出会い、ふたつ

 レジの手前にある、人気の少ない本棚。そこに一人、女の人が居る。


 この場の客や店員、俺以外の誰にとっても、彼女はただの女性だろう。


 だが、昔から知っている俺は直感した。


 恐らくこの人は、響安奈本人だ。


 怪しまれてはいけない。が、近くで確かめたい。俺は偶然を装いながら、同じ棚の端っこにある、わけのわからない本を手に取った。


 どうやらここは、音楽関係の本棚。それも硬派にして、アニメやアイドルと関係のないものばかりだ。俺が手に取った本は、その分野で有名な人のエッセイ。


 日本人らしい彼のバンドの名前は、イエロー・モンキー。それは、海外での黄色人種、つまりアジアに住む人種の別称だ。そんな名前のバンドなんて、相当自虐的なのか。


 好奇心から思わずページをめくってしまう。中身も面白そうだ。


 違う。バンドなど、今は関係ない。俺は横目で隣の女性を見やった。


 女性にしては背が高い。飾り気のない黒髪に、これまた地味な暗色のワンピース。下は、女性用の細いジーンズに、スニーカー。黒縁の眼鏡のせいで地味な印象がある。


 だが間違いない。やっぱり響安奈だ。


 このフロアの売り物からして、彼女を知ってる同類が居そうなものだが。イベントや写真集と違うからって、見分けられない程度のファンしか居ないのだろうか。


 それにしても、一人でどうして書店なんかに居る。周囲を確認しても、マネージャーや関係者らしい人が居ない。やっぱり一人だ。


 俺は思い出した。彼女、確かこの衣戸市の出身だった。


 今ここで、こうしているということは、実家にでも帰るのか。それはともかく。恐らく今の彼女は、声優として取繕った姿ではない。


 営業用でない、素の安奈の姿。ファンは決して見ることが叶わない、本当の姿。

無様で孤独な俺に、こんな幸運が巡ってくるとは。


 もう黄色人種のエッセイなど目に入らなかった。気付かれぬよう、視線は本に固定したまま。神経を極限まで緊張させ、近くに居る安奈の存在を全力で感じる。


 この俺がもし、崩壊した世界を這い回る巨大な蟲ならば。さぞたくさんの触手を伸ばしていることだろう。今の安奈なら、あのアニメ映画のヒロインも務めあげられるはずだ。


 幸福な緊張感がしばらく続いていた。それを断ち切ったのは安奈だった。持っていた本を持ち、レジへ歩き出したのだ。


 俺は焦った。まだまだ一緒に居たい。だがどうすべきか。すぐについていっては、つけているのがばれてしまう。


 とにかく少し移動して、安奈が見ていた棚の前へ。棚にあるのは、全国的に有名な歌劇団の本だ。衣戸市の北東の大鷹おおたか市に、劇場がある。うちの県は、歌劇団の本場なのだ。


 安奈はその関係の本を買ったらしい。きっと演技の参考にするのだろう。アニメに声を当て、ラジオで騒ぐだけが声優の仕事じゃない。正確にいうなら、彼らは本来俳優。劇団に所属し、演劇をやるのだ。


 俺は背後をチラチラとうかがう。安奈は精算を済ませたらしい。エスカレーターの方へ進む。向かう先は、上のフロアだ。


 それだけ確認すると、俺はイエロー・モンキーのヴォーカルのエッセイを片手に、レジを目指した。女にもてそうな奴のバンドなど、興味がなかったのだが。つけるための立ち読みでは、さすがに罪悪感がある。数千円はきつかったが。


 紀州屋4階は、専門書のフロアだ。ビジネス書、技術書、資格学習用の問題集、各種受験対策書。もちろん、法学の専門書もある。大学受験を終えたばかりの俺には、しばらく近づきたくない本が目白押しだ。


 エスカレーターを出た安奈は、資格、経済学や教育、法学のコーナーを過ぎた。目指す棚は一番奥。並んでいるのは、歴史学や神話、文化等の専門書だった。


 この辺りの棚は大きく、大人の身長の倍くらいある。ただでさえ威圧感があるのに、収まった本は写真付きの大判のものや、字の多いハードカバー。ひとけも少ない。


 安奈は分厚い大判の本を手に取り、じっと紙面をにらんでいた。


 熟読しているのか、ときどきふぅむと唸ったり。はっとした表情をしては、あぁ、とちいさく頷いてみたり。


 周囲を慮って、控えめにしたその声。意識しなければ聞き逃すほどの大きさ。


 だが、少し低めで、どこか温かい雰囲気を湛えた、紛れもない安奈の声。深夜の俺に希望を与えてくれた、あの声そのものだ。


 もっと、もっと近くで聞きたい。彼女はどんな本を、どんな気持ちで読んでいるんだ。


 さりげないふうを装って、本棚を探りながら。少しずつ彼女へ近づいていく。本に夢中な安奈は、俺に気が付く気配がない。


 できればこのまま、その匂いだけでも――。


「あ、お兄さん!」


 その瞬間の俺の気持ちが、想像できるだろうか。漫画やアニメで、キャラの驚きを表現するのに、絵の枠線をぶれさせることがあるが。その時の俺はまさにその状態。体中の皮膚という皮膚が、いっぺんにひきつれたような驚きだった。


