空き地の子供

 衣戸駅前では、まだ陽がまぶしかった。しかし通りを西に進み始めると、すぐに建物の影になり、あちらこちらに夕闇の気配が漂い始めた。


「……いやだな」


 俺はひとりで、そう呟いた。どうも街の様子がおかしい気がする。暗くなって、街灯に灯が入り始めたとか、そういうのではない。


 俺は改めて、周囲を確認してみた。


 一見して、建物が違う。衣戸駅前と比べて、明らかに規模が小さくなった。ビルはせいぜい三階か四階建て程度だし、商店も少ない。普通の家が並んでいるかといえば、そうではなく、小さな工場のようなものもあるらしい。詳しくは分からないが、明かりがついているから、なにやら仕事をしているようだ。


 それに街灯が少ない。歩道の路面はやたらにでこぼこして、ひび割れが目立っている。通りの中央には片側二車線のりっぱな車道もあるが、車があまり通らない。衣戸駅前の通りを思うと、なんだか恐ろしげだ。住んでいる人には失礼かも知れないが、ハリウッド映画に出てくる、あまり良くない街の雰囲気がある。おまけに、辺りがどんどん暗くなっていく。


 安奈は、振り返らずに歩く。俺も変わらず歩いたが、後をつけるというより、すがるような気持ちだった。知らない街の知らない通りで日暮れを迎え、駅の場所も定かでないのだ。今安奈を見失ったら、動けなくなってしまう。


 もちろん、安奈が俺を家に帰してくれるわけではない。それどころか、数キロもつけてきたのだ。見つかれば明らかなストーカー。警察を呼ばれても不思議ではない。


 通りの雰囲気は相変わらずだ。俺たちの歩く右手には、たたずまいが異なる店や、風雨で壁面が傷んだマンションがある。いや、団地といったほうがいいか。かなり大きいが、俺の家から少し遠くにあった、あまり裕福でない同級生の住んでいた、市営住宅に雰囲気がそっくりだ。団地のふもとでは、個人経営らしい肉屋の灯りがついており、夕食の買い物なのか、人が列をなしている。


 先を行く安奈は、その行列の人々にあいさつをして、なにやら話し始めた。


 それも、特定の誰というわけでもない。行列のほぼ全員を知っているらしく、楽しげに微笑んだり、小さい子を抱いてやったりもしている。


 安奈がそこそこ有名とはいえ、声優だ。テレビに出ている芸能人とは違う。こんなにたくさんの人が安奈を知っているということは、恐らくここが故郷なのだろう。


 ここが。俺は立ち止まって、辺りを見回した。


 お世辞を言えば、安全な町かもしれない。恐らく東へ出ていった安奈を、皆が知っており、帰ってくれば声をかけあう温かい場所なのかも。だがこの不安は何だ。雰囲気がなんとなく汚く、俺の知る場所とも、想像できる場所とも全く違う。俺からすれば、立派なスラム街にも見えてしまうこんなところが、安奈の故郷だなんて。


 おんおん、という音が背中の方でした。歩道を走る原付の音だ。ひったくりの噂を耳にしていた俺は、思わず身構えた。が、音だけで近づく気配がない。それもそのはずで、片方は自分の単車を押し、もう片方がそれに合わせてのろのろと走っているのだ。マナーの悪い中学生が自転車で並ぶように、単車で歩道を併走している。


 やがて二人が街灯の下に入った。単車を押している方は男で、髪の毛を金色に染め、ワックスでとがらせている。格好は、上下とも真っ黒なスウェットだ。単車に乗っている方は、ヘルメットをしているせいで顔が分からない。ただ、こっちも灰色のスウェットで、俺くらいの体格をしている。


 二人は何やら談笑しながら、こちらへ近づいてくる。俺はもう一度安奈を見たが、列の人達とまだ談笑している。これじゃあ前に進むわけにいかない。だが、彼らとすれ違うのは怖い。


 また振り返ると、当たり前だが距離が詰まっている。ヘルメットの男の前髪が、真っ赤らしいことも分かった。ピアスまで見える。


 視線を投げかけながらたたずむ俺に、金髪の男が気付いた。喧嘩を売られたとでも思ったのか、あからさまに不快そうな顔をする。何事かヘルメットの方に話しかけ、ヘルメットの男が単車のスロットルを握って――。


