第12話 ミコト × 12

 次の日、河川敷のグラウンドではレギュラー組と補欠組で別れて練習が行われた。


 レギュラー組はグラウンドの大部分を使った実践的な練習をこなし、ミコトのいる補欠組は身体作りの基礎練習を中心に打ち込んだ。練習後、後輩伝手にミコトは監督室に呼び出された。


「長谷川です、入ります」


 取り付けのゆるいノブを回してドアを開けると自治体が貸し出している室内練習場に設けられた六畳の部屋の隅に置かれた椅子の上で脚を組んでいた国府監督が部屋の入り口に立つミコトの顔を見上げた。


「ああ、長谷川。こうやってお前をここに呼ぶのも久しぶりだな」


 ミコトが社交辞令的な固い笑みを返すと、監督が膝をあわせて一息で椅子から立ち上がった。フェアリーズの監督を務める国府庄治こくぶしょうじは数年までプロ野球選手として地方球団で長年プレーし、引退後はこの茨川を覗く女子ソフトチームで若い世代の育成に励んでいる、というのが一般的に言われている監督評だ。監督はそこから歩き出すと背中で腕組をしてミコトの周りをぐるり、と一周して口から息を吐いた。


「あの時は俺も少し感情的になり過ぎた。長谷川は投手、続けたいんだよな?」


 問いかけられてはい、と頷くと監督は「フォームを見てやる」と言って部屋の中でミコトにピッチングフォームを取らせた。ミコトが脚を開いて控えめに腕を回すと「ストップ、そこで止まれ」と言って監督がミコトを静止させて身体のすぐ側まで近づいた。鼻息の荒い吐息が首筋を通り抜ける。思春期のミコトが生活の中で一番、生理的嫌悪感を感じる瞬間だった。


「足はもっと開け」


 監督が靴をはいた爪先でミコトが踏み出した足のかかとをすっと前に引く。身体の固いミコトはその場で留まろうとして足先に神経を集中させる。


「そうだ、そこから重心を前に移して腕を振り下ろせ」


 言われたとおりに頭の上にあった右腕を力いっぱい振り下ろす。その終点でミコトの手首が監督の筋肉を纏った毛深い腕に掴まれた。


「ダメだ。投げ終わった後に身体が横に流れ過ぎだ。そんなんじゃゴロをさばけないぞ」


 ミコトの顔に額を当てるぐらい接近した監督の縮れた髪が触れる。ミコトが目線で監督の顔を覗き込むと彼は掴んでいた腕の力を抜き、キャスターで動いていた椅子の背を捕まえてその場で椅子に座った。


「ちゃんとできるまでやらせるからな」


 夕暮れの体育館の片隅、監督に言われるまま、何度もミコトは投球フォームを繰り返した。


 以前国府監督は他のソフトボールクラブの監督を務めていたのだが、教え子に性的いたずらをしたとして数ヶ月で解任されたという噂があった。チームメイトや父母者からの評判もあまり良いものではなかったが、ミコトはこの40手前の指導者を一方的に嫌うことは出来なかった。元プロ選手だったという実績を持つことも確かだが、明確にミコトを味方をした経緯があったからだ。


 今年の春大会、茨川フェアリーズは地区大会を順調に勝ち進み、準決勝までコマを進めた。準決勝の相手は堅守をモットーとした完成度の高いチームで試合は投手戦になった。試合終盤、先発で投げていた霧島の指の爪が割れ、監督が投手交代を促したがその後を投げた投手が打ち込まれて結果的に大差での敗戦を喫した。


 帰りのバスの中、チームの誰もが肩を落とす中、現在は引退している三年生のひとりが打たれた投手を見て彼女をなじるような発言をした。


「あーあ、こんなことなら私もピッチャーの練習しておくんだったな」


 その直後、思わず運転手が急ブレーキを踏むくらいの勢いで監督がその場を立ち上がってその選手の頬を殴りつけた。彼女が窓に頭をぶつけてしゃがみ込むと監督は血管が切れそうなほど紅潮した顔をして大声を張りあげた。


