第20話 ミコト × 20

 デッサン講義の行われている美術室。部屋の中央に新たに設置された教壇の上でミコトが椅子に座り、太もものあたりに両手を置いて正面を見つめている。その様を見て20人近い生徒がイーゼルに置かれたキャンバスに描き込むために筆を動かしている。


 ミコトはあくびをひとつかみ殺すと、壁に掛けられた時計をちらりと見た。まだ始まって20分も経っていない。結構軽い気持ちで絵のモデルを引き受けちゃったけど、実際にやるのってこんなに大変なんだ。ミコトは視線を戻すと絶えず自分の身に注がれる視線に背中が痒くなってきた。


 360℃ ミコトを囲む輪の中に招待状で誘った優奈の姿は無い。せっかくここまでうまく事が進んだのに瞬太が優奈に帰れなんていうからふたりで仲睦まじくデッサンをしてもらう計画が全てダメになってしまった。怒りで斜め左に置かれた瞬太のイーゼルを睨みつけていると意識の外から声が飛ぶ。


「すみませーん、ポーズ崩れてるんで戻して貰えますかー」


 みんなの意見を代表して美術部の部長がミコトに向かって挙手をした。それを見て慌てて元の姿勢を取り直すミコトの額にはじんわりと汗が滲んでいた。


 ミコトは都合1時間半のこの講義で3つのポーズを取って絵を描いてもらう運びになった。


 中でも一番肉体的にきつかったのはつま先で立ったまま右手を背中の後ろに通して反対側の左手でその伸ばした右手の指を掴むというポージングだった。そのまま胸を張って顎を引かずに正面を向く。身体の軟らかい前のミコトなら何のことはない、バレエダンサーのようにこのまま狭い歩幅で歩き出すことも可能なポーズだったが、今の自分の重い身体を足先だけで支えるのはとても困難で何度も細かい休憩を挟み、息も絶え絶え、なんとか予定終了時間まで続ける事が出来た。


「はいお疲れ様!みんなとっても満足していたよ!」


 顧問教師の講義時間が終わり、ミコトがその場にへたり込むと瞬太の友人が教室を出る生徒たちとは逆の流れに乗ってミコトにスポーツドリンクを差し出した。


 ミコトが礼をしてそのキャップを外して中身を喉に流し込むと良い飲みっぷりだ、と瞬太が茶化すようにしてキャンバスを持ってこっちに向かってきた。500ml をすぐに飲み終える瞬太は描き終えた自分の絵をミコトに差し向けた。


 そこには溶かした油絵の背景が包み込む中、椅子に座ってまっすぐ正面を見つめる制服を着た少女の絵が描かれていた。左向きに構図が取られたキャンバスにははっきりとした太さの描画でミコトの全身が写し取られている。ふくよかで丸みのある体格とは対照的に顔は凛と引き締まった精悍な表情を見せている。時間が無く、リボンや袖口など細部には色は付けられていないが女子高生の内面から漲る若さと力強さを感じさせる一作だった。


「まるで石膏のマリア首像だな」


 ミコトが絵の上手さに言葉を失っていると髭面の美術部顧問教師が後ろからキャンバスを覗き込んで呟いた。ミコトが振り向いてその絵を教師に手渡した。


「相変わらずパースは正確に取れてるな」


 教師はその絵を指でなぞるように深く見つめると顔を上げて瞬太に向き直った。すると瞬太が視線を落として力なく言葉を吐いた。


「今回も上手くいきませんでした」


「えっ、どういう事?こんなに上手く描けてるじゃない?」


 慌ててミコトが瞬太に訊ねると教師がキャンバスをミコトに返した。ミコトがその絵の問題点を探していると観念したように瞬太が声を絞った。


「この絵には情熱が無い。人物の顔に血が通っていないんだ。さっき先生が石膏像にそっくりだと言ったのはそのせいだ」


「そんなこと無いのに」


 ミコトはキャンバスに描かれた自分の姿を見つめた。先生がミコトに瞬太の絵を説明するように言った。


「追浜は入学以来、スランプに陥っていてな。正確なデッサンは出来てもそれに色を注ぐことが出来なくなっている」


「正直、描いている時に絵に集中出来ていない時があります。なんというか気持ちが浮ついているというか」


 そういうと瞬太が過去に自分がつけた傷のある左手の甲に視線を落とした。それを見てミコトが瞬太の態度を是正するような毅然とした声を出した。


「違うよ」


「えっ」


 驚いて顔を上げた瞬太に呆れたようにミコトが言葉をぶつけた。


「私、正直言って絵の事とか全然分からないけど、上手く描けないから自分を傷つけるのは違うと思うよ。それにデッサン始める前に優奈にあんなこと言ったら絵に集中できるわけ無いじゃない。根詰め過ぎだよ」