 俺は駆け出した。考えなしだった。金髪にピアスの単車に乗った男と、同じく赤髪にヘルメットの男に存在を認識され、追いかけられているかも知れない。それだけで逃げるのに十分だ。


 まだ完全な夜でないせいか、通りには、人通りがある。彼らの誰もが俺を見てけげんな顔をした。ここに味方は誰も居ない。早く、早く逃げないと。


 転びそうになりながら、必死に駆けた。


 息が切れてきたが、必死に走った甲斐があり、バイクの音も聞こえない。大体、北西に逃げてきたような気がする。ここで方向を転換すれば、なんとか逃げられないだろうか。思いついた俺は、恐らく南向きの道路に駆け込んだ。


 が、そこは行き止まりだった。草がそこら中に生えた、土と砂利しかない光景。道路ではなく、家々の間にぽっかりと空いた、隙間のような空き地だったのだ。


 まずい。引き返してとにかく逃げなければ。混乱する俺をあざ笑うかのように、単車の音が聞こえた。音はどんどん近づいてくる。


 空き地の奥にはフェンスと、細長い数件の家。その向こうが通りらしい。


 後ろから、二人乗りの単車が近づいてくる。考えている暇はない。こうなればフェンスを乗り越えてでも逃げるしかない。


「うぁっ!」


 駆け出した途端、バランスを崩して悲鳴を上げた。蹴つまずいて転んだその拍子に、膝と両手をつく。右手の平が酷く熱い。尻餅を着いたまま確認すると、血がにじんでいる。暗くて分からないが、何かで切ったのだろうか。


「おい、大丈夫か?」


 脳天まで縮み上がった。太い声は、空き地の入口にたたずむ単車の男からだ。


 俺は声を失い、怯えたまま後ずさった。手と膝が、ずきずきと痛む。


 思い出される、公立中学校の頃。不良と噂の先輩と目が合い、にらまれ、胸倉をつかまれたことがある。殴られたわけではなかったが。あんな怖い目に遭わないために、高校のレベルを上げたのに。こんな所で、こんな奴らに会うなんて。金髪に赤毛、単車に二人乗りして追いかけてくる、こんな町に住んでる奴らと関わり合いになってしまうなんて。


 何をされるんだ、一体。俺は頭を抱え、体を丸めるようにして震えていた。


「……すいません、ごめんなさい。助けて、助けて……」


 プライドの欠片もないような言葉が、勝手に漏れでていく。声の震えが止まらない。正直、このときに漏らさなかったのは奇跡だと思う。


 今にも蹴られるか、殴られるかと覚悟をしたが、いつまで経ってもその気配はない。


「ちょっと落ち着けよ。一体どうしたんだ」


 赤毛の男がしゃがみこみ、こちらを覗き込んでいる。まるで泣きわめく子供に対するように。その声は太いが、怒気をはらんだものではなかった。


「あ……あの、すいません。通りで、じろじろ見ちゃって」


 恐る恐るそう言うと、二人は顔を見合わせてため息をついた。なんだ、そんなことかと口にした。金髪の男が微笑む。


「そんなん気にすんなよ。急に逃げたから、つい追いかけちまったんだ。起きられるか」


 差し出してくれた手。俺は痛む右手をかばい、左手で応じた。強い力で手を引かれ、立ち上がる。手や膝が痛んだが、土を払うと元気が蘇り、ようやく冷静な思考が戻ってきた。


 俺への配慮か、赤毛の男がヘルメットを取った。実際に見てみると、赤いのは前髪の一部だけ。いわゆるメッシュというやつだ。


「よそから来たんだろ。一体どうしたんだ」


 まさか安奈を尾行してきましたとは言えない。外見のわりに親切な彼らなら、それを隠すのも簡単だろう。


「衣戸駅から、歩いてきたんです。迷ってしまって、どうしていいか分からなくて」


 俺はうまいこと振る舞えているだろうか。ごつい体のわりに気弱で、そのくせ無鉄砲な若者として。二人の善良な若者が、理由も聞かずに助けたくなるような顔は、できているだろうか。


