踏み込み

 もう少しで、縫い針ごと右手を握り込むところだった。水を飲んでたら吹き出していただろう。アニメでも、なかなかない演出だが。


 聖子のことか。ということは、書店から存在がばれていたのか。あれだけ目立ったのだから、よく考えれば当然のことだろうが。


「……あの子、彼女とかじゃないんです。安奈さんのイベントに行く電車の中で、たまたま知り合って、なんか話が弾んで。俺はイベントに行くから、別れたんですけど、本屋で俺を見つけて、話しかけてきたから」


 今日一番冷静に話しているような気がする。


「へー。でもそれ、彼女じゃないにしても、絶対君に興味あるって。あんな可愛い子が向うからアプローチしてるのに、声優のイベントとか来てる場合じゃないでしょ」


 大きな欠片を引き抜いたらしい。傷口に痛みが走った。その倍以上に、安奈の言葉が俺を突き刺していた。的確過ぎる。


 納得の行く説明、それでも安奈を追いかけてしまった理由。俺のクズさを口に出して言わなければならないのか。


「ありゃー、黙っちゃってどうしたの。女の子信じられないとか」


「……そういうわけでも、ないんですけど」


 その言葉は本当か嘘か。半分ずつだ。俺にとって、女性というのは無条件で恐怖の対象。聖子だってそう。ファンを慮り、その心を傷つけないように演技をしてくれる声優だからこそ、俺は安奈を好きになったんだ。そして今、その実物から容赦のない言葉を受けているのだが。


 右手は終わったらしい。俺が左手を出すと、安奈は破片の処理に入った。しばらく黙っていたが、やがて思いついたように言う。


「なんだろーなー。じゃあ、あれだ。がつがつするのが嫌だけど、彼女が出来ること自体は悪くないって思ってるとか。だからもうちょっと、あの子に引っ張って欲しいとか」


 俺は唇を噛んだ。サキとかいう聖子の友達に言われたのと同じだ。また見透かされている。安奈ほどの年齢の女性になれば、二十歳前のガキの考えを見抜くことなど造作もないのだろう。ならもう、振る舞いを考える必要もないか。


 できるだけ乾いた口調で、俺は話し始めた。


「……そうなんですよ。もうあの子でいいかなとか、思って。でも、聖子ちゃんって、あの子には、予備校に親友が居て。その子が俺に近づくなって。昔、中学の頃、女の子に泣かされたことがあるんだけど。良く似た怖い子だったから」


 気持ちが蘇ってくる。唇は震えているが、全て口に出してしまいたい。


 俺の心持ちを、この人に聞いてほしい。


「その子は、きっと分かったんです。俺がクズだって。聖子ちゃんに近付くと危ないって。直接は言われなかったけど、俺も分かってるけど、本当、本当にそれが悲しくて。もう帰ろうと思ったんだけど、三呂駅前でまた安奈さんを見かけて、なんだろ、なんで、なんでついて……ごめんなさい、俺なんかがこんな、迷惑、かけて……」


 声が震える。涙が、頬を滑っていく。鼻水も出ている。すぐそばに憧れの人を置き、俺は最高の醜態を晒している。


 安奈は何も言わなかった。ただピンセットと縫い針を置くと、ティッシュペーパーをごっそり引き出し、俺に押し付けた。


 俺は右手の無事な部分を使い、ずるずるの顔を拭った。手当てのおかげか、心なしか痛みが引いていた。


「……話題、変えよう。高架下で、何買ったの」


 安奈の口調は乱れない。肩透かしだ。俺の悲しみを見抜き、それを癒してくれるんじゃないのか。年上のお姉さんキャラ――いや、違う。


 普通の二十八歳の女性は、好きでもないガキに同情も感心も寄せない。だからこそ、作品に出てくるお姉さんは優しい。


 あれは演技だ。安奈の仕事は演技、彼女は声優なのだ。


「大丈夫?」


 けげんな顔の安奈。今目の前に居るのは、俺の知る響安奈とは別人。声は彼女と同じでも。もう、それでいい。こいつの前で、俺の悲しみも苦しみも、特に表すまい。手の甲で涙を拭うと、俺は質問に答えた。