「そうなのか、追浜?」


 ミコトと先生を受けて瞬太がふっと息を吐き出した。


「実は描いてる途中、ずっとアイツの顔が頭の中に張り付いていてな。中学時代、部活の仲間とトラブルを起こして以来、俺と口を聞いてくれるのはアイツだけだったんだ」


 初めて瞬太の優奈に対する気持ちを聞いてミコトは強く頷いた。優奈が瞬太を想っているように瞬太もずっと優奈の事を気に掛けてたんだ。ミコトはその場を立ち上がると瞬太の長い袖を引いて教室の外へ出た。


「おい、ちょっと何をする」


「優奈、きっとまだ外にいる。瞬太が来るの待ってるよ。行こう」


 ずんずんと廊下を進むミコトの姿を見て思わず他の生徒が道を譲る。


「待てよ!あの時はアイツが急に目の前に出てきて混乱してたんだ。まだ心の準備が....!」


「この場に及んで何言ってんのよ!男の子でしょ!しゃきっとしなさい」


 お節介焼きの近所のおばさんのような口調で瞬太と一緒に学校を出ると海岸沿いの波止場でひとり夕焼けを見ながら黄昏ているツインテールの女の子の姿が見えた。


「さ、正直に自分の気持ちを伝えてきなさい」


 ミコトが瞬太の背中を押す。優奈が瞬太に気づいて振り返って息を呑む。瞬太が頬を指で掻きながら手すりの近くへ向かって優奈に向かって声を出した。


「今日は、本当に悪かった。そしてあの時も。ずっと後悔してたんだ。俺、絵を描くこと以外に何にも出来ないから」


「せっかく来てやったのに一緒に描かせて貰えないとは思わなかった」


「それは本当にすまない。言葉のアヤだった」


 瞬太の言葉を受けて優奈は後ろで手を組んで振り返って海を眺めた。強い潮風が優奈の長い髪を揺らしている。


「私、来月フランスに行くの」


 思わぬ優奈の言葉を受けて瞬太が固まる。再び視線を戻して思い出したように瞬太は優奈に言葉を向けた。


「そうか、おまえの父親海外で仕事してたもんな。こうなる事は時間の問題だと思ってた」


「それでね、私今までお世話になった人、全員に挨拶に回ってた。でも瞬太にこんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかった」


 瞬太はきっと奥歯を噛むと意を決したように自分より高い場所に立つ優奈を見上げて大きな声を張り上げた。


「二葉、俺は中学の時からずっとおまえの事が好きだった!」


「えっ?えっ?えっとどういうこと?」


 突然の告白にミコトが混乱し、それを聞いた近くの女子ふたり組みがはにかんだような顔をしてその場を離れた。優奈は一瞬驚いた顔をしたが正面の海を向き直って瞬太の次の言葉を待った。瞬太は自分が長い間仕舞い込んでいた内面をナイフで抉りだすようにして優奈に言葉を綴った。その言葉を強い風がかき消していく。ミコトが聞き取れる範疇で瞬太は優奈にこう告げていた。


「....上手く絵が描けなくてさ。ずっと自分に言い訳してたんだ。やっぱり俺にはお前が側で口うるさく手助けしてくれないとダメだ。だから、日本にいる間だけでもいい。俺の側にいて欲しいんだ」


 男らしい瞬太の言い分にミコトが心を揺さぶられいると、焦らす様な態度でゆっくりと優奈が瞬太に向き直った。その挙動には今までその気持ちを自分に告げてくれなかった少しの怒りとわが子の成長を見届けるような温かさがあった。


「それってどういう事?」


 少しだけ悪戯な口調で優奈が瞬太に聞いてみせた。やっぱりこういう言葉は男の子の方から伝えて欲しい。瞬太が3段の短い階段を上ると優奈の細い肩を抱いてこう告げたのだった。


「日本に居る少しの時間だけで良い。俺と付き合って欲しい」


 優奈は瞳を潤わせて瞬太の背中に手を回した。瞬太が抱き返すとふたりは声を上げてその場で泣き合った。


 それを見てミコトは溢れる涙を拭いながら想いを遂げたふたりの姿を目に焼き付けていた。



 誰かがその人の事を想う時、その想われた人がその人のことを想ってくれていたら、言葉や距離なんて必要ないくらい強くふたりの気持ちは結ばれるんだ。その事を私は目の前のふたりを見て教えて貰ったよ。さあ、次は私の番。ミコトは家に戻ると部屋のドアを開けた。


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