デート1


 目が開いた、スマホを確認。九時過ぎ、九時過ぎだと。


「うおおっ!」


 一人で叫びながら目を覚ます。約束の十時まで、あとたった一時間しかない。


 階下へ降りると、食堂にはみそ汁と鯵(あじ)の開きが用意してある。兄貴さまさまだ。


 茶を入れて朝飯をかっこみ、手洗いを済ませて風呂場へ突っ込む。シャワーを浴びて全身を洗い、歯を磨いてひげを剃った。


 部屋に駆け上がり、滅多に見ない姿似を確認する。服、そうだ、服をどうする。


 聖子はめかし込んでくるのか、さすがに制服ということはないだろうが。ならば俺も服装を整えた方がいい。しかし何がある。安奈のイベントのために、気合いを入れてそろえたジャケットや、調子こいて買った高いチノパンは、安奈の家の近くの空き地で転んでおしゃかだ。


 そもそも聖子の気に入る格好はなにか。俺の格好など気にするのか。分からなくなった俺は、とりあえず無難にいくことにした。黒のカーゴパンツに、Tシャツ、ポロシャツとジャケット。チラシのモデルみたいな格好だが、不審者にも見えないし、別にいいだろう。


 ショルダーに財布とスマホを放り込み、玄関前の自転車に飛び乗る。九時半過ぎ、少し余裕があるか。


 車の気配のあまりない、家の前の道路を疾走しようとしたところで、庭から声がかかった。


「おい、どこ行くんだ」


 兄貴だ。無視するわけにはいかない。急ブレーキで砂煙を上げる。


 藍色の胴着に、黒い袴。腰に刀を帯びた男が、庭を歩いてくる。背格好は俺より少し小柄、顔つきもどちらかといえば童顔、少年のような空気をまとう。雰囲気だけなら、安奈と似た所があるかもしれない。


 後ろの芝生には、綺麗に切られた巻藁が落ちている。一つ目は、一束。二つ目は、二束。三つめは、三束をいっぺんにまとめたものだ。


 これは徹夜明けの兄貴の日課。法律に基づき、県の教育委員会で登録を済ませた真剣でやる、巻(まき)藁(わら)切りだ。兄貴は高校から武道を始め、十年になる。今では流派の演武に呼ばれ、師匠の手伝いや、腕前の披露を行うほどだ。


「寛志、随分忙しいな。アルバイトとか、始めたわけでもないんだろ」


 兄貴は澄んだ目で俺を見つめ、他意を含まず、そう言った。とがめるようなところも、偉ぶったふうもない、理想的な口調。さすが、俺の本来の志望大学を卒業しただけある。


「専門書を買いに行くんだ、この間はばたばたしてて、買えなくて」


 嘘ではなかった。聖子とのことも、あるいは安奈とのことも。言っていないだけだ。


 そう、家族には言わない。俺は俺の本当の屈託を、家族に話したことはない。取るに足らないことだろうから。


 きっと、兄貴も俺のことは、自分より頭のランクが落ちた、のんきな次男坊とでも思っている。勉強とゲームと、わけのわからんアニメに頼りながら、適当に生きる奴だと。


 俺から何を見て取ったか、兄貴は少しだけうつむいた。


「そうか……夜は、どうするんだ」


 残念そうな様子は、俺を理解したがっているようにも見えた。


 俺と違ってこの人は、高校でも大学でも親友たちに囲まれている。恋人だって居るのだろう。居合と合気で鍛えられたその心も体も、健全で強い。


 そんな人に、俺の口から話すことなどない。俺は学校での笑顔を作った。


「帰ってきて食べるよ、でもちょっと準備まではできないかも」


「分かった、いいよ。惣菜かなにか、買ってきとく」


 含みのない言い方、淀みのない表情。俺の中に何を見て取っていても、兄貴はこういう風に扱う。喧嘩など一度もない。あったとしても、俺は合気で転ばされ、あの刀で巻藁の様に体を断たれて終わるだろう。


「ありがとう、いってきます」


「ああ、いってらっしゃい」


 背中に兄貴の声を聞き、俺は自転車に飛び乗った。河原を飛ばすと、春の風が背中を押す。温かい草の匂いが、聖子に会うまでに、屈託を消してくれるといい。


 橋を渡り、民家の軒が迫る県道へ。車に気を付けながら道の端を行くと、駅に着いた。


 三呂駅とは比べるべくもない、ささやかな駅舎前のベンチ。


 そこにその子は、ちょこんと座っている。


 ショートブーツに、スキニージーンズ、淡いピンクのワンピースドレス。それから、腕にはシュシュ、首にペンダント、通学用とは明らかに違う、小さいポーチを携えて。


 当たり前だが、野暮ったい制服のときと、明らかに雰囲気が違う。子供っぽさが、可憐さに変わり、女性そのものを引き立てている。声をかけあぐねる俺に、聖子が気付いた。


「あ、お兄さん!」


 サイドテールを揺らし、勢いよく立ち上がる。ロータリーの歩道をこっちへ歩いてくる。今にも駆け出しそうなのを、自制しながら。できるだけお淑やかに、なんて思ってそうだ。首輪に引っ掛かる犬みたいだな。


