クラム・ブルーズ

片山順一

俺と電車

 俺の年頃、つまり18歳の少年にとって。


 世界が完璧に形を変えるには、どれくらいの時間が必要だろうか。


 ある人は言う。全ては、衝撃的な一瞬で事足りると。


 またある人が言う。人の心は、長い時間をかけて動くと。


 さもあろう。だが誰も、具体的な数値を出すことはできない。

 それは何日後か、何時間後か、何分後なのか。


 人によるなんて、逃げ腰な答えはいらねえ。

 ちゃんと見せろよ、センター試験の得点みたいに。


 なあ、俺を勝手に大人にした、あんたたちよ。


 3月。卒業式を終えた、高校最後の春休み。俺は、気分が良かった。

 目標としていた国立大学の法学部に、現役で合格できたのだ。学部の偏差値は60そこそこで、エリート校とはいえない。ただ、現役というのは大きい。


 入ってしまえば、その先の進路への希望も見えてくる。どこぞで読んだように、在学中に起業でもして、大きく羽ばたいてやろうか。

 それとも、官僚でも目指してやるか。あるいは、夢に賭けて、いわゆる法曹ってやつを目指してやろうか。


 弁護士、検事、裁判官。


 家は無駄に裕福だし、親を言い包めればそれも不可能じゃないだろう。


 法律は、誰でも得られる権力だ。俺はそれに、一歩近づく。


 顔立ちがぱっとしないこと。後輩や家族を除いて、女と会話できないこと。


 それが可哀想だって。そんなことを言ってやがった奴らは、みんな置いていく。


 せいぜい、テレビやネットに踊らされた、大衆らしい人生でも送ってやがれ。

 俺は、お前ら馬鹿を操って、おおいに楽をさせてもらおう。いずれお前らなんかより、素晴らしい家庭を築いてやる。


 がたん、ごとん、電車は進む。


 高校まで、何百回と乗った電車。目標を忘れて、目が死んだ大学生。食って交尾するだけのカップル。他には、その他大勢の、人生に必死なリーマン。その他大勢の、人生が終わっていく老人もいたっけか。


 俺は彼らに、恨みなんかない。ただ、見ているのが面倒くさいのだ。なぜ居るんだ、俺をわずらわす、こんな奴らが。とっとと、連中の関係ない世界へ飛びたい。


 心の歪みは、ますますひどくなっている。


 知るか。これしかなかった。さもなきゃ、受験が潜れなかった。

 友との絆を大切にしながら、しっかり勉強して俺より上の成績を取ったやつら。東の大学へ凱旋していく奴らなど、残らずくたばっちまえ。


 瑞々しい果実のような彼女の声が、ヘッドホンから流れている。乾ききった、刺だらけの俺の心に染み入る。


 ひびき安奈やすな、声優界で『姐さん』と呼ばれて久しい彼女は、俺のお気に入りだ。


 彼女の芸歴は10年。今の俺と同い年のとき、深夜アニメでデビューした。新人には珍しく、主人公の母親の声を演じた。知る人ぞ知る人気が出て、だんだんと芸域を広げ、演技に磨きがかかった今は、少女や少年もこなす中堅。グラビアや、ラジオの宣伝画像で見る彼女は、俺よりずっと年上とは思えない、無垢な目をしていた。


 その声を聞いていると、安らぎで満たされる。人を刺して、その血で錆びた包丁のような俺の心さえ。歌われているのは、過酷な過去を背負い、それでも羽ばたこうとする少女の心情。悲痛な歌詞ながら、心が洗われる。本当に、美しい。


 今日は、そんな彼女の実物が見られる。夢のようだ。


 合計48分、響安奈のフルアルバムの世界に浸っていると、電車が終点に着いた。

まだ、目的地じゃない。安奈がやって来るアニメショップは、この駅から新快速電車への乗り換えを経て、40分ほど行った所にある。


 アナウンスを経てドアが開き、俺はホームへと降りた。有象無象達も、一斉に電車を降りる。電車はたった二両とはいえ、乗客は40人ほどもいる。


 こっちのホームは、向かいのと違って、小さく貧弱だ。階段も狭いし、エスカレーターは一本。40人がなだれ込むと、ささやかな混雑が起こる。先を争って、街へ続く狭い道を行く俺達は、蜘蛛の糸を奪い合う亡者のようだ。田舎など、地獄ほど退屈だということか。


