光のひと
俺は顔をしかめた。願いのとおり、本当に光を向けられている。
懐中電灯か。眩しさに目がくらみ、うつむいて頭を振る。目をこすりたいところだが、怪我をした両手は、恐ろしくて使えない。
草を踏む足音が、ゆっくりと近づいてくる。恐らく一人、一体何者だ。こんな俺に、一人で近寄ってくる奴なんて。
「ねぇ。かん、じ君……?」
声が、俺を泥沼から引っ張り上げた。手を伸ばすように、顔を上げた俺の目の前。
信じられない人の姿。
黒髪が、宵の闇に溶けているようだ。地元で安心しているせいか、書店でしていた眼鏡もない。俺のような人間に話しかけるというのに、身構えた様子もない。
書店で見て、追いかけてきたのとまったく同じ。響安奈が、俺に声をかけてきた。
安奈は手元に小さな手帳を広げ、懐中電灯の灯りで照らしながら、じっと文面を見つめている。
「……う~ん。かん、寛って読んでいいの、これ、君の名前」
なんだ、なぜ安奈が。いや、なぜ俺の名前を。あの手帳、生徒手帳か。コートの裏ポケットに入れていたから、逃げているときに落としたらしい。拾われていたなんて。
当然のごとく、安奈は今の俺の精神状態を気にしない。事務的かといわれればそうでもないが、ごく普通に、名前の読み方を尋ねている。おかげで俺は、自分を壊す思考のループを止めることができた。
立ち上がった。できた生徒の皮をかぶろう。女の先生に答えるときのように。
「……ああ、それは、
寛は、広いとか伸びやかとかいう意味だ。
地平線のように、大きく広い志を持って欲しい。そしてまた、志にとらわれることなく、追われることなくのびのびと生きて欲しい。そういう意味が、俺の名にあるという。兄貴を通した、親父の言葉だ。
心の広さを失い、志など最初から無く。ぼろぼろに壊れかかっている、俺の名前だ。安奈は、漢字の読みに納得したらしい。
「へぇ、寛志。寛志君か、いい名前だねー」
その、気兼ねのない口調。俺は、嫌われていないのだろうか。彼女はまだ、俺がつけていたことを知らないのか。いや、それなら俺の場所が分かるはずもない。
きっと、知っているに違いない。
なんてことだ。安奈に会えて、言葉を交わせたとはいえ。俺の本性が全てつまびらかになっているなんて。これなら、会わない方が良かった。安奈からすれば、俺は気色の悪いストーカー。気持ちの悪いクズとして、記憶に残ってしまうのだ。
「……あの、ちょっと、どうしたの」
怪訝な口調の安奈。俺は口を利けなかった。口を開いてはいけない気がした。同じ空気を吸うことすら、申し訳ない。生徒手帳を取り戻し、早く彼女の目の前から消えなければ。
「すいません、手帳、俺の、落として……」
目すらまともに見られないが、なんとかそれだけ言い切った。
安奈は分かってくれたらしい。俺に向かって手帳を差し出す。俺はおそるおそる安奈に近付き、手帳を取った。今度は左手だったが、叩き付けたときに怪我をしている。走った痛みに、俺は思わずかばってしまった。
「ちょっと、手……どうしたの」
気遣わしげな、安奈の声。不安を、恐怖を、心の汚れを、何度となく洗い落としてくれたその声。ずっと聞いていたい、安奈の声。
俺などに、注がれてはいけない。
「なんでも、なんでもないです」
痛みをこらえ、胸ポケットに手帳をねじ込む。このまま去るのだ。全て忘れてしまうのだ。俺を壊しきってしまうのだ。
「こら、待て!」
聞き分けのない子供をたしなめる、強い声。家庭用のゲームで、主人公の母親役をやったときとそっくりだ。俺は思わず立ち止まる。
安奈は俺の傍に来ると、急に屈み込んだ。何をするのかと思えば、懐中電灯で、俺の手のひらを照らしている。
「君、これ怪我してるじゃない。あの悪ガキどもにやられたの」
悪ガキだって。あの金髪と赤メッシュか。安奈の年よりは若いのだろうが。
「違うんです。逃げてたら、ここで転んで……膝と手、ちょっと擦りむいて」
安奈はすぐに前に回ると、俺の膝を確かめにかかった。俺も灯りの中を見てみる。ズボンが結構派手に破れ、じくじくとした傷口が広がっていた。見ていて痛くなってくる。
安奈が急に立ち上がる。
「見せて。左手もでしょ」
有無を言わせず、手を奪われ、光を当てられる。人差し指と、手のひらが小さく割れたようになり、そこから血がにじんでいる。
「結構、ひどいね」
俺もそう思う。家へ帰ったら手当てをしなければ。空ろな笑いと軽い会釈でその場を取繕い、行こうとするも、また安奈に手をつかまれた。
「来なさい。気色悪くて、手当てしないと放っとけないわ」
