第13話 ミコト × 13
県境にある茨川に練習拠点を持つソフトボールチーム、茨川フェアリーズの練習後のメンバー発表。遂にミコトが念願の1軍入りを果たし、超大型右腕霧島美紀を擁する世代の最後の夏が始まった。その日の練習終わり、ミコトは監督からレギュラーゼッケンを受け取った事を両親や離れて暮らす祖父に電話で報告した。数字は今までと似たような限りなく2軍に近い背番号だったが、ミコトはそれでも十分に嬉しかった。これで美紀や莉央と一緒にソフトが出来る。はやる気持ちを抑えてミコトはベッドに就く。まだ見ぬ夢の舞台に想いを馳せながら。
夏大会、フェアリーズを筆頭とした有力チームはトーナメントを順当に勝ち上がり、危なげなく準々決勝までコマを進めた。なかでも “投石器” 霧島美紀の投球は目を見張るものがあり、その完成された投球技術に取材に訪れる記者の数も日に日に多くなっていた。
ベスト8の相手はチーム新設3年目のぶどうヶ山フロッグス。試合は序盤にバッテリーエラーから1点を失ったフェアリーズがフロッグスを追いかける展開になった。相手投手の好投と野手陣の堅守によりずるずるとイニングを消費するフェアリーズ。試合終盤の攻撃、得点圏にランナーを出すが5番打者のリョウが空振りを喫して3アウトを取られるとベンチの中の国府監督が思わず天井を仰ぐ。審判から攻守交替のコールがなされて、後輩とキャッチボールを交わす霧島がピッチャーズサークルに向かうとエースピッチャーがこの回も 0 に抑えて最終回に仲間の反撃を待つものだと思われた。
「あぶない!」
ベンチのミコトが声を出すと投球板の上で美紀の身体が崩れ落ちた。その勢いで被っていた帽子が土の上に落ちて、すぐさまキャッチャーの莉央がピッチャーズサークルに駆け寄った。
「ボールは!?」
監督が席を立ち上がると美紀はボールを掴んだ左手のグローブを主審に向かって掲げた。投手強襲のピッチャーライナー。この回もきっちり3人で抑えるとベンチに引き上げてくる美紀の様子がおかしい。詰め寄る選手の間から覗いた美紀の姿にミコトは思わず目を伏せた。中指が外側に曲がり、人差し指の爪の間からはおびただしい出血が指を伝って流れ落ちている。
「馬鹿、なんで内野に任せなかったんだよ」
サードのリョウが美紀に問い詰めるが、美紀は自分を咎めるように指に当てられる消毒液の痛みに口唇を噛み締めていた。エースとしてこれ以上点を取られる訳にはいかない。同じく投手を任されているミコトには彼女の想いが痛いほど伝わった。2番手の樫野が前の試合で長いイニングを投げている事からこの後の試合を見通して連投は避けたい。国府監督は腕組を解くと試合を左右するこの場面でひとつの決断を下した。
「長谷川!」
「はい!」
呼ばれた。遂に待ちに待ったこの舞台で自分の名が呼ばれた。全身に電流が走るような身悶えするような快感。この瞬間のために自分はソフトを続けてきたといっても過言ではない。ミコトの瞳が歓喜の色から試合を任せられたエースの覇気を放ち始めた。
「キャッチボールの相手、お願い」
後輩を呼んでベンチを飛び出すが「あー、違う、そうじゃない」と監督がミコトを呼び止めた。何事かと振り返ると監督がミコトに悲痛な宣告をした。
「長谷川、投げるほうじゃない。おまえがするのは打つほう」
思わず頭が真っ白になる。「監督のいう事に紛らわさせるなよ」莉央がミコトの背中を叩く。
「お前が入るのは9番、つまり美紀が打っていた打順になる。この回同点に追いつけば延長戦はおまえが投げることになるんだ。どういう事か分かるか?」
ミコトが深く息をしてとっ散らかった頭の中を整理する。莉央がミコトに肩に手を置いて瞳を覗きこんだ。
