偶然
朝帰りに問題はなかった。俺は昼前に家に着いたが、兄貴も親父も、母も仕事で居ないからだ。
親父はコンテナ船の航海士で、今はヨーロッパと衣戸港の間。定年前の母は、衣戸税関の職員だが、東へ研修。県職員の兄貴は、所属部署に仕事が集中して忙殺。今の部に移って三年、この時期の徹夜は珍しくない。文句ひとつ言わずこなしている。
この家を建てた母方の祖父母は、俺が中学の頃に亡くなり、がらんとしてしまった。うちもまた、安奈しか居ない団地の部屋に、文句を付けられないのかも知れない。
玄関の鍵は持ってきている。あの町で落としていなくてよかった。鍵を開けて家に入ったが、三月の初めにしては温かい。石油ストーブも必要ないか。
冷蔵庫を開ける。食料は乏しい。米ぐらいは炊けばあるし、缶詰の煮物でも食えば間に合うかも知れないが。どうせならもっとマシなものを食べたい。夕食の材料も必要だ。
「仕方ない……」
買い物に行こう。しかし、手が痛い。つくづく阿呆の極みだった。
うちの市は、中途半端だ。田舎ではない。限界集落とかいう、いかにも街の人間が考えたくさい言葉が当てはまらないことは確かだ。じゃあといって、衣戸市のように、すぐそこにバス停、地下鉄、便利なスーパーがあるわけでもない。
車も免許もない俺は、一キロほど離れたショッピングモールまで自転車を漕ぐしかない。
市内の買い物客を殆ど一手に担うショッピングモール。その一階が食品売り場だ。
三呂駅の地下街にあったような、高級菓子なんかの店をスルーし、惣菜と弁当のコーナーへ。安奈の家で徹夜中に、スティックパンをかじって以来、俺の空腹は最高潮。なるべく重い物が欲しい。
トマトソースで煮込んだハンバーグに、ざっくり切ったチーズ。それがどかっと乗った派手な弁当。最後の一個、これで決まりだ。
「あ」
横合いから伸びた手に、思わずお見合いしてしまう。
俺達は固まった。相手は、俺が先日会った女の子だった。
「……なんで、あんたが居るのよ」
こっちの台詞だ。が、聖子以上に、そんなことを言えない相手だ。
サキは、つまらなさそうに手を引く。気をつかうべく、俺は呟いた。
「あのこれ、食べたら」
「いらない」
俺が手を伸ばしたからか。やっぱり一般的な女は俺を避けるのだ。気持ちの悪いこの俺を。
弱すぎる。こんな俺が、聖子に近付くなんて無理だ。心配だとか言っても、所詮は俺を苦しめずに喋れる女の子だから、近づいてみたいというだけじゃないか。
俺はサキの圧力に負け、弁当をかごに入れた。不味い飯になりそうだ。
大体、サキがなんでこんなところに居る。
うちの市は、二人の行く高校の学区だ。だから、サキがこの近くに住んでいるのは、いい。しかし、今日は平日のはずだろう。学校をさぼっているのか。
「サキちゃん、どうしたの……お兄さん!」
野菜や肉で一杯の買い物かごを持った聖子が、俺を見て驚いていた。
サキが頭を振り、深い溜め息をつく。俺は苦笑した。メールの一本を返すこともなく、俺達は再び出会ったわけだ。
弁当を返した俺は、イートインのコーナーで昼食を摂ることにした。昨日から財布のひもがゆるくなっており、勢いで二人におごることにする。サキは露骨に嫌な顔をしたが、聖子は俺を立ててくれるのか、結局三人で食事をすることになった。
俺はカツ丼、聖子はナポリタンスパゲッティ、サキはハンバーガーにポテト、それに、どぎつい緑に輝くメロンソーダだった。
食券を買って提出に行ったら、顔だけ知ってる同級生の男子がバイトしていて、なんだか気まずかった。聖子とサキに話しかけているところも、しっかり見られたし。
まあいい、食べよう。俺の空腹は、些細なことを無視できる程度にきわまっている。割り箸を開いて手を伸ばそうとしたとき。
「いただきます」
「いただきます」
サキと聖子が、神妙に手を合わせている。サキに至っては、獣のようにかつ丼を食らいそうな俺を、横目でにらんだ。
そういえば、最近忘れていたな。
「……いただきます」
食事の時間か。けじめは大事だ。
食べながら、二人の身の上を聞いた。
二人は家が隣同士で、生まれてから、ずっとこの市に住んでいるという。今行っている高校を合わせると、小、中、高と全て一緒に通っているそうだ。
