電話

 家に着いた俺は、久しぶりに勉強で部屋にこもった。


 法学は難しかった。ただ本を読んだだけだが、聖子はよくも、こんな文章を読みこなせたものだ。数時間かけても、通読すらできない。ため息が出る思いだ。本当にこんなものを勉強できるのだろうか。それどころか、これを教科書に試験を受けるなど、およそ人間業ではない。四年もやっていけるのか。


 時刻は夕刻。そろそろ兄貴が帰ってくる。俺は部屋のたんすを開け、エプロンをつけた。夕食を作っておかなければ。働いている人の方が偉い。


 しょうがとだしの香る、和風焼き飯。ちくわにじゃこが香ばしい。


 二皿に分けると、片方にラップし、レンジに放り込んでおく。兄貴の分だ。


 かごにあったリンゴを剥いて、配膳を済ませ、エプロンを外して畳み、いよいよ手を合わせようとしたところで、尻ポケットの電話が鳴った。


「はい、もしもし」


『やー……元気してた』


 かけてきたくせに、妙にテンションが低い。寝起きか。しかしこの声。それでも一

発で分かるあたり、俺もたいがいだ。


「安奈さん……」


 あの部屋から、かけているのだろうか。自分の家に居ると信じられない。あの町も、あの部屋も幻だったかのようだ。安奈の声は続く。


『こっち今起きたんだけどさ。そっちはどうなの、やっぱ寝起き』


「そうでもないですよ。ちょうど晩飯作った所です」


『へー、料理できるんだ。なに作ったの』


「和風焼き飯。それに、リンゴもむきました」


『美味しそうね、スペック高いわー。ところで、ちゃんとメールした?』


 ぽろりときかれ、俺は言葉に詰まった。これが本題なのだろう。


「いやそれが、してはないんですけど」


『早くしたほうがいいんじゃない。その聖子って子、心配してると思うよ。女の子の方から声かけるのって、ただでさえプレッシャーなんだから』


 そうなのか。確かに昨日の聖子の振る舞いは積極的だった。男の俺が分かるくらいだから、聖子にとっては相当のことか。


 しかし、そんなに俺の反応を気にするなんていうのは、自惚れすぎじゃないだろうか。なぜ俺などにそうまでして。それに、なによりも。


「いや、もう会っちゃったんですよ。高校は別だったんですけど、同じ市に住んでたみたいで、今日昼ご飯買いに、近所のショッピングセンター行ったら、そこでばったり」


『嘘でしょ! 凄いわねそれ』


「俺も信じられませんよ。昨日からわけわかんないことばっかりです。俺のこと泣かしたサキちゃんって子も居たんですけど、俺と同じで水泳やってたみたいだから、その絡みで普通に話せちゃって」


 女子高生二人と昼飯を食べ、その日の夕方に憧れの声優から電話を受けるか。一昨日の俺に言えば、目玉がとび出しただろうな。


 こんなことになって、俺は数日中に、悲惨な事故で死ぬんじゃないか。


 興奮のまま、今日の出来事を、とうとうと話していると、安奈が冷静につぶやく。


『……で、結局首尾はどうなのよ。仲良くなれそうなの、聖子ちゃんとは』


「それは……」


 振り返ってみると、あまり聖子と話せなかった。サキへの苦手が少し和らいだのは、救いだが。


 思い返せば、聖子の人となりについては、ほとんど聞いていない。


 部活に入っているか、そうでないか。なぜ、今のうちから弁護士を目指して専門書まで読んでいるのか。果たして本当に、屈託なんて抱えているのか。中学の頃、小学校の頃どうだったか。


 全く分からない。


『機嫌良さそうなとこ悪いんだけどさー、そのサキちゃんって子にうまいことやられたんじゃないの』


「うまいことって」


『だから、君を引き離すってことよ。実際、私が言うまで、君聖子ちゃんのこと忘れてたでしょ。君が居るときは、表向き仲良くしといて、後で聖子ちゃんの方に、ゆっくり諦めさせるとかじゃないのかなあ』


「そんな……」


 あんな楽しそうな会話の裏に、そんな思惑があったというのか。


 しかし実際、俺はあの場で怖がらずにサキと話せたことで、完全に満足している。そして、その事実で頭が一杯で、聖子のことを忘れている。


 安奈に言われなければ、ふんぞり返って連絡を待っていたはずだ。そして数日連絡が来なければ、きっとそれっきりになるだろう。


「そんなの嫌ですよ! なんか、上手く言えないけど、手のひらの上みたいで」


 サキ。いや、サキの姿に集約される、俺を傷つけた女性の影。聖子がどうとかではなく、そいつの思い通りになるのだけは避けたい。しかし安奈の言葉は厳しい。


『カッカしないでよ。こーいうことで女の子に勝つのは難しいわ。ホストクラブで五、六年働いたら分かるようになるかもしれないけど、ムリでしょそんなの。そんなことしたら、寛志君の良いとこも無くなっちゃうだろうし』