「監督はお前と心中することを選んだんだよ」
監督が私をそこまで認めてくれているなんて。ミコトの胸の奥に熱い闘志が湧き上がる。莉央はチームメイトに向き直ると最終回に向けて円陣の音頭を取った。
「ミコトに任せるのはわたし達も同じだ。相手の投手は打てない相手じゃない。たったの1点差。追いついてやろうぜ!」
ソフトボールに青春を捧げる女子中学生達が気合の入った声を上げると勢い良くその輪からひとりの少女が飛び出した。茨川フェアリーズ7回の攻撃だ。
「頼むぞーりん子ー」
「うん!任せて」
力強い声を残して先頭バッターのりん子が打席に立つ。2球目で相手バッテリーの意表を突くセーフティバントをピッチャーズサークルの前に落とすと回転のかかったボールは不規則なバウンドを見せて投手と捕手の間を転がった。バッテリーがその処理を手こずっている間にりん子の足がソフトボール特有の2色ベースの片側を踏んだ。
「やったー!」
「ノーアウトでランナー一塁。これは大きいな」
ミコトが飛び上がって手を叩く横で莉央が冷静に状況を読み取る。塁上でヘルメットを外したりん子がベンチに向かって親指を立てた。
このままの勢いで続くと思われたフェアリーズだったが、続く2年生の代々木が送りバントを失敗しワンナウトとなる。
「大丈夫、まだまだいけるよ!」
真っ青な顔をして戻ってくるチームメイトにバッターサークルの前でミコトが声を出す。次のバッターは大会初戦からマスクを被る3年生の堅橋莉央。打席に立つと莉央は審判に挨拶をしてバットを投手に向けて振った後、自分の身体の横でバットを起こし、構えた。初球はストライクゾーンを大きく外れるボール。この場面で相手も緊張している。カウントを取りに甘いコースに入れてくるかもしれないな。莉央のその予想は当たり、金属バットで跳ね返した打球が乾いた音を残して雲ひとつ無い青空を裂いた。
「やったー!」
大飛球にベンチの選手が飛び上がる。ボールは内野の頭を越えて外野の後ろに落ちる長打コース。ランナーのりん子が懸命に本塁を目指して駆け回る。得点を確信して両手を叩いていると相手の外野からの中継でこれ以上ない素晴らしいコースへの返球が返ってきた。
キャッチャーがランナーの進路を開けた状態でボールを捕球し、りん子が滑り込みながら本塁に手を伸ばす。グラウンドを沈黙が包み込む中、主審はきわどいこのプレーにアウトの判定を出した。
「うそ?セーフだよ、セーフ!」
りん子が起き上がるなり主審に抗議する。この判定に国府監督がベンチを飛び出すが判定は覆らず、2アウト。ランナー2塁でミコトに打順が回る。
両側に耳当てのついたヘルメットを被りなおすとミコトは打席に入って審判と捕手に挨拶を交わす。ミコトのその背にはチームメイトや応援してくれる観客席からの声援が届けられる。
こんなタイミングで私が出場するなんて家族のみんなも思わなかっただろうな。ふと、ベンチを振り返った。途中降板した美紀や先ほどアウトになったりん子も悔しさを押し殺してミコトに声援を贈っている。監督からは 『思い切り振れ』 とのサイン。それはミコトと心中を決めた元プロ指導者の男らしい決断だった。
「ストライックッ!」
審判の腕が上がり、ミコトが空振りを喫すると捕手が沸きあがった笑いを堪えるようにキャッチャーマスクに手を伸ばした。まるでタイミングの合っていない大きく振っただけの素人丸出しのスイング。外角のカーブに思わず尻もちをついたミコトが起き上がってグローブで口許を隠すようにしてほくそ笑む相手投手に向き直る。
「ストライックツー!」
2球目は内角をえぐるようなストレート。踏み込んだ足が思わず
「ミコト、大丈夫!」
「良く見て!打ちごろ、打ち頃!」