一見、強面なタイプのサキと、可愛らしい雰囲気の聖子。女の子は雰囲気が似た子が一緒に居る場合が多い気がするが。幼馴染は例外だな。
同じ市に住んでいる俺達が、お互いを知らなかったのは、小学校も中学校も別だったせいだ。もっとも、二人は女子だし、年も下だから、同じ学校でも分からなかっただろう。
俺も、聖子に語った自分の経歴を述べてみた。主にきれいな所だけ。サキはそれでも腑に落ち無さそうだったので、生徒手帳を取り出す。落としたせいで汚れている。
酷い面で映ってしまった写真と、俺の顔を見比べ、サキが言う。
「……いや、本当だったのね。あんた頭いいんだ。ごめんね、疑っちゃって」
いたずらを見つかった子供みたいな顔で、苦笑するサキ。計算とかは見いだせない。それとも、腹の底で俺を追っ払う算段でもしているのだろうか。
「いいよ、別に」
そうだとしても、これ以外に返す言葉はない。計算しながら会話をするのは面倒だ。俺達の雰囲気が柔らかくなったせいか、聖子も嬉しそうだった。
「でもごめんなさい、お兄さん。ご飯までおごってもらっちゃって」
「そこは、ありがとう、でしょ。いいとこあるじゃない。聖子のご飯食べ損ねたのは残念だけど、一食浮いて助かったわ」
遠慮なくハンバーガーを飲みこみ、ポテトをつまむサキ。こいつは、三人の中で一番高いものを選んでいる。しかもその献立。某チェーン店の品ではないが、いよいよアメリカ人だ。もっとも、連中の健康な雰囲気というのを、俺は嫌いではない。サキだって、露骨に警戒する様な相手ではないのだろう。
「でも、意外だったな。俺はともかく、そっちは今日学校休みなの」
「今日は、高校受験の日なんですよ」
なるほど、そうだったか。確かに三月の中ごろ、県立高校の入学試験が一斉にあった気がする。うちの母校も休みになっていた。ふた月も行かないと、行事なんてすっかり忘れてしまう。
メロンソーダを飲み干し、サキは椅子にもたれた。
「あんだけ散々勉強しろって煽っときながら、こないだのテストが済んだら動きがないんだもんね。顧問の先生も、試験官とか採点やるから、あたしも部活なくて暇でさあ」
「それで、私の家で、朝から二人で勉強することにしたんです。平日だから、親も働
いてるし」
なるほど、そういうことか。普通の高校生ならありえるだろう。俺は友人の家で勉強したことなどないが。
「じゃあ、食べたら勉強しに帰るんだな」
「そうそう。受験済んだあんたと違って、こっちは忙しいのよ。お昼は本当にごちそうさまだけどね」
「沙希ちゃん、そんな言い方ないよ。お兄さんだって、三呂まで行って本買って、法律の勉強始めてるんだよ」
どういう顔をしていいか分からなかった。
昨日はライトノベルを買い、声優をストーカーした後、その家に泊まって、徹夜でゲームをした。法学のほの字も、俺の行動には存在しない。ネットとかで見る、だめな大学生の典型だ。いや、普通の大学生はストーカー行為などしないだろうから、なお悪い。
サキが意地悪気に唇を歪める。
「どーだかねー。私の知ってる先輩は、受験が済んだら、みんなふぬけみたいになって、ぼーっとしてたけどなあ。よくてバイトか、車の免許取りに行ったりとかだよ」
目は笑っているんだが、なかなかきつい言葉だ。俺は水を飲んだ。取りあえず落ち着こう。
「疑い過ぎだよ、沙希ちゃん。ごめんなさい、お兄さん」
「いいよ。確かに、受験のときみたいに、しょっちゅう勉強できてるわけじゃないか
ら」
俺の言葉を
「でも本当よくできてるわねぇ。聖子の志望校の学部に受かったなんて。あんたって、そっちの高校だと平均くらいなの」
嘘はつけない。付いても仕方がない。
「みんなの進路を調べたわけじゃないから分からない。でもテストとか模試だと、上半分には、なんとか入ってるかな」
来た当初は余裕で入っていた。しかし数学が難しくなるにつれ、じわじわと成績が下がり始め、やがて中の上を維持するので精いっぱいになった。中学までは頭がいいと持てはやされたが。本当に頭がいい奴の群れに交じれば、俺もしょせん凡人だ。ひたすらに、そう思い知らされた三年間だった。
ところがそれは、サキ達からすれば、大したことらしい。
「平均で、平丘の法学部かぁ。やっぱ違うわね。就職組とかもあんまり居ないの」