 亡者の一員となり、階段を目指す俺の前に、珍しいものが転がり込んだ。


 襟元のでかいリボンに、真っ白なブラウスの上から、クリーム色のニット。チェック柄のプリーツスカートに、スニーカー。


 この制服は、俺が受験しなかった、同じ学区の高校のもの。まあぼちぼちの普通科があるが、国立大へ行ける者は少ない。男子の制服は、ブレザーだったか。中学までの同級生には、この高校へ行った奴らも居た。


 思い出すのは、試験や大会で追い詰められたとき。のんきそうに駅に向かう彼らが、気に食わなかったものだ。腹の底で馬鹿にして、気を紛らわしてやった。俺が苦しいのは、こいつらと違う高校に通っているからだ、なんて。


 しかし、この子は妙だ。この高校は、うちの隣の市にある。だから電車を使うのは分かるが、この路線とは逆方向。街の予備校で、模試でもあるのか。それにしては、他に同じ制服の女子高生もみえない。ならばたった一人、制服でどこへ行くというんだろうか。


 相当焦っているらしい。サイドテールを揺らしながら、俺の前に割り込んだ。


 そのまま列が固定する。俺は少しむっとしたが、どうやらその子も気づいたらしい。


「あっ、すいません、ごめんなさい!」


 振り返って謝ってくる。けれど、後ろなんて見ていると。


「きゃっ……」


 階段を踏み外した。言わないことじゃない。


 俺はその子の手首をつかんだ。予想の通りに動くのは、簡単だ。


 滑らかな手首は、少し握れば折れてしまいそうだ。その体も羽のように軽く、俺の力なら支えきれる。最近、筋トレをさぼり気味だったが、なんとかなってよかった。


 その子の無事を確認し、列が再び動き出す。


 俺は手を離したが、すぐにその子が振り返った。


 少しだけはにかんだ、あどけない顔。中学生と言われても通じるだろう。ちょっと低い鼻に、きゅっと結んだ小さい唇は、子犬を思わせる。


「あの、ありがとうございます」


 感謝の言葉――俺に手を触れられて、気にしないとは。

 気に入った。俺は、部活の後輩に接するときの笑みを作った。


「乗り換えだろ。意外と時間あるよ、落ち着いてな」


 ここで焦る理由は、それくらいだ。


「でも時刻表だと、3分くらいしか」


「3分間は、180秒。1から数えると結構長いよ。すぐ改札だ」


 俺はポケットから切符を出した。その子はスカートのポケットをごそごそやって、財布からようやく取り出した。小銭をばらまきそうな、たどたどしい感じだった。電車に慣れていないのだろうか。


 改札を過ぎると、人の列が、散り始めた。列がない以上、俺もこの子も、隣に並ぶ必要はない。必要のない事は、やらなくてもいい。

 何も言わず、俺はその子から離れて、乗り換え線のホームを目指した。関わるのが面倒になった。ちょっとした親切、それでいいじゃないか。


「あの」


 また声がかかる。何だというんだ。


 振り返った俺の顔に、苛立ちが出ていたのだろう。


 その子は、ちょっと身をすくめた。


 ああ、俺が悪者か。それは嫌だから表情を変える。こちらの顔色をうかがいながら、その子が話しはじめる。


「お兄さん、どこまで行くんですか」


三呂さんろ駅だよ」


「ならあの、私、手前の衣戸ころもど駅までだから、よければ途中まで……」


 言い淀んで、口ごもる。卑屈さと見紛うほどの必死さ。俺なんかのどこに、そうまでする理由があるのか。理解できない。が、むげにしたら、さすがに気の毒だ。


「分かった。一緒に行こう」


 ぱあっと明るくなるその子の顔。真夏の午後。夕立が去り、青空を写した大プールの水面。そんな光景が浮かんだ。


 電車はそれほど混雑していなかった。俺はその子と向かいの席に腰かけた。


 その子の名は、さかき聖子せいこといった。やはり俺が予想した進学校に通っていた。二月に修学旅行を終えた、二年生だそうだ。


 ということは、これから、大学受験を戦うことになる。


 そんな彼女に、俺は自分の立場を話した。


 聖子より偏差値の高い進学校を卒業し、国立大学に現役で合格したことだ。


「それじゃあ、お兄さんは」


「ああ。家から近いし、他は行く気がしなかったから」


 まずは俺の母校の名前が、聖子に強い感銘を与えた。


 校区の公立で、一番の進学校。


 うるさい有象無象が一緒に入ってくるような、わけのわからない高校にだけは、行きたくなかった。それだけの理由で、中三の俺は全てを高校受験に賭した。勉強のことばかり考えていたから、どうもそのときのクラスメイトの印象が薄い。