 率直ゆえに、骨身を貫く言葉。安奈も女性だ、俺の気持ちを読んだ上で、都合のいいことは言ってくれない。


 くそ、高校が上と下とかではなく、俺にもそれくらいのものがあれば。アニメやら声優に逃げずに、きちんと女の子と向き合っていれば。あるいはもう少しましだったのだろうか。


 安奈に言われなければ、俺はそんなことにも気付かず、また勉強ばかりしていた。


『……大丈夫?』


「はい」


 唇を噛みながら答える。スマホを投げ捨ててしまいたい。なにが嫌いといって、人の思い通りに操作されることほど、はらわたの煮えくり返ることはないのだ。俺の頭がもっと悪ければ、暴力に訴えたいくらいの気分だ。絶対しないが。


『でも簡単だと思うけどなあ』


「どういうことですか」


『君から連絡すればいいじゃない。聖子ちゃん喜ぶと思うわよ』


 なるほど、それはそうだ。


『向こうのメアドは知ってるんでしょ』


「番号も、交換しました……」


 去り際、是非にと言われた。そういえばそのときばかりは、サキの目が笑ってなかった気がする。


『完璧ね。じゃあ今日のうちに電話して、向こうの予定きいて、一回二人で会ってみたら』


「会うって」


 俺から電話で申し込んで、聖子と二人だけで会う。それは好意がどうとかではなく、もう間違いなく――。


 安奈は、それだけに留まらない。


『そうねー、サキって子が来たらまたややこしくなるだろうし、ちょっと面倒だけど衣戸まで誘ってみたら。お金まだあるの』


「それは、あの、あぶく銭っていうか、親父が誕生日に振り込んでくれたのとかがありますけど……」


 うちは共働きのせいか、金銭には余裕がある。兄貴が県職員になってからは、さらに安定した。親を早くに亡くし、散々お金で苦労した安奈には言いにくい。が、安奈の声は分かり易いほど明るくなった。


『いいじゃない。じゃあ、電車代とご飯代も出すって言っとくといいわ。狙ってる男から誘われて、おごるとまで言われたら、あたしだったらイチコロよ』


「そんな、虫とかやっつけるんじゃないんですから」


『うふふ。でも、嬉しいと思うわ、サキって子に色々吹き込まれてがっかりきてる所に、当の君から会いたいって言ってくるんだもん』


 本当かどうかは分からないが。聖子が俺の反応を気にしているなら、俺からの誘いは渡りに船だろう。


 しかし、問題がある。


『うまくいったら、そのままだーっと……あら、どうしたの? 黙っちゃって』


「いえ、いや、あの、俺はその、なんだろう。女の子誘ったことなんて、今までいっぺんもないんで」


 電話をかけて二人で話す。そして二人で衣戸の街へ出る。俺のおごりで食事をする。


 異次元の彼方だ。地殻変動レベルだ。できるはずがない。


 安奈はなんでもないことのように言う。


『大丈夫よー。会ったその日に、何時間も話して、本屋さんで難しい本一緒に読んだんでしょ。問題ないわよ、別に意識なんかしなくても』


「無理ですよ! 女の子に電話するなんて……それに、なんか変なことして嫌われたら」


『付き合うわけじゃないんだから。妹が出来たと思えばいいんじゃないの。それとも、興味が出てきちゃった。とうとう、私のファン卒業しちゃうのかしら。ラジオのリスナーが減ったら、お姉さん寂しいなー』


「からかわないでください……電話切りますよ、ご飯冷めるし、ちゃんと誘いますから」


『大丈夫だって。最初は、友達と遊びに行くんだと思えばいいのよ』


 それも何年、やってないのだろう。小学校、中学校くらいまでオタク友達的なのが居たが、別の高校へ進んだ途端、それきりになってしまった。


『そんじゃー、頑張って。メール楽しみにしてるわ』


「はい……ああ、ちゃんと食べてくださいね」


『生意気ねー。でもなんか作ってみるわ。それじゃあね』


 電話を切り、深いため息をついた。


 飯を食って部屋を片付けたら、聖子に電話しよう。これはこれで安奈に動かされているような気がするが、敵う相手とそうでない相手の区別はついているつもりだ。俺にとっての安奈は、安奈にとってのイエロー・モンキーなのだから。