 心配する必要は、なかったらしい。二人は驚いた顔をして、労うような口調になった。


「そりゃあ、大変だったろ。よく歩いたもんだ」


「衣戸駅からだと、普通地下鉄かバスだよ。ご苦労さんだったな」


 よし。後は、道を聞いてまっすぐ帰ってしまえばいい。


「ありがとうございます。あの、俺、電車で帰らなきゃいけないんで、できたら駅までの道を教えてもらえませんか」


 断る理由はないだろう。が、二人は顔を見合わせると、困った顔をした。


「そりゃあいいんだけどなあ。このへんややこしいから口で言っても分かりにくいと思うぜ」


「ああ。俺ら、知り合いのおっさんに原チャの修理頼みに行くとこなんだ。約束の時間がある。地図とかあれば、教えてやれるんだけどな」


 地図ならば、俺のスマホにアプリが入っている。


 今思えば、安奈のイベントへ行くときにも、使えばよかったのだ。あのときは気が動転していた。


 俺は二人に地図の存在を告げると、ショルダーを開けた。奥のスマホを取り出し、操作しようと画面に触れる。


「痛っ!」


 人差し指に、鋭い痛み。ガラス片か何かで切っていたらしい。俺はスマホを取り落してしまった。


 慌てて拾おうとしたが、右手で握った途端、手のひらにも痛みが襲った。思い切り手をついてしまったせいか、結構ひどく傷めたらしい。


 俺の様子を気遣い、金髪の男がスマホを拾った。


「大丈夫かよ。俺やるわ、アプリ開くぜ……」


 言葉と共に、操作しようとした男の指先が止まる。赤メッシュの男も、けげんな顔で画面を覗き込み、たちまち難しい顔になる。


 一体何だというのだろう。俺のスマホに何が。


 俺の待ち受けは、安奈のアルバムのジャケット。彼女が白いワンピースを着て、森のハンモックに横たわっているもの。傍らにアコースティックギターが立ててある。いい画像だ。開くたびに元気をもらっている。


 金髪の男の視線が冷え込む。赤メッシュの男も怒り半分、しかしどことなくやるせなさそうな表情だ。


 俺はすぐに気が付いた。そう。今このタイミングで現れて、安奈の写真より悪い画像など存在しないのだ。彼らがこの町で生まれ育ち、安奈を知っているとするなら。安奈の画像を待ち受けにして、その故郷をさまよう男を、どう思うのか。


「お前、衣戸駅から歩いたっつったな」


 金髪の男の太い声。今度は、本当に俺に怒気を向けている。


「ヤス姉のこと、つけて来たのか」


「……」


 俺は黙っていることしかできない。今度は、恐怖と情けなさ。


 金髪も赤メッシュも、俺の思い描く、言葉の通じない不良なんかじゃない。少々強面なだけで、気のいい人間なのだ。彼らが今怒っているのは、その善良さから。


「どうなんだ、答えろよ!」


 金髪が俺の胸倉をつかみ、きっとにらみ付けてくる。俺がクズだからこうなるんだ。安奈の迷惑も考えず、地元でくつろぐ彼女をつけ回して。見つかればごまかして逃げようとするようなクズだから。


 謝罪を口にしようと思ったが、恐怖からか、唇が震えるばかり。話すことができない。


 俺の態度は、金髪を誤解させたらしい。


「おい! 何とか言え、黙ってりゃどうにかなると思ってんのか」


 金髪が俺の上体を引きこみ、拳を引いた。俺より小柄に見えて、凄い腕力だ。


 殴られるのか。別にいい。俺のようなクズは、善良な人間に殴られればいいのだ。アニメだってラノベだってエロゲーだって、俺の様なキャラは無様に死ぬ。


 覚悟というわけでもないが、拳の感覚を想像して待つ。が、一撃は来ない。


 赤メッシュが、金髪の拳を押しとどめてくれている。


「……やめろ。こいつ、怪我してるんだぞ」


 両腕に力を込め、必死に食らい付く赤メッシュ。金髪はそんな彼をにらみ付けた。その迫力たるや、今にも殴りかからんばかりだ。しかしやがて拳を戻し、俺を突きのけるように解放した。