「鞄に入ってます。これ」


 ガラスの抜けた右手で取り出そうとして、ためらう。傷はそのままだ。安奈はしばらく俺を見つめ、そっか、とつぶやいた。


「右手、出してよ」


 救急箱を開けると、傷口に絆創膏を当て、包帯を巻いてくれた。


「……よし、もう痛くない」


 端を縛ってとめ、微笑む安奈。憎らしいがその顔だけは、俺の望む響安奈そのものだった。


 ショルダーを開けて今日の買い物を取り出す。絆創膏と包帯のおかげで、だいぶ楽だ。


 まずはCD。イエロー・モンキーに、良く分からない洋楽が二枚。さらに文庫本。それにイエロー・モンキーのヴォーカルのエッセイ。ドイツ輸入のはさみ、五センチくらいのなんだかデザインに惹かれた人形。全部で五千円近くになってしまった。


「こんな感じ、ですけど」


 安奈は俺の言葉を無視して、イエロー・モンキーのCDに飛びつき、食い入るように見つめた。


「あの、そのCDが何か」


 真剣なまなざしだ。女の人とはいえ、鬼気迫るものすら感じる。また、見たこともない表情。演技のない響安奈というのは、こんな人なのか。


「……これ、好きなの」


「いえ、別に。ただ本屋で、安奈さんの隣に並んだとき、その人のエッセイを見て、そのグループのCDがあったから」


 たどたどしいが、泣き止んだとしても、俺の口調はこんなもんだ。


「ちょっと待ってて」


 安奈はそれだけ言うと、立ち上がって隣の部屋に立った。しばらくして、なにやら重そうな黒い長方形の機械を一つ運んできた。


 手伝いましょう、と声をかける間もなく、再び部屋に引っこんでしまう。そして再び同じくらいの大きさの箱を持ってくる。さらにまた部屋にこもった。


 しばらく経っても、出てこない。何か難儀なことがあるのか。


 俺は立ち上がった。扉は開いており、中が見える。


 驚愕した。四つん這いでこっちに尻を向け、スキニージーンズ越しに、見事な下半身のラインを晒している安奈に、ではない。


 その部屋の乱雑ぶりに、だ。


 まず床が見えない。本、服、書類らしきもの、雑誌、CD、菓子パンの袋、スナック菓子の袋が床を占領している。そして液晶テレビが床に直置き、俺が知るゲーム機も、知らないゲーム機も接続されている。ぐるりを本棚が囲んでいるが、安奈が高架下で見ていたわけのわからない人形が何列もある。ライトノベル、見たことのない背表紙の文庫、あまり見かけない漫画に、イラスト集、設定集、限定版の付録の本。やたら細いのは同人誌か。映画、アニメ、ドラマのDVD、恐ろしいことにパソコンのエロゲもある。しかも、女性向けと男性向けの両方だ。加えて、新品同然の箱入りで棚を占領しているのは、俺が小学生の頃はやっていた変身ヒロインのおもちゃだ。安奈はそのとき、もう高校生だったはずなのだが。


 その部屋の床でスピーカーの隣にはいつくばり、荷物の間を探っている安奈。姿勢だけでいうと、いわゆる雌豹のポーズだが、欠片も興味がわかない。なにせ、この部屋の持ち主なのだ。


 正直言って、俺でも引いた。ラジオでは、オタク的な話が少ないから安心していたのに。安奈と比べれば。声優のラジオを聞き、アニメをチェックし、写真集を買い、曲を聞いている程度の俺など、まるで薄っぺらいにわかだ。