「お前が一日二日、練習したところで成れるポジションじゃないんだ!ピッチャーを舐めるな!」


 監督が投げつけたその言葉はミコトを含めた投手陣の心を大きく揺さぶる事件となり、以降ミコトはこの監督に自分の名前を告げてピッチングをさせて貰う事を目標に毎日練習に励んできたのだった。


「よし、それだ。今の感覚を忘れるなよ」


 何十回目だったか、数える事を忘れて投球に没頭していたミコトに監督のOKが出た。顔から溢れたたまの汗を拭うと監督がミコトの背後に回り尻をぽん、ぽんと二度叩いた。ひるまない様に背筋を伸ばすと「また来い」とまとわり付くような声がミコトの耳を撫でた。


 ミコトがピッチャーを志すきっかけになったのはプロ野球チームの親会社に勤めていた祖父の影響で、物心つくころからミコトは祖父母にゴムまりを掴まされていた。


 小学生に上がり、4年生の時にミコトはリトルボールチームに入る。「自分の孫に野球のユニフォームを着せたい」という祖父の夢をかなえるとチーム事情からミコトは投手に転向。試合を左右する重要なポジションにやりがいを感じ、「中学になったらもっとスゴイところでボールを投げたい」という想いから世界大会の勝利投手となった霧島美紀が入団予定だったこのチームの練習場としているこの体育館のドアを叩いたのだった。



 その後秋大会が終わり、春になり新入部員が入ってきてもミコトは1軍に呼ばれることは無かった。その間に幾度と無く、監督室を訪ねるが毎回漠然としたアドバイスを貰うだけで具体的にミコトをレギュラーに上げるといった話にはならなかった。むしろその行為が「監督に媚びを売っている」とリョウ達レギュラー組の神経を逆撫でるだけでミコトは次第にチームの中で孤立していった。


「なんで、監督は私を選んでくれないんだろう。こんなに頑張ってるのに三年生でひとりだけ補欠なんて」


 夕暮れの室内練習場、ミコトは自販機でカップコーヒーを買うと長椅子に腰を下ろしてひとり黄昏たそがれていた。両手で包んだカップを眺めていると波紋の中に自信の無い顔を浮かべた自分の姿が映りこんでいる。今日の監督からの指導はいつもより激しくて、身体をあちこち触られて精神的にも落ち込んでいた。日々の練習の中での成長を見る、選手の身体の変化を知るのが監督の務めであると身体のラインを撫で回しながら監督は話していたが、最近あまりにもボディタッチの回数がエスカレートしているとミコトは感じていた。


「監督は私を面白がって遊んでるんだ。それくらい、いくら私でもわかるよ」


 カップの中に雫が落ちて波紋が大きく跳ね上がった。このまま、辞めてしまおうか。そんな気持ちが込み上げるとプラスティック製の長椅子の反対側に重心がかかってミコトの身体が一瞬持ち上がる。驚いて横を見ると黒いスポーツウェアを着た霧島美紀がその身体に密着した生地の袖口を伸ばしていた。あっと、息を呑んで何か声を掛けようとするが頭に言葉が浮かばない。同学年ではあるがふたりはこのときまでほとんど会話を交わしたことがなかったからだ。1軍の練習の帰りだろう。美紀が口元にゴムリングを咥えて髪を結うために手櫛で長い髪を後ろに流すとそれを頭頂部で丸めてリングを巻いて止めた。ミコトがその様子を眺めていると空いた口許から美紀が短く言葉を吐いた。


「調子はどう?夏には1軍にこれそう?」


「え、ええと」


 ライバルからの思わぬ問いに言葉が詰まる。美紀も自分がそんなことを言うのがおかしかったようで自嘲気味に微笑んでミコトに身体を向けた。上背はミコトより大分大きいが枝のように細い華奢な腕は80キロを超える剛速球を投げるとは到底思えない。


