫茶店に移し、また法学の話をした。


 今度は大学のざっくりしたカリキュラム、それと、それを踏まえた俺の勉強の計画についてだった。


 また少し聖子の事情が分かった。司法試験の内容まで知っているのは、それを突破した弁護士のお姉さんのせい。お姉さんは当然法学部を出ているから、大学の授業の内容も分かるというわけだ。しかも俺の兄貴と同じ国立衣戸大学、つまり俺の元々の志望校だ。聖子は相当たくさん、話を聞いたらしい。


 俺の学習計画だが、大学の授業は選択式で、手を抜こうと思えばわりと手を抜ける所もあるという。卒業に必要な勉強をする中で、いかに早く時間を捻出し、試験をにらんだ勉強にシフトできるかが、試験に合格するために重要なのだそうだ。俺は司法試験を受けるかどうかすら、まだ決めていないのだが。


 しかし、受けるとなると、高一から大学受験をにらむのと代わらないということか。大学生になっても。辟易する内容だったが、聖子は嬉しそうだった。晴れて法律漬けになれる俺が、羨ましいのかも知れない。


 お返しといってはなんだが、俺の方も少々聖子の成績や見通しについて聞いた。今度は、ただプレッシャーを与えるのではなく、聖子がどうすれば俺の大学に合格できるか、本気でアドバイスするためだ。


 全国模試の結果によると、聖子の成績に致命的な所はない。文系の奴が苦手にする数学でさえ、ある程度こなせるようだし、選択の生物にも苦手意識はない。その二つで苦労していた俺には、うらやましい限りだ。


 ただ、飛びぬけてできる科目も、ない。センター試験の難易度が平年より上がった場合や、二次試験に対応するには、心もとないともいえる。


 だがあと、一年あるのだ。しかも聖子には、部活のハンデがない。見通しは暗くないどころか、来年の今頃には、俺の大学より上が見えるかも知れない。具体的には、その弁護士のお姉さんや、俺の兄貴が出た衣戸大の法学部だ。


 そう言ったら、聖子はコーヒーをぐるぐるかき混ぜながら、嬉しそうに頭を振った。


 勉強ができる奴は、頭の良さを褒められると喜ぶ。これだけの能力を持ちながら、俺より下の高校に甘んじた聖子。そういうところは、俺以上なのかも知れない。


 喋りまくって喫茶店を出たのは、午後三時少し過ぎだった。


 専門書も手に入ったし、法学の話もたくさんできた。後は、夕食までに帰ればいい。


 三呂駅の自動改札前。聖子が突然、俺の袖を引いた。


「どうしたんだ」


「あの……ちょっと、寄って欲しい駅があるんです」


 予定に全くないことだ。しかし袖を握る力は強い。聖子の様子は、最初に出会ったときと違い、心配や不安が前面に出ている。俺への願いが、相当に強いのだろうか。


「そんなに遅くまで、居られないよ。そっちの親も心配するだろうし」


「本当にちょっとだけ、お兄さんに見せたい場所があるんですけど……」


 そう言ったきり、うつむいて黙ってしまう。使うかどうかも見極めず、ただわがままにおもちゃをねだる、子供のようだ。つまり昔の俺だが、この駅に着いたとき、俺に微笑した聖子と同じとは思えない。


 券売機の前に並ぶ人が減っていく。後ろにも人が並び始めた。流れを止めるわけにはいかない。それに、ここまで来てくれた聖子に、俺もなにかを報いるべきだ。ただ金を出した、という以外のなにかを。


「分かった。行こう」


「ありがとうございます」


 曇り空が晴れ上がるかのように、聖子の顔に微笑みが戻った。わけもなく、俺の気持ちも明るくなった。


 聖子の目的地は三呂から五つほど先の駅だった。その駅に新快速は停まらないから、一本見送って鈍行に乗る。


 三呂駅発の新快速は大体込んでいるが、鈍行の乗客は、たいしたことがない。来たときと同じく、四人掛けに二人で座ることができた。


 一つ一つの駅に停まってみると、色々気が付くことがある。近くにコンテナの施設があるとか、見たこともないスーパーがあるとか。都会と思っていた衣戸市内にも、ホーム一つだけのささやかな駅があるとか。


 俺が疑問を口にするたび、聖子は建物や場所についての解説を付けてくれた。なんでも、祖父母の家が近くにあって、小さい頃よくこの辺りに来たそうだ。俺も母が衣戸で務めているが、その実家は別だから、この辺にはあまり来ない。


 海浜公園という名の駅が、目的地だった。名前のわりに、駅の周囲には海も公園もなさそうだ。それは、跨線橋(こせんきょう)を渡って南側に降りても変わらない。うちの市にもありそうな、普通の家並みが続いている。


「ここ、なの」


「こっちです、一緒に来てください」


 聖子が俺の手を取って歩き出す。思いのほか強い力は、綱を引いて好きな方へ走り出す若い犬のそれだ。


 蟻の巣に引きずられる獲物みたいに、聖子にただただついていく。


 十字路をいくつか超えると、やがてばかでかい道路に出た。片側三車線ぐらいある。目の前も開けており、道路の先には街路樹、その向こうにあるのは、水族園だ。


 ここだったか。ここなら、何度か連れてきてもらったことがある。でかい水槽があったり、群れを成してぐるぐると泳ぐ鰯(いわし)が居たり、世界最大の淡水魚が居たり。もちろん、イルカも居る。