 舌打ちをすると、思いっきりこちらをにらんで言う。


「お前なあ、ここまでするってことは、相当のファンなんだろ。本当にファンなら迷惑考えてくれよ。好きなくせにどうでもいいのか。ヤス姉のことも、その地元のこともよ」


 俺の答えを待たず、金髪は空き地の出口へ行ってしまった。


 赤メッシュは去らない。ハンカチを取り出し、俺のスマホから血をぬぐっている。

怖がらせて悪かったな、と言われたので、俺は首を振った。スマホを受け取り、右手をかばいながらショルダーに収める。


「南に行くと、元の通りに出る。それから、ずっと西に進むんだ。入口が分かりにくいけど、地下鉄の駅があるから、そこから帰れるよ」


 俺は無言でうなずいた。交番に保護された迷子の男の子が、優しいおまわりさんにうなずくように。


「また分からなくなったら、その辺歩いてる奴に聞いてくれ。俺らみたいに怖そうな面でも、案外親切だから」


 俺は辛うじて、もう一度うなずいた。


 金髪が、早く来いと叫ぶ。赤メッシュは返事をすると、俺の肩を軽く叩き、空き地の出口へ向かった。


 ほどなく、原付のうるさい音と共に、二人は空き地を離れていった。


 それを見届けた俺は、その場にうずくまった。崩れた、といってもいい。


「くそ、くそ……あぁ、くそ……っ!」


 ぬぐってもぬぐっても、涙があふれてくる。痛い右手を握りしめる。染み出した血を、痛みと共に心へ塗り込む。


 もっと俺の頭が悪ければ。もっと俺が子供なら。汚い街で単車を乗り回すあの二人が、俺を追いかけて怪我をさせた。そうやって全てを押し付けて憎めるくらいに、馬鹿なクズだったなら――。


 しかし、違うのだ。どちらが悪いか、俺には状況が分析できる。あの二人は善良な人間だ。俺なんかより、よほど。


 二人は安奈のストーカーである俺を、許してくれた。警察なんて呼ばないだろう。


 金髪の男は自分の怒りを抑え、赤メッシュは血に汚れたスマホを拭って、帰り方を教えてくれた。明らかに根暗で気色の悪いクズの俺が、許されてしまった。


 その余裕は何だ。その優しさは何だというんだ。こんな町に住んでいるくせに、恐らく大学受験のこともろくに分からないだろうに、なぜ――。


 なぜ、なぜ俺には、センター試験の成績程度しか、誇れるものがないんだ。


 なぜ俺は、憧れていた安奈を目の前に、声をかけることすらできないんだ。


 なぜ俺の頭は、今日出会った奴らをみんな無かったことにして、プライドを守れるほど都合よくできていないんだ。


 誰のせいだ。勉強を押し付けた学校のか。頭の良さを、小さい頃から褒めそやした両親のか。それとも、俺のねじれを見抜かず、成績だけ褒めてやがった中学の教師か。


 いや、勉強も学校も、ただそこにあっただけだ。誰も、俺にやれとは言わなかった。


 受験を重く見たのも、重く見過ぎてそれ以外にとりえのない俺を作ったのも。それを隠し続けてきたのも、全部俺じゃないか。


「くそが、くそっ、くそ、ああああああああ、くっそおおおおお!」


 俺は右手と無事な左手を、狂った様に地面に叩き付けた。筋が違ってしまえ、骨が折れてしまえ。ペンなど持たなくていい。本のページもめくれなくなっていい。俺を形作るものなど、全て価値がないんだ。くたばれ、くたばれ。


 それは悲鳴に近かった。苦しんで苦しんで、とにかく苦しまなければならない。金髪が俺を殴らなかったぶん、殴られなければならない。とにかく、壊さなければ。


 左手に鋭い痛み。右手をやったように、何かで切ってしまったらしい。


 瞬間、俺に命令が入った。体からの悲鳴、止めろという命令。弱い俺はそれに従った。


 おもちゃを買ってもらえなかった子供のように、座り込んだまま動けない俺。ただ涙が、後から後から、こぼれてくる。俺の何もかもが壊れて、その破片が目と両手の傷口から漏れ出ているのだ。


 辺りが暗くなっている。泣き続けて、このまま闇に消えてしまいそうで。光が欲しい、近くの街灯まで、這うほどの力も出ない。でも、光が。こんな俺にも光が――。

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