 いや、今までに強い印象のある人間なんか居なかった気がする。俺という人間の底が知れる。


 そんな俺だが、聖子は眩しそうに言う。


「本当に、すごいですね。私、頑張って頑張って、今の高校だったから」


 褒められたことには、特に何も感じない。ただ、聖子の行き先が案じられた。

 頑張ってあの高校じゃあ、その先は知れている。彼女の進路は就職か、良くて中堅私立、三流国公立大ってところか。


 俺が行けた国立も、たかが知れているところだが。


 聖子もまた、高校受験で燃え尽きて、入ってからがやっとなのだろう。


 俺は初めて、聖子に親近感を抱き始めた。


 だが。


「それに、私の行きたい大学に、現役で合格なんて、本当に凄いですよ」


 俺の大学。うちの高校ならともかく。聖子の高校じゃあ、相当のランクに居ないと難しい。この時期に、まだそんな夢を描くほど馬鹿なのか。


「一年から、模試受けてるんです。でもずっとD判定で、二年になって、やっとCまで来たんです。この間たまたまB取れたけど、来年には間に合うかどうか」


 謙遜する聖子。腹立たしいことに、嫌味は全くない。一足先に進んだ俺に、私なんてまだまだだと、本気で言ってやがる。だが、こういう奴こそ、一番恐ろしい。


 なんてこった。俺のようなクズではない。聖子は恐らく、前向きに頑張ることのできる人間。頑張って結果を出すことのできる人間だ。そこに存在するだけで、俺を一番傷つけるタイプの奴。


「お兄さん、学部はどこですか」


「……ああ、一応法学部だけど」


「本当ですか!」


 顔色を変えた聖子。小さな白い手を、胸元できゅっと結んだその姿。木の実を抱えた小栗鼠こりすを思わせる。子犬だったら、尻尾が揺れているだろうか。


 制服の胸元の大きなリボンが、可愛らしい印象を与える。うちのセーラーより、いいかもしれない。


 関わらないと決めたのは誰だったか。俺は本当に、底の浅い人間だな。


「あの、もしかしてもしかして、法曹とか目指して」


「……まあ、ちょっと考えてるけど」


 その瞬間、聖子のテンションが振り切れた。声を上げるのを、抑えてはいる。だが急にこっちへ顔を寄せてくる。目がきらきらしてやがる。


「本当に、本当なんですか!」


 さっきまでの尻ごみはどうした。パーソナルスペースを侵しているぞ。俺は背もたれにへばりつき、うなずいた。今さら、首を横に振れるはずがない。


「やだー、出会っちゃった。そんな人、周りに居なかったんです。法学部志望の子でも、私が本気で法曹目指してるって言ったら、引いちゃうし。お兄さん、本当に凄いんですね」


 クリスマスプレゼントを受け取った子供のような顔で、そんなことを言うな。出会う前に考えていた本音が、口に出せなくなる。いくら俺がクズでも、せめて聖子の前でだけは、大した奴でありたくなる。


 限りなく、面倒臭いことなのに。


「そんなことないと思うよ。それに、受験がどうでも、大学の勉強って、高校までと全然違うみたいだし」


 どう違うのか、実際は知らない。けれどこう言っておけば、聖子は俺が違いを知っていると思い込む。


 案の定、聖子は目を輝かせて、うなずいた。


「そうそう。やっぱりそうなんですね。試験の時間も、60分とか90分とか。司法試験なんて、もっと長いらしいんですよ。しかも一日中あって、女の子が受けようとしたら、体力が続かないらしいんです」