 洗い物を片付けたところで、時間は八時前。そろそろだろうか。話してる途中で兄貴が帰るかも知れないが、それを理由に先へ伸ばしても、どうなるものでもない。


 部屋へ引っ込んだ俺は、覚悟を決めて聖子の電話番号を呼び出した。


 コールが一回、二回、出られないならその方がいいかも知れない。


 三回目――。


『もしもし、お兄さんですか』


 出た。確かに聖子の声だ。俺だと分かるのは、番号を登録しているのだろう。


「あ、聖子ちゃん。ちょっと今、大丈夫」


 声は上ずってないだろうか。というか、女の子を、『ちゃん』付けで呼ぶなんて小

学校以来だ。こっぱずかしいにもほどがあるぞ。昨日は普通に話せたのに。


 ありがたいことに、聖子の方は俺の気色悪さを気にしていないらしい。


『ちょうどお風呂上がったところで、今部屋ですから、大丈夫ですけど』


「そうか、よかった」


 風呂か。パジャマ姿を想像していいのだろうか、あの子には似合いそうだ。


 サキが居ないか気になったが、露骨に問うのは、はばかられた。居ないと信じて進めよう。


『今日は本当にありがとうございました。お昼ご飯、おごってもらって』


「気にしないでよ。あれくらいだったら、いつでも大丈夫だから」


 いつでもなんて、軽く言うものじゃないのだろう。考える前にいい格好をしようとしてしまう。


 とまれ、型通りのあいさつは済んだ。いよいよ本題だ。


「聖子ちゃんは、やっぱり忙しい」


『えっと』


「いや、サキちゃんは部活があるみたいだけど、聖子ちゃんのことは聞いてなかったから」


 まだるっこしい。論理的には、連れ出すのに予定を聞かなければならないというだけのことなのに。


 沈黙が横たわる。俺は馬鹿だ。さっきのきき方では、サキと比べて聖子は暇だと言っているようにも取れる。


『……私、特に部活とかは。勉強に集中しようかなって』


 それと分かるほどに、声のトーンが落ち込んだ。俺は自分を殴りたくなった。あのときの金髪が目の前に居れば、一発きついヤツを叩きこんでもらいたい。しかし、やっぱり帰宅部だったか。


 ここで下手に謝ったら余計意識させる。もう要件を切り出そう。安奈の言ってることが本当なら、元気を取り戻させてやることができるはずだ。


「それじゃもし、時間があったらなんだけど、週末三呂まで出るの、付き合ってもらえないかな。この間、本屋で専門書を買いそびれたんだ。歴史の本はいいんだけど、法学の本はどれ買っていいか分からなくて」


 デートのことなど、何も知らなきゃ、調べる気も起きない俺。だが聖子の好みそうなことなら分かる。間髪入れずに聖子の声。


『本当ですか! 是非ご一緒させてください』


 三呂へ向かう新快速電車で、俺を座席に押し付けたときと同じ。目の中に星を飛ばして、尻尾を振り回す子犬のような彼女の姿が浮かぶ。


『嬉しいです、お兄さんから誘ってもらえて。あ、でも私、週末は二日とも模試があって……』


 一転して、みるみる萎んでいく聖子の声。なんとかしてやりたいが、まさか模試を休ませるわけにもいかない。どうしたものだろうか。その次の週という手もあるが、サキがなにか仕掛けてくるかも知れない。


 なにか言ってあげたいけれど。俺が黙ると、聖子の方から、おずおずと切り出した。


『あの、お兄さん……』


「どうしたの」


『明日って、予定ありますよね』


 明日か。考えてもいなかったが、高校は休みなのだろうか。聖子は続ける。


『今日は受験で休みだったけど、明日は、その採点で休みなんです。サキちゃんは、部活の後輩と泳ぎに行くみたいで、私ちょうど空いてるから、お兄さんの勉強の邪魔じゃなかったら』


 恐る恐る、そう口にする聖子。俺から言うべきことを、結局言わせてしまった。


「空いてるよ。付き合ってもらえたら、嬉しい」


 もちろんです、と喜色に満ちた声が返ってくる。よかった。無意識に、口元がにやける。


 それからは、電話口でとんとん拍子に話が運んだ。

 午前十時に最寄りの駅へ集合し、そこから三呂へ。三呂駅前の適当な店で昼食を摂り、書店へ。書店ではこの間のような迷惑を絶対に避けて、速やかに本を選ぶ。その後近くの喫茶店にでも入り、本についてひとくさり話して、夕刻になったら帰る。俺と聖子は二人で話しながら、そういうスケジュールを組んだ。


 身構えていた俺は拍子抜けした。なにせ、衣戸で知ってるのは、アニメショップと予備校だけ。デートなんて考えたことも無かったのだ。


 それなのに、どういうわけだ。


 電話を切ったときの、嬉しそうな聖子の声を思い出す。とにかく、上手くやれたのか。


 安心すると、睡魔が襲いかかってくる。考えてみれば、昨日は安奈を追ってさんざん歩き回った。今日は思わぬところで聖子たちに出会い、気をもんだり急に勉強したり。そして、電車でもあまり眠っていないのだ。


 俺はスマホのメールを開いた。兄貴のアドレスをクリックし、連絡を送る。


『すまん、眠いから早く寝る。飯はレンジに入ってる』


『合格はいいけど、あんまり無茶な過ごし方はするな。飯ありがとう、ゆっくり寝ろ』


 丁寧だかなんだか分からないが、了解してくれたらしい。俺と違って徹夜明けだというのに、ありがたいことだ。ベッドに倒れた俺は、目を閉じる前に気力を振り絞って、安奈に連絡のメールを送った。


 送信済みになったのを確認。シーツの上の乱雑な布団に、もそもそと潜りこんで目を閉じた。冬は動きが鈍くなる。

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