焦り
残された俺は、ますます、惨めさをかき立てられた。紙を丁寧に収める程度のことで、期待を膨らませる聖子に。そこまで俺を求める彼女に、応えることを面倒くさがる自分に。
何をすべきか。そんなことは知らない。考えたくない。そうだ、安奈を見に行くんだ。もう2駅も行けば。
しばらく経ったが、電車は発車しない。
いぶかる俺の頭の上で、アナウンスが流れる。線路に不審者が立ち入ったそうだ。安全確保のために、しばらく発車を遅らせるらしい。
勘弁してくれ、あと2駅だぞ。
時計を確認する。響安奈のトークが始まるまで、もう20分しかない。三呂駅にさえ着けば、そこから会場のショップまで数分なのに。
靴のかかとで床を叩く。貧乏ゆすりが、俺に試験会場を連れてくる。解けない大問にぶち当たったときの苛立ち。宇宙の言語の様だった、有名私大の試験問題。秒針が一周した。こうしている間に、時間が過ぎる。答えが出ない。時間が、なくなる。解けないままじゃ、何もかも終わりだ。
俺は大きく舌打ちをすると、ショルダーバッグと共に立ち上がった。
前に一度、衣戸市の地図を見た。三呂までは2駅だが、そんなに長い距離じゃない。急いで行けば数分の遅刻で済む。
駅を出ると、俺は線路の高架沿いを東へ歩いた。最短距離じゃないかも知れない。でもとにかくこれで、迷うことはない。
10分ほど歩くと、三呂の手前の駅に着いた。景色に見覚えがある。確かこの辺りから、アーケードが三呂駅前まで続いている。入り口を見つければ、アニメショップまで辿り着ける。安奈に会える、歌声を聞ける。
俺は駅に背を向け、入口を探すべく通りへ入っていった。
いくつ、信号を超えただろう。いくつ、洒落た造りの建物を見送っただろう。何組の、幸せそうな連中とすれ違っただろう。
アーケードは見つからなかった。あれから20分を、とうに過ぎてしまっている。
現在位置さえ不確かだ。最初こそ、駅や線路を確認しながら歩いていたが。入口を捜してさまよったせいで、方角を見失っている。
畜生。俺は叫び出したいのを堪えて、早足でがむしゃらに歩いた。とにかく見つけなければ。
衣戸駅を出て、一時間。俺は相変わらずさまよっている。足が痛い。この日のために、買った靴のせいだ。見かけだけで、靴底が薄かった。もしかしたら、安奈が俺を見るかも知れないなんて、いい気になった俺は馬鹿だ。
立ち止まって辺りを見回す。見覚えが全くない。なぜだ。衣戸駅からかなり東に来た。確実に、三呂駅の真北くらいには来ているはずなのに。
「あ……」
北。こっちは駅の北側。アニメショップがあるアーケードは、駅の南側だったんじゃないか。そうだ、そうだった。焦っていて忘れていた。
「くそっ!」
周囲からの怪訝な視線を振り切るように、俺は全力で駆けだした。
息を荒げながら、必死に南を目指す。10分と経たぬ内に、電車の高架が見えた。東へ走ると、衣戸駅より大きい駅舎。近づくとやはり、三呂駅の北口だ。
南口へ抜けるには、道路を渡る必要がある。俺は時計を確認する。開始時刻の超過どころじゃない。終了時刻が迫っている。
「うぅ……っ!」
うめき声とも泣き声ともつかぬ情けない声。走る俺の喉奥からだ。信号なんて待ってる間はない。俺は地下鉄の階段へ駆けこんだ。ここからでも南口を目指せる。
息が切れる。関節が悲鳴を上げる。地下道のタイルの目地が、盲人用の凹凸床が、足裏を痛めつけてくる。必死に走る、気持ちの悪いクズの容姿に、通る人の容赦ない視線。べつにいいんだ。こいつらとは二度と会わない。
改札前を駆け抜け、人垣をよけ、ようやく南口へ。ここまでくれば迷わない。体の悲鳴に耐えかねて、とうとう俺は歩き始めた。
息を荒げ、体を引きずるようにして、アーケードにたどり着く。一体になった駅ビルに入り、いよいよアニメショップに近付く。すれ違う連中を見ないように、時計の方も見ないように。