気色悪い。とうとう安奈から言われた。いや、これは安奈自身が、俺を放っておけないということだろうか。だとしても、俺などにかかずらっては、ロクなことにならない。
「でも俺なんか、居たら迷惑だし、安奈さん、せっかく帰って来たのに……」
「ああそうね。でも君、なんかこのまま放っといたら、地下鉄に飛び込みそう」
そこまで言わなくても、と思ったが、否定できなかった。自分を壊すことの極限は死だ。このままでは、勢いでそこまで辿り着いてしまいそうな気もする。
それは、嫌だ。例え、安奈に迷惑をかけてでも。それだけは。
「すいません、それじゃあ……」
お願いします、と口に出して言えない俺。その俺の肩をぽんと叩いて、安奈が歩き始めた。俺は黙ってついていった。
辺りはすっかり暗い。街灯も、表の通りと比べれば少ない。一人で歩いていては、寂しい感じのする町だ。
もっとも、俺の地元の、畑や田んぼしかない町と違って、人の気配そのものは結構ある。ただそれが、俺には堪えかねる言葉を降らせてくるのだ。
例えば、通りを歩いていたときに、小さな焼肉屋の二階から呼び掛けられた声。
「安奈ちゃん、えらい若いのひっかけたね」
「おばさん、こいつは違うわよ」
「分かってるって。けどえらいがっちりした子ね。もっとひょろいのが好みだと思ってたけど。ああ、でもよく見たら元気無さそうだ、好み通りか」
「もうそれでいいわよ、綾は元気?」
「元気みたいよ。メールひとつよこさないけど」
「そっか。おばさんも元気でね」
軽口をにこやかにやり過ごした安奈。この会話から推測できることがいくつもある。が、もっとも重要なのは、安奈には恋人が居たか、居るらしいということだ。
普通、それは事務所の方針で、明らかにされない。俺のごとき声優ファンというのは、心のどこかに対象の女性に対する希望を抱いているのだ。もしかしたら、自分にも、まだチャンスがあると。
同じ空気を吸うのも申し訳ないといったわりに、おこがましいことだ。気持ちを打ち消すために、俺は尋ねてみた。
「あの、俺が行って、本当に大丈夫」
「心配しなくていいって。うち、今月から誰も居なくなるんだ。親はもう居ないし、弟は社会人やってるし、妹も遠くの大学に出ちゃうから」
安奈は軽く答えたが、俺には驚くべきことだった。それは、実家が空っぽになるということだ。俺の家は、祖父母のそのまた上の代から改築して住み続けてきている。俺が大学に出て行っても、兄貴がうちの県の職員になり、いずれ結婚しても住み続けるつもりらしい。そういうものじゃないのか。
ほぼ一家離散となる彼女の家族も気になる。ネットなんかには載っていない本当の安奈の姿。深く知りたかったが、それははばかられた。
知ろうとしないのが、正しいことなんて、初めてだ。
安奈の家は、この界隈では綺麗なマンションの一室だった。俺の生まれる前に起きた大地震の後、復興のために県が作ったマンションらしい。安奈の家族は、衣戸駅近くにあった元の家が倒壊し、ここへ移ってきたそうだ。
「ちょっと待って、今開けるわ」
安奈はキーケースを取り出し、家の鍵を開けた。女性の部屋に入るなんて、初めての経験だ。アニメ、ラノベ、エロゲー、そういうものに煽られたどきどきが、俺の心を覆い尽くす。
玄関ドアが開くと、フローリングの廊下が迎えた。突き当たりの扉を開くと、リビングが現れる。カーペット一枚、家具も食器棚もまばら。
期待していた理想の部屋とか以前の問題だ。えらく殺風景で、飾り気がない。
拍子抜けした俺は、玄関で立ち止まった。安奈は先に立ってリビングへ入り、端にあったガスファンヒーターをつけてくれた。
招かれて、入ったものの、コメントが思いつかない。素敵な部屋だとかなんとか言った方がいいんだろうが。黙っている俺に、安奈は笑いかけた。
「あはは、きょとんとしてると結構可愛いね。リリィやってる声優の家に思えないでしょ。使えそうな家具も、処分したり、妹の引っ越し先に送りつけたりしたから、物がないのよ。その辺、座ってて」
あっけらかんとそう言われ、俺はカーペットの上に座った。行儀が悪いと思われたくないから、最初は正座を通そうと思った。が、膝の傷が痛んだので結局足を投げ出した。この体勢も、子供みたいだな。
安奈はリビングの隣へ引っ込み、まず救急箱を持ってきた。消毒するのかと思えば、次にバスルームに行き、洗面器にお湯を汲んだ。
「ぬるま湯にしてあるわ。とりあえず手、洗ったら」