「普通科の知り合いには、居ないかな。あ、いや、何人か公務員が居た気がする」
安定を最優先させ、大学まで待たずに就職したのが居た。後悔しないのなら、プライドで変な大学に行くよりよほどいい。
「そういう感じか。あたしら家近いんだけど、行けなかったから、よく分からなくて。今更なんだけどさあ」
ちょっと寂しげに目を細めるサキ。近くの高校に行けなかったというのは、それほどのことなのだろうか。
高校の偏差値の差なんて知らない頃は、漠然と近い高校に行くものと思う。いざ高校受験となって、その壁が思った以上に分厚いのを知る。何となく進むつもりだった道に、自分の力が足りないというのは、嫌なものだ。サキも聖子も、わざわざ電車に乗って自分の住む市と別の高校へ行くことになったのだから、軽い都落ちの気分かも知れない。
聖子の方も、あいまいな笑みのままテーブルにうつむいた。サキがそれに気づいて、これはまずいという表情をする。どうにかしなければ。俺はとっさに口を開いた。
「ええっと、サキ……ちゃん、は、部活は」
どう呼んでいいか分からない。話題を変えてやりたかったんだが。
露骨な気遣いに、サキはむっとした顔。俺は身をすくめたくなった。しかしやがて、少し面倒くさそうに言う。
「……水泳。六月の総体まであるの」
思ってもみなかった答えだ。そりゃあ、奇遇な。俺が反応を見せる前に、聖子が顔を明るくする。
「サキちゃん、県大会にも出るんですよ。クロールがすごく速くて、カッコいいんです。去年は、総体見に行っちゃいました」
よかった。しかし、県総体に出られるというのは、結構泳ぎ込んでいる。種目別の規定タイムさえ切ればいいのだが、相当真面目にやってないとそこまでは伸びない。なるほど、長い手足に大柄な身体からは、力強いストロークが期待できそうだ。
「俺も、水泳だったんだ。クロールやってたけど、種目は何」
「聖子が言ったでしょ。クロールが主だったけど、あんた短距離?」
「スタミナがないんだよ。百メートルか二百メートルがせいぜい。うちはそんなにレベルが高くないし。一応県大会には出たけど」
聖子を置き気味に、会話が進む。俺を泣かした女子であっても、水泳が分かるのなら話は別だ。この話をしている間、俺が傷つくこともない。サキはさらに会話に乗ってきた。
「あたしは、中距離と背泳ね。スピードが伸びなかったから、四百メートルが一番いいとこいけるのよ。個人メドレーとかどうなの?」
「平泳ぎとクロール以外全然だった。がむしゃらになると、背泳で頭打つんだ」
「ああ、今年の後輩にめっちゃ頭打つ奴居たわ。へー、頭いいくせにそそっかしいのね。なに、ショック療法とか」
好きでぶつけてるわけじゃない。半笑いで言われた俺は、顔をしかめた。聖子が心配そうにするが、実のところそんなに腹が立ってはいなかった。
サキは水泳の経験まで俺と似通っていた。小学校の高学年から始めて、中学が水泳部、高校もそうだという。もしかしたら、スイミングクラブか、中学の大会で、知らずに会っていたかもしれない。
お互いの高校の違いや、部活、中学のことなどを喋っていると、時間があっという間に過ぎた。気が付けば一時間近くが暮れてしまっている。俺が時間について告げると、二人は改めて昼食の礼を言い、帰っていった。
二人を見送った俺は改めて食品コーナーに行き、適当な食材を買い込んだ。そして二階の書店に寄った。専門書レベルでなくても、簡単なものなら。
「……これか」
入学前に読めと言われた入門書。新書サイズだ。資料にはその辺で見つかると書いてあったから、案の定だ。
自転車の前かごに食材を突っ込み、車道沿いを歩く。でかいため池に、昼過ぎの陽ざしが反射して、穏やかな気分だ。
二人は家に着いただろうか。高校の近くなら、自転車でいけばすぐだろう。今頃勉強を再開しているはずだ。本当に仲が良い、ああいう友達が居れば日々楽しいに違いない。
今日は、ゲームもネットも休もう。六法だけはあるから、この本を読みこんでみるか。
あの子たちは頑張っている。ここまで話せてしまったら、サキでさえ、もう俺を追い詰めるだけの女には思えない。あの子たちは受験と戦う。昔の俺と同じなのだ。
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