 振り返ると、やはりというべきか。聖子だ。


「嘘みたいです、今日中にまた会えるなんて」


 なぜだか分からないが、もうテンションが振り切れている。目の中には星を飛ばして、こちらとの距離を詰めてきた。俺は思わず一歩、後ずさりする。気持ちが弾んでいるのだろうが、有無を言わせぬものを感じる。


「傍聴は、どうしたの」


「裁判早く終わっちゃったんで、自習室で勉強しようと思って。予備校三呂の駅前なんですよ。ちょっと法律の本が見たくなって、ここに来たんですけど。そしたら、お兄さんが……あの、なんかごめんなさい」


 背後の安奈が気になる俺は、いつの間にか貧乏ゆすりをしていた。聖子は無言の圧力を感じたらしい。


 慌てて止めたが、さてどう弁解する。長々と話していたら、安奈を見失う。


「あの、この辺り、歴史の本とかですよね」


「ああ、そうだな」


 どうして法律の本を見ていないのか、ということか。俺に対する聖子の期待通り、法学の参考書を捜しに来たお兄さんを演じなければ。何かないか。


 西洋史の本が目に入る。とにかく、こじつけよう。


「ヨーロッパの歴史とか、法律にも大事だろう。高校の世界史の本だと、詳しいことが分からなかったから」


 実際どうだかなんて、知らない。が、聖子の反応は良かった。


「そうですよね。日本の法律とか制度は、英米法と大陸法が基礎になってるから。ちゃんと理解するには、歴史を知らないとだめなんですよ」


 そうなのか。だから世界史で、西洋の事ばかりやらされるのか。


 首の皮一枚、つながった。だが17歳やそこらで、それを知っている聖子は、いよいよバケモノじみている。一体どうしたものか。


 聖子は興味の赴くまま、また一歩俺に近付き、棚を眺めはじめた。

「へー。本当に、学校の図書館でも全然見ない本ばっかり。お兄さんは、どの本が面白そうだと思いますか?」


 知るか。こんなわけのわからない本ばかり。俺の興味はせいぜい安奈か、さっき買ったライトノベルにしかないんだ。大体俺みたいに惨めなクズに、なぜこだわる。俺など放っといて、本なら一人で探せばいいだろう。


 などと言えたら、どれだけいいか。


「そうだな……」


 俺はあくまで冷静を装い、本を選び出した。とりあえず開いてみる。


「あっ、見てみます?」


 聖子がぐっと、こちらに距離を詰めた。嬉々として覗き込んでくる。並んでみると、その小柄さが良く分かる。頭のてっぺんで、俺の肩ぐらい。見やすいように、本を少し低く構えてやった。


 最初は目次。聖子は見出しを追い、気になるページを言う。断れず、そこまでめくってやる俺。拾い読みし、俺に感想を求める聖子。俺は受験に際して叩き込んだ世界史の知識をこじつけ、どうにか当たり障りのない事を答える。聖子は嬉々として、もっと難しいことを話し、次の項目へ進む。


 何だこりゃ。専門書を2人で見るカップルだと。奇妙過ぎるぞ。


 問答はいつ果てるともなく続く。聖子の機嫌はいまや最高潮。俺が一つ答える度、そこにたくさん知識を付け足し、はしゃいでいる。その様たるや、初夏の長雨の後、数日ぶりに散歩に出した犬のよう。ちぎれんばかりに尻尾を振って、バッタ一匹に驚き騒いで。生きていることが楽しくてしょうがないのか。眩しくさえある。


 俺は振り返ることすらできない。こうしている間にも、安奈が、安奈が。


 1冊の本を2人で抱え、金も払わず、議論しながら拾い読み。そんな聖子と俺の謎の行為は、店員に注意されるまで続いた。二人で平謝りし、居づらくなって書店を出た。階下へ降り、店を出るまでの間、聖子の目を盗んで確認したが、安奈の姿はない。あったとしても、聖子を連れては、何もできない。


 店を出た後、明確に断らなかったせいだろう。いつの間にか、聖子を予備校まで送る流れになってしまった。俺は歩いた。興奮気味に、書店でのことを振り返る聖子の隣。はたから見れば、十分そういう関係に見える状態だ。