「届かんなあ。もう、片付けてないからなー」


 CDと本の山の下から、何かを取ろうとしているのだろうか。いらついた調子で呟いている。

 一見普通の女性でも、声優になって、一線で仕事を続けられる人だ。こんな部屋が現れることも予想できた。ある意味想像通りだが。


「あの、何か手伝いましょうか」


 俺が声をかけると、安奈は四つん這いのまま振り向いた。一瞬その表情に敵意が宿った気がする。多分、自分の楽しみ、空間を冒された苛立ちだ。


 声優ラジオの視聴中に、階下から飯の知らせを聞いた俺の顔も、こんな感じだろう。


「上の荷物、支えますよ」


「頼める? あ、ありがと」


 俺の手の下で、安奈は目的の物、なにやら先端に金属キャップの付いたコードを取り出した。


 それ以上部屋について言及せず、安奈と俺は隣の部屋に戻った。


「もうちょっと待っててねー。今セットしちゃうから」


 さっきのコードは黒い箱、正確にはアンプとCDのプレイヤーを接続するためだった。俺が部屋を見たせいか、安奈は少々焦りながら、セッティングを終えた。


「もしかして、さっきのCDを」


「そ。ほら、出して」


 求められるまま、俺はケースを開けた。安奈はCDをセットし、再生ボタンを押す。


 金属質なギターリフが部屋を埋め、ゆっくりと流れ出す。くぐもった様な反響音。風の音か、なにかか。そこに、ヴォーカルが入る。まるで涙をこらえたような、歌の歌詞は日本語だ。


 ドラム、ベース、ギターが始まった。再び歌。歌詞はどうやら、誰かが撃たれた描写らしい。きいぃぃん、という音、ギターのフィードバックと共にサビ。ジャガーという、自分の名前を叫ぶ、そして殺されたと。自分の痛みに酔い切っているような、しかし美しい、力のある声。


「……聴き入ってるわねえ」


 安奈がにやにやと俺を見つめる。俺は離れることができない。これは、安奈の曲とも違う。あれは俺を安心させてくれた。だが、この歌は、この曲は。俺がクズだとかなんだとか、そんなことすら、どうでも良くなる。これが、菓子パン二つ程度の値段だと。


「カッコイイでしょ。私、このアルバム馬鹿みたいに聴いたのよ。百回は軽いわ。間違いなく、響安奈の音楽の根っこ」


 二曲目の歌詞には女性が出て来たが、どうも少々汚れたというか、救いのない性の泥沼というか、囚われているというか。表現は違うが、確かに安奈の曲の歌詞に出てくる、痛みを抱えた少女たちと、どこか共通する。


「ジャケット、出してみてよ」


 促されるまま、俺はケースから四角い取説のような紙を取り出す。ジャケットはああいうペラペラの紙だと思っていた。CDなんて開けたことがなかったから。


 ジャケットの黒いページをめくって一枚目。百合の花を抱えた丸刈りの青年がこっちを見つめている。そういう趣向もないのに、ぞくり、とする。見つめていると引きずられそうだ。目のまわりはアイシャドウのようなものだろうか。


「くらくら、しちゃうでしょ。背も高いし、本当カッコイイのよ。ライブ映像もやばい。この人達のために、頭に袋かぶって、裸でステージに立っちゃったファンの女の子も居るって」


 そんな酷いこと、とはとても言えない。彼にこんな風に見つめられ、頼まれたら、きっとどんな女の子も断れない。


 スピーカーから、脳を撫でる様な切ない声が響く。この見た目で、こんな声で歌う。信じられない。安奈が、とろりとした顔つきで言う。


「あたしもそういうの、憧れたんだよねー。でも私が高校入って知った、ちょうどそのときに活動休止しちゃってさ。あんまりショックだったから、雰囲気だけ似た男の子とか追いかけて、馬鹿な目に遭ったりしたわー。黒歴史ってやつ」


 それはどういうことか。イエロー・モンキーの曲を聴きながら、二十八の女性が言う『馬鹿なこと』が何か。察するべきだろう。


 俺は、響安奈のファンとして悔しがるべきだろうか。安奈は、ラジオで男についての質問を巧みにいなしていた。俺を含めた彼女のファンは、いい年なのに浮いた話のない彼女を心配してもいた。騙されたことになる。