 聖子の目的地はここか。横断歩道を渡って近づいていく。大きな二等辺三角形の屋根に、不釣り合いなほど小さな入口。敷地を取り巻く柵や、回転式の退場門も。子供の頃を思い出すな。


 俺はなんとなく財布を確認した。今から回ると時間がかかり過ぎる気もするが、水族館とは、いよいよデートっぽい。


 が、聖子はその入り口前を過ぎ去った。


 ずんずん歩くと、左手の水族館は見えなくなり、生垣と大きな松の木立が続く。その向こうに建物はない。


 足元を見れば、路面のそこらに、さらさらとした見慣れぬ砂が散っている。


「こっちです」


 聖子の足取りが早まった。聖子に引っ張られ、生垣の切れ目の道へ入る。見事な松が木陰のトンネルをつくっている。それらをくぐれば、温い風に潮の香り――。


「着きました、ここです!」


 そう言った聖子の駆け出す先に、白い砂浜が広がっている。


 衣戸湾が、一望できた。遠くには箱型のタンカーが行き、その手前の水面は太陽を浴びてきらめき、得意げに帆を立てたヨットが、光の中を渡っていく。


 俺も聖子を追って駆けた。聖子は笑いながら悲鳴を上げ、逃げようとして砂に足を取られる。


 俺は追いつき、その手を取った。最初の日、階段で彼女の手を取ったように。


「……また助けてもらいましたね、お兄さん」


 俺の腕に絡みつき、もう片方の手で乱れかかった髪をなでつける聖子。急に走って乱れた呼吸、鼓動さえ伝わりそうな距離。見つめていると、俺の気が触れそうな彼女から、視線を外す。


 うろこ雲の浮かんだ空を見ながら、俺はつぶやいた。


「いい場所だな、ここ」


 見回してみる。東側に少し行くと防波堤。その向こうはヨットハーバーか。西側は、砂浜がかなり長く続いている。春先の穏やかな潮風を楽しむように、人が出ている。遊歩道をランニングする人、犬を連れている人。浜辺を歩くカップル、波打ち際を駆けまわる子供たちと、見守る親。


 ため息が出そうだ。平和とは、こういう光景をいうのだろう。聖子から目をそらすだけのつもりが、思いのほか、穏やかな雰囲気に引き込まれている。


「私、ここが大好きなんです。衣戸に出たら、絶対ここに来ます」


 俺を離れ、さくさくと砂浜を歩く聖子。波打ち際へ近寄っていく。俺もその後を歩いた。


「昔から、なんですよ。その日なにがあっても、こうやって歩いて、潮風に当たってると、なんだか全部飛んで行って、もう一度頑張れそうで」

海風のように、爽やかに微笑む聖子。あどけない表情が、どこまでも平和な、この海と調和していた。この海と聖子は、俺の心に刻み込まれ、二度と忘れないだろう。安奈の声のように。


「明日は明日の風が吹く、か」


 俺がつぶやくと、聖子が目の色を変えた。


「お兄さん、知ってるんですか! その映画」


「風と共に去りぬ、だったっけ」


 二年ほど前のラジオで、安奈がおすすめの映画として語っていた。合格発表の次の日に借りて見た。長かったが途中で寝たりはしなかった。これが名台詞らしい。


「私も見たんですよ。戦争で、たくさん人が亡くなって、友達も、故郷も、家もダメ

になって、でも笑って、また明日って。私も、スカーレットみたいに精一杯頑張ろうって」


勇気と行動力のある、美しいヒロインだった。もっとも、彼女の強さを見せ付けられ

た俺は、例によって自分と引き比べた。そして、こんな状況、俺のようなクズはなにもできずただ、死ぬだけだろうと悲観した。金も知恵もない馬鹿が、力を振り回してでかい顔をする、戦争への恐怖も感じた。


 心の中で冷静な映画の批評をしていると、聖子の魅力に流されていた俺の思考が、蘇ってくる。


 あの映画のヒロイン、スカーレット・オハラ。彼女が理想という聖子。なるほど、この海岸にたたずむ彼女に、明日は明日の風が吹くという言葉はよく似合う。


 だが今まで見てきたこと、そこから想像した聖子の姿と比べるのなら。


 俺の頭から、彼女への好意をむしり取り、ただ純粋に彼女の姿を想像するのなら。


 今日の出来事の流れを無視して、冷静に聖子という少女を推し量るのなら。


 俺はクズだから、それができるのだ。


「本当に、信じられません。私、ついこの間、お兄さんに助けてもらって、お兄さんは法律が分かって、私の大好きな映画も知ってて。私の好きな場所も、気に入ってくれて」


 聖子の言葉は、耳から注ぎ込まれるように、俺の頭に響いてくる。安奈が言ってた、『そのままだーっといっちゃう』だったか。


 なるほど、いい演技だ。あるいは演技ではないのかも知れない。今はそういう気分で一杯なのだろう。


 聖子が俺の胸元にしがみ付く。潮風の中、確かに女性の匂いを感じさせる。抱き

しめれば砕けてしまいそうに繊細な肩。見上げる瞳が潤んでいる、薄い化粧を施したその顔は、俺に向けられていることが、信じられないほど魅力的だ。


「寛志さん、私……」


「ちょっと待って」

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