言われるまま、俺は両手を湯につける。傷口には土や小石、ほこりとまざった血が、固まり始めている。放っておくと化膿しそうだ。我ながら、馬鹿なことをした。
洗浄は上手くいかなかった。両手に怪我をしているのだ。洗う手も洗われる手も、痛くて力が入らない。血が固まりかけているせいで、汚れもなかなか落ちない。
「……じれったいなあ」
安奈はため息をつくと、俺のすぐそばにしゃがみこんだ。間近となると、なんともいえない匂いと雰囲気が俺を包む。メイクや整髪料のせいだろうか、聖子からはあまり感じられなかった、女性の雰囲気。このまま目を閉じてしまいたい。安奈の白い手が俺の右手を包む。これ以上の幸福はない。
激痛が、全てを断ち切った。
「あっ! 安奈さん、ちょっとそれ、うわっ、ぐぁ……!」
物凄い痛みに、思わず顔が歪む。他人の傷を洗う安奈に、一切の躊躇はない。湯の中で俺の手を激しく揉みながら洗う。みるみるうちに泥も血も流れていくが、傷口をこねまわされる俺は顔を歪め、激痛に呻き続けた。涙が出てきた。痛みで泣くのは、自分のクズっぷりに泣くよりいい事かも知れないが。
両手の洗浄が終わると、次は膝だった。これも最初は自分でやろうとしたが、うまくいかず、結局安奈の手を借りることになった。しかも、膝にできたズボンの裂け目からじゃだめだということで、俺は安奈の前でズボンを脱ぐことになったのだ。
好きな声優の前で、ズボンを脱ぐ機会に恵まれたファン。しかし痛みのせいで興奮することもなく。ただただ、羞恥心で泣きそうだった。
俺の膝を洗い終わると、安奈はまた隣の部屋へ引っ込んだ。手には、たばこの箱くらいのプラケース。中から出てきたのは、縫い針だ。
「あ、あの、まさかそれで」
「ああ、誤解しないで。いくらなんでも縫いあわせたりしないわ。君のは、そういう傷でもないし」
そう言いながら、安奈は救急箱から小さいピンセットを取り出した。ティッシュも取り出して広げる。何をするのだろう。
ちょこんと正座をすると、いたずらっぽく微笑む安奈。相変わらず、俺を泣き虫の子供だと決めつけている。
「さ、来なさい。寛志君」
ちょいちょいと手招き。犬か何かを呼ぶような感じだ。これは全然敵わない。俺は観念して従った。
「よしよし、いい子だ」
まずは右手をとり、顔を近づける。しばらく眺めていたが、やがてワンピースのポケットからライターを取り出した。それも、四角い金属性。ガンマンが持ってそうな、男っぽいオイルライター。もしかしたら、煙草を吸うのかも知れないな。
小気味良い音を立て、蓋を開ける。炎を出すと、縫い針の先端をあぶる。消毒だろうか。
「あの、何するんですか」
「ああ、ガラスの破片が傷に残ってるの。あそこ昔からよく瓶とか捨ててあったから」
つまり焼いた縫い針で、傷口のガラスをほじくるということか。
気分が悪くなりそうだ。俺は顔をしかめて目をつぶった。
「動かないでね。肉に刺さっちゃうわよ」
言われなくても分かっている。すでに響安奈に出会い、部屋に入れたとかいう次元ではない。どうか無事に、手当てが済みますように。
作業を開始した安奈は、ひとりごとを言いながら破片を取り除いている。
『ほら』『どうだ』『この』、とかいう可愛い呟きが横で聞こえる。書店で見かけたときといい、集中するときの癖なのかも知れない。
ときどき縫い針からピンセットに持ち替え、ティッシュに破片を置いていくから、作業は進んでいるらしい。
俺はひたすら黙っていた。静かな中に、安奈の呟きと、ファンヒーターの駆動音だけが響く。
冷静さが戻ってくる。俺は、本当に何をしているんだ。安奈を付け回したと思ったら、その本人の家に招かれ、傷を手当てされている。謝るでもなく、断るでもなくなすがまま。
そしてもっとわけが分からないのが、安奈だ。一体なんで、ストーカーの俺を、家に入れたのだろう。彼女は、無防備な聖子とは違うはずだ。二十八のれっきとした大人、それが十八の俺を一人の部屋に入れる。それはそういう意図だということか。
だが納得いかない。俺のどこに安奈を引っ掛ける部分があるんだ。誰がどう見ても、気色悪いクズのストーカー男じゃないか。いくら考えても分からない。
「ねぇ、寛志君」
「……はい」
急に言われて、思考が中断された。憧れの声優から名前で呼ばれるのは物凄いことなのだろう。だが、相手の意図が読めなさすぎて、反応が鈍い。
「彼女居るのに、何で私を追いかけて来たの」
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