 しかし、しかしだ。ほうとため息をつき、恐らく少女の頃を思い出している、安奈の横顔。グラビアで見たのと同じ、まるで年齢を感じさせない瞳。大人の女の人なのに、少女を感じる危うさ。


 こんな少女が、イエロー・モンキーの声と容姿を相手に、太刀打ちできるはずがない。とろかされ、憧れて、近くの人に夢を見て、その結果体を許したといって、責められはしない。


 その歌詞のごとく。この妖しい色香の前には、綺麗ごとも感傷も全てが溶け落ちてしまう。見事な曲だが、このヴォーカルの彼は、罪作りだ。


「……あんま、ショックじゃないみたいね」


 安奈が意外そうに言った。確かに俺は、何でもないように聴き入っている。心の弱いクズの俺が。いや、クズだからこそだ。才能のある奴と、得意分野で勝負しようなど、どこの馬鹿が考えるものか。


「俺が勝てそうな奴に負けたら悔しいけど。イエロー・モンキーなんかと勝負できる気がしませんよ」


 率直に言ったつもりが、安奈には強がりに聞こえたらしい。不機嫌そうな顔で、どぎついことを口走る。


「嘘だー。ここまで来ちゃうくらいだから、ブログとか掲示板とかで暴れるんでしょ。響安奈は汚い街で生まれて、高校で男作ったビッチとかってー。それで私は炎上して、面倒臭いからプロダクションから干されて、そのまま仕事もなくなってー」


「しません!」


 思わず大きな声を出していた。大人とはいえ女性の安奈。二十歳にならぬとはいえ、男性の俺。力でもって、黙らせてしまった。いい事ではないだろうが、これしかなかった。


 さっきの言葉には、安奈の本音が、恐れがあった。俺より十年上の大人から、いや、声優、響安奈の口からは、けっして聞きたくない弱音だった。


 安奈は、しゅんとなった。受験のことを煽り立てたときの、聖子を思い出す。もっとも、あっちが犬なら、こっちは猫。本当に反省しているのか怪しい。


「……本当に」


「しませんよ。誰も信じませんよ、声優にストーカーして、なのに家に上げてもらって、傷手当てしてもらって、買ってきたCD一緒に聞いて昔の恋の話聞いたとか。意味が分からないでしょ」


 自分で言ってて馬鹿らしい。有り得ないことだ。今まさに起こっているが。


「それに……せっかく、ここまで俺なんか構ってくれたのに、安奈さんが困ることなんかできませんよ。ストーカーしたクズみたいな俺が、こんなこと言うのもなんだけど」


 しゃくだが、あの金髪の言葉を思い出す。『本当に好きなら相手の迷惑を考えろ』。正論過ぎて何も言えない。学校の成績と人間としての格は、なにひとつ関係ない。


 いい機会だ。このまま、心に整理を付けよう。深く頭を下げ、俺は言った。


「もう遅いかもしれないけど、本当に今日はすいませんでした。色々あって、感情が整理できなくて。家にまで来て迷惑かけちゃって。今日あったこと、誰にも言わないし、ネットにも書きません。安心してください」


 自分で言ってて、都合のいいことだ。が、わだかまりがすぽんと取れた。


 もういい、今日のことは忘れよう。良い思い出だ。


 俺はオーディオの停止ボタンを押した。曲の中断は、関係終了の合図。CDを取り出し、素早くケースに収めた。放り出していた今日の買い物と共に、ショルダーにしまう。


 立ち上がろうとしたところで、安奈が俺の手をつかんだ。


「……何ですか?」


 決断と行動の間をぶった切られた俺のいらつき。


 それとは格の違う、安奈の据わった眼。


「コントローラーの配置、分かる?」


「えっと」


「十字キーとか、ジョイスティックとか、決定とキャンセルがあるとか、そういうの

が分かるかってきいてるのよ」


「それは、まあ」


 安奈は、ぱあっと笑顔になった。


「よし。付き合って」


 俺はしばらく黙ったが、観念して首を縦に振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る