 しばらく沈黙が続き、問いかけたはずの美紀がミコトに聞き取るのがやっとのボリュームで小さく呟くように声を発した。


「長谷川、いや、ミコトには感謝してるんだ」


「えっ?」


 びっくりして飛び上がるとフェアリーズのエースピッチャーは1軍経験の無い同学生に謝意を示すように口許で言葉を練った。


「私がこのチームに入りたいって言ったとき、同じ地区でピッチャーやってるコはみんな別のチームに行くと言った。フェアリーズは歴史と伝統のあるチーム。このユニフォームに袖を通すのが私の夢だった」


 それを聞いてミコトが強く頷く。それは祖父や周りの環境で野球を始めたミコトの夢でもあったから。足元に置かれたバッグから覗くエースナンバー1の付いたユニフォームを見下ろして美紀は本音を自白した。


「このチームに来て私はすぐに先発の座をもぎ取った。いや、その言い方はおかしいかな。確かにリトルで優勝したのは事実だけど、三年の先輩まで一緒になって皆、どうぞどうぞってさ。誰も正面切って私と張り合ってくれなかったから」


 そう告げると美紀はミコトに向き直った。


「夏の大会、私達と一緒に出てくれないか?投手でも、野手でもいい。下手くそでも三年間頑張ってきたヤツが報われて欲しい。私からも監督に推しておく。いや、脅しかな。お前が監督室で何をされてるか、OBからの証言で裏取れてるからさ」


 ミコトは手の平を顔に当てて人差し指で目頭を押さえながら美紀の言葉を聴いていた。私のためにどうしてそこまで?正面のブルペンで投球を続けている軟式野球のピッチャーを見ながら美紀は話の話題を逸らした。


「ミコトは中学卒業したらソフト続ける?」


 くだけた美紀の言い方に思わずミコトは本音をぶつけてみる。


「高校生になったらおしゃれして、放課後に友達と美味しいスイーツショップに寄って、カッコいい彼氏が欲しい」


「あっはっはっは!」


 ミコトがそう言うと美紀がアスファルトがむき出しになった壁一帯に響き渡るくらいの声を出して笑った。ミコトは自分が言ったことが恥ずかしくなって下を向いた。やっと笑いの収まった美紀が膝を一度叩いて姿勢を崩した。


「やっとおしゃべりしたと思ったらそれかよ。まぁ気持ちは分からないでもないよ。毎日太陽が昇る前に起きて走りこみして、日が沈んでボールが見えなくなるまで追っかけてるんだもんな」


 そう言うと真剣な顔をして美紀は正面を向き直って左手で自分の利き腕である右肩を強く掴んだ。よく見るとテーピングが施されているようで痛々しい凄惨な美紀の姿にミコトは息を呑む。


「私はこの腕が壊れるまでソフトを続けなきゃならない。投石器の肩書きは飾りじゃないんだ。それにもう、私ひとりで投げてる訳じゃない。応援してくれる人たちやチームメイト、期待してくれる高校の監督や盛り上げてくれる新聞の記者のために私は投げるんだ」


 強い決意を感じる美紀の想いにミコトは自分が抱えていた悩みがバカバカしくなった。監督に嫌がらせをされたりレギュラーに選ばれないくらいで腐ってちゃダメなんだ。こんなに頑張ってるチームメイトがいる。ミコトは戒めで下口唇を噛む。


「監督がいつかミーティングで言ってただろ?茨川の関を越えようって」


 美紀がミコトを振り返った。全国大会出場から遠のいているフェリーズの現状を高校野球の白河の関に例えて練習場でもある県境の茨川を越えて全国行きを決めようという監督が打ち出したチームスローガンだった。


「私らで一緒に全国、いや、優勝旗を勝ち取ってやろうぜ」


 美紀の力強い言葉にエースとしての覚悟と最後の夏に賭ける決意を感じる。遠かったふたりの距離もいつの間にかすぐ側まで近づいていた。ミコトは美紀の想いに応じるとその後もふて腐れることなくなお一層練習に取り組んだ。そして三年の夏の最後の大会、レギュラー発表の場で長谷川ミコトの名はついに選ばれた。

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