 制服の女子高生を連れ歩く、か。自分の性欲にアグレッシブなタイプのクズなら、死ぬほど喜びそうな状況だ。ベクトルの違うクズの俺でも、悪い気はしない。


 安奈の行方は知れない。


 もうこれで、いいんじゃないか。聖子の懸命なそぶり、このまま適当に流されれば、本当にそういう関係になれるかも知れない。受験の合格と同時に、女子高生の彼女ができるなんて、勝ち組にも程がある。神様が居るというのなら、彼は俺から安奈を引き剥がした代償に、聖子をくれたのだろう。


 何度か模試を受けに来たから、予備校の場所は、俺も知っている。人でごった返すアーケードを抜け、国道沿いの通りに出て、しばらく歩くと見えてきた。


「それで……あ、サキちゃん」


 予備校の入り口前に、聖子と同じ制服の女子高生。こっちは随分、印象が違った。

まず背が高い。173センチの俺より少々低い程度だから、170近いだろう。スカートの丈も、聖子と比べれば短く、膝より結構上だ。うちの母校なら、立派に校則違反、確実に不良のレッテルを貼られる。長い髪は、後ろ手にくくった、いわゆるポニーテール。聖子と違って釣り気味、切れ長の目に、しゅっと通った鼻筋。顔の造形は綺麗だが、今は何に怒っているのか、恐ろしい印象を受ける。


 サキというのか、この子の名前は。サキは俺に、明確な敵意の視線を向けると、聖子を問い詰めた。


「聖子。そいつ、何」


 女性にしては、低い声だ。安奈がドスの効いた悪役の女をやるときのような。何と言われても、成り行きで聖子の相手をしていた俺は、答えられない。聖子がたどたどしく話し始める。


「あの、サキちゃん。この人はね、この間大学に合格した人で……」


「そういうのじゃなくてさ。この間ので懲りなかったの。本当、変なのに簡単に引っ掛かり過ぎ。いい加減にした方がいいよ」


「でも、お兄さん凄いんだよ。私の志望校の法学部に受かって、今から法律の勉強始めて、さっきだって法律の本を探して、私、こんなに話せる人初めてだから」


 必死に食い下がる聖子に、サキはため息で応じた。


「分かった分かった。その話、後でゆっくり聞くからさ。今はとりあえず勉強しよう。このままその人と居ても、何のために三呂に来たんだか分からないでしょ。違う?」


 俺だってそう、言ってやりたいくらいだ。聖子はしばらく名残惜しそうに俺を見つめていたが、やがて予備校へ入っていった。


「さようなら、お兄さん。良かったら、またお話を……」


 俺はあいまいな笑顔でうなずくと、その背中を見送った。


 サキは聖子が予備校に消えていくのを見届けた。そして俺に向き直る。親が子をたしなめるようだったその目に、再び明確な敵意が浮かんだ。


「ねえ。ちょっといい」


「あ、はい……」


 思わず敬語になる。サキは背が高いうえに、骨太で抑揚のある体つきをしている。欧米のモデルの様な迫力だ。その体格と、詰問調から来る威圧感。中学のとき、俺を泣かした女にそっくりだ。俺は自分の心臓の鼓動を感じた。全てを見透かされ、打ち抜かれる恐怖。


「あんた、聖子をどうこうする気あるの?」


「いや、そんなべつに。元々、電車で知ったのがたまたまで、予備校もここだとか知らなくて、本屋でまた会って、話がしたいって言われて……」


 自分でも嫌になるくらい、声が震えていた。口も舌も、俺のじゃないみたいに言い訳を並べ立てる。サキの顔がまともに見られない。


「よく分からないんだけどさ」


 一言で、言い訳は叩き斬られた。彫刻刀の切っ先のような視線が、俺の心の奥底を貫いている。


「もう、あの子に近付かないであげて。あんたがヘタレでも、性欲だけの馬鹿でもどっちでもいいんだけど。関わってるとろくなことにならなそうだわ」


 ぶち抜かれた。見透かされた。俺の奥底、聖子に流されていきそうなクズの心根を。

 肺の空気が凍り付いてしまったかのようだ。ぱくぱくと口を動かそうとするものの、酸素を補給することすらできない。冷や汗がでてきたのか、ショルダーの紐が走る背中が、じっとりする。


「あんた、嘘ついてないなら大学生になるんでしょ。あの子よりも年上なんだし、気をつかってもらえない。会わないでいるだけでいいんだから、簡単でしょ。お願いね」


 サキはそれだけ言うと、きびすを返し、予備校に入っていった。


 俺はその場に立ち尽くした。


 身の程も弁えず、流されるまま調子に乗って、女子高生と懇ろになりかけ、その親友に追い払われたクズ。


「……なるほど、なあ」


 しみじみと呟く。喉の奥、目頭に不快な熱さが込み上げる。


 やっぱり俺には、こんなことしか待ち受けていないのだ。


 聖子に話しかけられて、いい気になって。安奈を見かけて、いい気になって。

悪いのは、調子に乗った俺なんだ。


 予備校生や、通行人の視線から逃げるように、俺は歩き出した。

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