 こっちの知らないことをひとしきり話し、なお尊敬の目で俺を見る聖子。


 ふざけてやがる。俺より偏差値の低い進学校に通う、これから大学受験の女子高生なんだろう。一体どこでどんな体験をすれば、そんな先のことが分かる。


 これじゃあ、すぐにぼろが出てしまう。醜悪な俺に向けられる、悪意のない哀れみ。恐怖におののく俺に、聖子は気づいていない。


「でも意外です。お兄さん、傍聴に行くんじゃないんですね」


「ああ、うん。あんまり行かないな」


 ぼうちょう、裁判傍聴か。この国の裁判は公開が原則。裁判所に行けば裁判を傍聴することができる。公民でやったが。未成年でも入れてくれるのか。聖子は高校のさらに先を考えている。ちなみに俺は、行こうと思ったことすらない。


「じゃあ三呂には何を……あの、お兄さん?」


 心配そうに変わる声。俺の混乱を察したのか。踏み込みが深いわりに、ナイーブさまで備えている。なんなんだろう、この子は。なんとか取繕わないと。


「いや、なんでもない。三呂には本を買いに行くんだ」


 嘘じゃない。イベントのついでに、最近アニメ化したラノベを一冊、買うつもりだ。

 聖子には、満足のいく回答だったらしい。しみじみと肯き、尊敬の視線を向ける。


「あそこなら、法律の専門書も、問題集もたくさんありますもんね」


 そうなのか。そういえば、駅前のアーケードにでかい本屋があった。真面目な本を満載した、うずたかい本棚を思い出す。あんなもの見るだけで、吐き気がするが。


「私、去年のお年玉で何冊か買って、読み通しちゃったんですよ。でも受験には、ぜんぜん役に立たなくて。現代社会にちょっとだけ、判例が出てる感じかなあ」


 専門書まで、読んだだと。あんなしち面倒臭いものを、よくもまあ。

 これは、前向きに努力できるとか、結果を引き寄せられるとか、そんなレベルじゃない。


 聖子。こいつは、けた違いだ。小動物の姿や雰囲気。若干、相手を気にし過ぎる所もあるか。でも、自分の興味に貪欲に突き進める。特別な人間だ。恋人と共に、東の有名国立大へ行った、あの学年のヒーローのような。


 俺はというと、一応大学から、入学までに読めと言われた本がある。でも、そんなものには手をつけていない。買いに行くことすら、していないのだ。


 こんな奴、認めておけるか。へこませてやる、受験生を黙らせる方法は簡単だ。


「でもやっぱり、受験のときは、受験のこと考えた方が良いんだろうな」


「……そうですよね。お兄さんが言うなら、やっぱり」


 寂しげに目を伏せた聖子。くぅんと小さく鳴き、耳を垂らす子犬の様相。こんなふうなのも、可愛らしいものだ。


 俺の言葉は、聖子に効いた。たかが受験を、それなりに潜り抜けただけの俺。それ以外に、何も持っていない俺。そんな俺が前向きに歩く聖子の心を抉るには、やはり受験を使うしかない。


 クズだな。いっそ、清々しいほど。


 俺の一言で、話題の中心は受験に変わった。俺が、聖子を上回る成果を得た世界。得意げに、大学の設問の傾向、センター試験の対策、母校の三年次のカリキュラムなんかを並べ立ててやる。受験の洪水が、聖子からだんだん笑顔を奪っていく。


 狙い通りだ。


 今俺は、大切なものをぶっ壊して突き進んでいる。だが、これでいい。どうせ、俺にはこれしかない。


 会話は会話だった。弾んでいようが、いるまいが。


 時間があっという間に過ぎた。衣戸駅のアナウンスが聞こえた所で、聖子が突然鞄を開ける。メモ用紙を千切ると、ボールペンでなにやら走り書きをする。


「……お兄さん。よかったら、これ」


 パソコンと、携帯。二つのアドレスだった。

 俺は目をしばたかせる。馬鹿な。ここまでされて、なぜ。

 こうなると、明確に断ることはできない。そんなことをすれば、俺は聖子を傷つけることになる。


「ああ。ありがとう」


 なんでもない事のようにそう言って、俺はショルダーを開いた。丁寧にしわを伸ばし、クリアファイルに収めてやる。くしゃくしゃでは、気分が悪い。


 しばらくかかったか。顔を上げると、空ろだった聖子の顔に、元気が満ちていた。


「お兄さん、待ってますね」


 夏風の様な笑顔を見せると、聖子は車内を出ていった。

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