「ごめんなさい、早く着き過ぎちゃいました」


「いや、俺の方こそ遅れてごめん」


 時間は、九時四十分。十時の電車には少々早いくらいだが、聖子はもっと早く着いたのだろう。俺はそばの自転車置き場に自転車を停めると、切符を買って聖子と共にホームへ入った。


 俺たちの他にも、私服の高校生らしい連中が居る。三呂へ行く大学生らしいのも居た。ただ、他に乗客は居ないらしい。


 このホームにはベンチがなく、俺達は並んで突っ立ったまま電車を待った。


 聖子は俺の左側に立ち、線路を見つめている。書店でも思ったことだが、やっぱり背が低い。女子の成長期は、男子より早く来て早く終わるそうだから、背丈に関しては多分このまま。可愛らしいのはいいが、不便ではないだろうか。


 見つめ過ぎたのか、沈黙に耐えられなくなったのか。聖子は小首をかしげた。



「あの……どうしました、お兄さん」


 子犬から、小栗鼠になったみたいだ。いずれにせよ小動物の雰囲気が漂う。さびれた無人駅のホームに、南から春風が上ってくる度、その前髪が少しだけそよぐ。


 まるでアニメのヒロインのポートレート。率直に言って、秀麗だった。


 画面から抜け出してきたかのよう、いや、聖子は聖子だ。俺が、彼女に、アニメのヒロインと同じものを感じ始めている。


 聖子は、本当にただの庇護対象なのか。そんな疑問を抱いたとき、電車が来た。


 思ったとおり、この時間の乗客は多くない。俺達は四人掛けの席を二人で占領できた。


 新快速の乗換駅までの数十分を、会話に費やす。話題は主に俺の専門書のことだった。俺は大学からのレジュメを持ってきており、聖子に渡した。驚いたことに、聖子は書かれた本の大半について知っていた。もちろん、既に目を通していたものもある。


 会話の中で、少しだけ聖子と法学が出会ったきっかけを聞いた。なんでも、知り合いに弁護士のお姉さんというのが居て、中学の頃その人を通じて知ったらしい。


 なるほど、中学生であろうと、公民の授業やニュース、ドラマを通じて、法律や弁護士の存在についてはなんとなく意識しているだろう。興味も持っているかも知れない。聖子のいう弁護士のお姉さんは、そういう興味を広げたらしい。


 俺はまた、肩身が狭くなった。人間関係を面倒くさがった俺には、家族と教師以外の大人の知り合いなど居ない。スイミングのコーチとも、もう連絡を取っていないし、関係を維持するモチベーションもない。聖子のように学校の外へ興味を向けて、自分の進路を見いだすことなどできなかった。受験の済んだ今でも、そんなざまだ。


 そういう俺の屈託を口に出せたのは、安奈に対してだけだった。


 目を輝かせて話す聖子には、とても言い出せることじゃない。眩しく、可憐だからこそ、余計に。この子や、兄貴と比べると、俺はやはりクズだろう。


 乗換駅に着き、新快速に乗る。三呂までは四十分程。向こうに着いたら十一時ごろか。本を選んだら、昼食を摂ることになるだろう。


 そうだ、昼食の店はどうするか。全く調べていない。昨日の話合いでも詰めていなかった。俺が三呂へ行くときは、コンビニやパン屋で適当に済ましている。だが、聖子に付き合ってもらってそれでは申し訳ないだろう。適当に入って不味い店に当たっても悲惨だ。