俺は頑張った。無様な姿を衆目にさらし、傷つきながら必死になって。ささやかな奇跡ぐらい、期待しても――。
辿り着いた俺の眼前。エプロンや、パーカーを羽織ったショップのスタッフが居る。互いに声を掛け合いながら、声優、響安奈のために急きょ設営された会場を、片付けている。
安奈の姿は見えない。マネージャーや、それらしき人の姿すらない。
間に合わなかった。イベントの終了時間にさえ。
分かっていたのだ。時計はあえて無視していたし。ビル内ですれ違ったのは、明らかに一般人と面構えの違う連中。あいつら、イベントの帰りだったのだ。
一人の店員が、立ち尽くす俺の方を見た。青白い彼の顔。そこに浮かんだ、哀れみの表情。やりきれない。俺は拳を握りながら、きびすを返した。
この商店街は、県下で最も大きい。店舗はアーケードの一階だけではない。二階部分までぎっしりだ。
その一画。買い物に来た連中が休憩できるように、ベンチと植え込みを備えた広場がある。広場の頭上に屋根はなく、駅ビルの間から青空が覗く。
力尽きた俺はベンチにうずくまり、うなだれていた。ここは、アニメショップから近く、買い物や、イベントに来ていた奴らが休憩している。
顔を上げて様子をうかがう。イベントがあったせいか、一人の奴なんて居なかった。中学生だろうか。俺から見ても、微妙な体型、顔つきの少年達が、それはもう楽しそうに談笑していた。結構外見のいい安奈は、数年前からアイドル的なくくりでも注目されている。最近、ソーシャルゲームにも出たし、出演した深夜アニメは動画サイトで配信している。これくらいの年ごろの奴らが存在を知り、イベントに出張ってもおかしくない。
俺は舌打ちをどうにか殺した。無意識に拳を握りしめている。
群れやがって、ガキのにわかどもめ。つい最近、安奈を知った分際で。
なお腹が立つのは、デートのついでにショップへ寄ったらしいカップルが、ちらほら居ることだ。こちらは俺なんかより、よほどまともな外見、雰囲気だ。お前らには安奈など、いや、アニメ自体、必要ないだろうに。
視線を感じたのだろうか。カップルはちらりと俺の方を見やり、すぐに目をそらした。目が合えば噛みつく野良犬にでも見えたか。確かに今の俺は、そんな心境だが。
友達同士か、恋人同士か。ここにはそんな奴らしかいない。俺には一緒に行動する恋人も、友人も居ないのだ。安奈に会えなかったうえ、自分の孤独まで改めてえぐり出されるというのか。
ここに居ても、休憩にはならない。俺は立ち上がった。背中で、俺を怖がる呟きが聞こえた気がした。
ふらふらと歩いていると、辛うじて当初の予定を思い出した。そうだった、ライト
ノベルを買うんだ。イベントがあったアニメショップにも、近くの古本屋にも行く気はしないが、本屋はそこだけじゃない。
その書店はアニメショップの入った駅ビルの向かいにある。珍しいことだが、二階部分が通路でつながっているのだ。
全国チェーンの大型書店、紀州屋。アーケードとつながったビルのフロアを、4階層も使い切り、小さな図書館ほどの蔵書を取り揃えた、県下随一の大店舗だ。行きの電車で会った聖子が、法学の専門書を買った場所でもある。
二階入口から入った俺は、迷わずに店内エスカレーターを目指した。すれ違う客層は、アニメショップの面々と明らかに違う。社会人に大学生、制服の高校生。ここは一般人の領域だ。今の俺には、それこそがありがたい。
3階に着くと、探すまでもなく、目的の本は見つかった。ライトノベルの棚に、1巻から10巻までが平積みにしてある。アニメ化しただけあって、売込みに力が入っている。
1巻を手に取り、レジに向かう途中のことだった。
俺は信じられないものを見た。
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