ベンチからの声援が相手側の観客席の「あと一球」コールにかき消されていく。落ちたバットを拾い上げてミコトは決意を固めるように強くグリップを握り締める。チームのみんなが私に試合を任せてくれた。この回同点に追いついてその後私が投げればみんなが援護してくれる。ここで負ける訳にはいかないんだ。
試合が再開して相手の投手が大きく振り出した腕からボールをリリースする。直球か、変化球か。打ち返せるならどっちでも良い。ミコトは強くグリップを握りなおして悔いを残さないよう思い切りバットを振った。
「ストライックスリー!ゲームセット!」
ミコトがその場で半回転し、ボールがキャッチャーのミットに納まると相手ベンチから割れんばかりの歓声が沸きあがった。ヘルメットが頭から落ち、バットを指先で摘むとミコトは溢れる涙を拭うことなく同じように泣きじゃくるチームメイトの待つベンチへと向かった。
ミコトの地区大会出場機会は代打としてのわずか一打席。これまでの想いを込めるにはあまりにも短い時間。中学ソフト、最初で最後の出場は投手での登板ではなく、野手としての空振りの三振だった。
「お前達は遂に茨川の関を越えることは出来なかったな」
最後のミーティングで監督は引退する3年生にとうとうと語った。いまだ泣いている選手が多い中、監督は振り返って眼下を流れる茨川を見つめた。この川を挟んだ他県へフェアリーズを導けなかった自責の念があったのかも知れないし、超大型投手がチームにいながら一度も全国大会に出場出来なかった教え子達への皮肉だったのかもしれない。
ミーティングが終わると打ちひしがれる3年生達の中で本塁を守り続けた莉央が声を上げて立ち上がった。
「このままで終われるかよ」
その声に鳴き腫れた顔を上げてりん子も声を出す。
「私も高校入ったらみんなと同じチームでソフト続ける!あんな形で終わっちゃうのは悔しいもん!」
りん子の他にも、ひとり、またひとりと少女達が立ち上がって声を出す。三年間投球板に立ち続けた美紀がとなりで膝を抱えるミコトに声をかけた。
「ミコトも高校でソフト続けるんだよな?」
「ごめん。もう私、ソフトボールはやりつくしたから」
そう告げてミコトは輪から離れた。3年間のミコトの努力や監督からの仕打ちを見ていたチームメイトはミコトの姿を呼び止めることが出来なかった。ソフトは中学で終わり。こうして長谷川ミコトはソフトボールとは無縁の高校時代を過ごすことを決めたのだった。
「あの時も途中で諦めちゃったんだよな、私」
夢から目を覚ましたミコトがベッドの上で天井の伝統に向けて手の平をかざした。部屋の明かりの何十倍の光を浴びてみんなで白球を追いかけた。部活を経験した大人たちはみんな 『あの頃は良かった』 と言って青春時代を振り返る。でも私にとってそれはずっと、苦しいことの連続だったんだ。
それでも、手の平をシーツに置いてミコトは過去を振り返る。あの時の経験を生かして高校でもソフトをやればエースに成れたのかも知れない。別に強いチームじゃなくたっていい。そう考えるとミコトは自分の指を擦り上げて笑った。もう半年も現場を離れている。今更あの練習量について行けるはずないよ。でも時々こうやってみんなとソフトボールをしている夢を見る。私の心の中でもう一度あの輪の中に戻って行きたいって気持ちがあるのかな。ああ、もうわかんないや。
頭の中がぐしゃぐしゃに混じりあってまた涙が込み上げてくる。いつまでもこんなんじゃダメだよね私。頭から毛布を被るとミコトは夜が明けるまで暗闇の中ですすり泣いていた。
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