 列車は、衣戸市の西隣、赤石(あかいし)市に入ったところだ。もうしばらく乗っていれば、三呂に着いてしまう。


 黙っていようかとも思ったが、俺は電話口で話し合って、今日のコースを決めたことを思い出した。


「今日のお昼だけどさ」


「はい」


「昨日、三呂で食べるっていうのは決めたんだけど、実は俺お店とかあんまり知らなくて。悪いんだけど、良さそうな所、歩いて探すことになるかも知れないんだ」


 我ながら情けない言い方だとは思う。雑誌などでは、こういう行き当たりばったりは最も悪いと、こき下ろされるだろう。


 聖子は、意に介さない。


「それだったら、駅前に、私とサキちゃんがいつも行ってるお店があるんです」

「そうなんだ」

「はい。でも、ちょっと変わってるかも。お兄さん……食べ物の好き嫌いとかはありますか」


 自慢じゃないが、今まで食えなかったのは、親父が東南アジアに寄港したとき買ってきた、ドリアンの飴玉くらいだ。


 あれは凄まじかった、なぜ作ったのか全く分からん。そして、あんなもの買う方も買う方だ。親父は口数が少ないが、ときどきファンキーな行動を取る。


「大体なんでもいけるよ。アレルギーとかもないし」


「良かったです。それじゃあ、大丈夫だと思いますよ。ランチやってる、お寿司屋さんなんですよ」


 面白い選択だ。女の子二人で行くような店ではないと思うのだが。どういうきっかけかと思ったら、意外な名前を聞いた。


「サキちゃんが、お魚とか海、好きなんです。水産系の大学に行きたいって、理系に進んでるんですよ。食べ方とかもたくさん知ってて。私も魚嫌いじゃなかったけど、一年のとき、一緒に模試を受けに行ってお昼ごはんをそこで食べたら、すごくおいしくて」


 サキと海。なるほど、そういうクチか。魚や海が好きだから水泳を始めたのか、泳げるようになって、魚や海を好きになったのか。それは分からないが、なんとなく一致する。あの、どんなことにも物怖じしない雰囲気。大きな包丁でテキパキと鮪かなにかを解体する様も、想像できる気がする。


 酷いだろうか。だが、あいつは俺を傷つけた。これはあくまで俺の溜飲を下げるためだ。


 つくづくねじ曲っている。なぜ聖子はこんな俺を。


「あの、お兄さん?」


「……なんでもない。回らないお寿司屋さんって、入るの、初めてだから」


 我ながら、うまいごまかしだ。聖子は大丈夫です、なんて言って、自信ありげな顔つきを見せる。自分の好きな店に、俺を連れていきたくてたまらないらしい。


 自分だけが知る、お気に入りの場所に、親しい誰かを連れていくのは、わくわくする。俺も小学生の頃に覚えがある。たまに帰った親父と出かけると、引っ張り回しては、俺しか知らないと思っている町のことやら、学校のことやら、たくさん話したものだ。


 寿司屋のことや、サキと調理した、聞いたこともない魚について嬉々として語る聖子。子供の様な純粋さを感じる。こんなふうに日々を過ごして、選んだ進路にまい進できたら、どれだけ幸せなのだろう。


 列車はやがて、衣戸駅を過ぎ、三呂駅に到着した。さすがにここは、かなりの人出だ。特に、エスカレーターを降りてからがひどい。


 六つもある自動改札を、ひっきりなしにあらゆる人が出入りしている。学生、サラリーマン、年を取った人から、子供連れの母親、カップル。


 この駅は、四つもの路線が乗り入れている。安奈の居る町や、新幹線の駅を結ぶ衣戸市の市営地下鉄。二本の私鉄、南の埋め立て地へ行くモノレール。おまけに駅地下にも色々な専門店があり、とにかく人を引き寄せる。改札前の広場では、それぞれの目的地へ向かう人が様々に交錯する。慣れない身からすれば、まるで人間の渦潮だ。


 俺と聖子は、人の流れの中、別々の改札へ入ってしまった。


 聖子はすんなり改札を抜けたが、俺の前の乗客が、自動改札に切符を詰めた。駅員が出て来てすぐに改札を通したが、俺が改札を抜けるころ、先に出た聖子の姿は、人波に飲まれてしまっていた。


 俺は焦った。


 聖子が心配だからでは、なかったのだと思う。


 このまま聖子を見失ったら、俺が傷つくような気がしたのだ。


「どこだ……!」


 聖子は小柄だ。この人波に飲まれて、俺の手の届かない所に行くのではないだろうか。元々俺が関わるべき人間じゃなかった気がするが、それでも今ここで、あの子を放してはいけない。


 駅員室前の広場、中央には売店がある。買い物をする人のおかげで、人波はその周囲を避けている。落ち着いてみれば、そこに聖子の姿があった。


 俺は駆け寄った。ぶつかりそうになり、不快そうに睨まれたが、関係ない。


 見当違いの方を見つめる聖子の手、声をかけることもなく、俺はその手を掴んだ。


「お兄さん……」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは、こういうのを言うのかも知れない。


 聖子は予測していなかったのだろう。なにか言い訳をしなければ。


「はぐれると、いけない」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 聖子が戸惑ったように俺を見つめている。その顔から、目が離せない。

 やがて、聖子の顔は微笑みに変わった。穏やかな声で一言だけ。


「……はい」


 不思議な余裕だ。俺はきっと、一生女性に頭が上がらないのだろう。

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