茨川の関を越えるまで
第10話 ミコト × 10
ミコトが瞳子のグループと “事件” を起こしたその日の帰り、ミコトは家に着くなり、雨に濡れた身体を拭うことなく玄関で踵の折れた靴を脱ぎ捨てた。そのまま迷いの無い足取りで二階の自室のドアを開けて化粧台を覗き込んだ。光が部屋中を包み込み、いつの間にかその向こう側の世界に身体が移された。ミコトは細く息を吐き出すと顔と身体をこの部屋を使う前に似た容姿に戻す事を決断した。
雫の滴る顔を指で拭い、頭を落ち着かせてパーツを選ぶ。以前と同じ自分に戻ってしまうことが怖くて、まったく同じ顔に戻すことは出来なかった。各部のパーツを抱えて奥の扉を開けると身体が再び光に包まれた。
部屋に戻されると身体中にあった傷と痛みは消え、また新しく『長谷川ミコト』としての生活が始まった。あの部屋で何度もやり直せる私の人生。今の私は何人目のミコトなんだろう。瞳子に言われた言葉が何度も耳の奥を巡っていた。
次の日の朝、とてもベッドから起きる気にはなれず、階段の下から呼びかける母に「今日は体調が悪いから学校を休む」と言ってベッドの中でミコトは寝返りを打った。手に取った携帯電話の連絡先には以前のミコトで交換した亜季や美優のアドレスが消えている。目元にじんわり涙が浮かんできて毛布を頭の上から被って体の震えを押し殺した。
自分で作り出した暗闇の中でミコトは自分を戒める。ハヤトが所属するサッカー部のマネージャーになろうとする出過ぎた言動。そしてハヤトをずっと好きだった瞳子の気持ちを踏みにじるような態度。相手の気持ちを知ろうともせずにわがままに自分の好き勝手やり通そうとする最低な私。顔の前で開いた手にはおしゃれと欠片も無い、土が刻まれた
そっか、今の私はサッカー部のマネージャーのミコトじゃなくて、前とおんなじ不細工で弱気なミコトのままなんだ。自由に顔を変えられる、あんなに素晴らしい力を手に入れたのに何にも変われなかったんだな。あの部屋で美人のミコトに生まれ変わってもそんなの、ただの自己満足。いつかはどっかでボロが出て、結局ハヤト君は私を選んでくれないんだ。
自分の行動を省みてハヤトやサッカー部の美優や祥子や他の部員達の事を考えた。そのうちに頭が疲れてきて、知らない間にミコトは夢の中に落ちていた。
夢の中の世界......そこには野球のユニフォームを着た女の子達が河川敷のグラウンドで白球を追いかけている。どうやら中学時代の夢を見ているようだ。
地元のソフトボールチーム 『茨川フェアリーズ』 の紅白戦、1軍チームの攻撃。投手板には前の回で大量失点を喫した後輩に代わって二年生のミコトが登る。チームメイトから12インチの縫い糸が刻まれた皮製のボールを受け取ると、ミコトはキャッチャーに向き直ってバッターとの間合いを計りながら頭の上に右腕を振り上げる。
軸足で足元の土を踏みしめて大きく脚を踏み出し腕を素早く一回転させて投擲する。バッターがバットにボールを引っ掛けて目に前で弾んだ回転のかかったボールをキャッチャーが一塁に投球するとミコトは内野手に向かってワンアウトを示す右手の人差し指を立てた。そのまま凡打の山を三つ築くと時間終了でその紅白戦は終了。ミコトの2軍チームは10点近い差をつけられて1軍チームに敗北した。
「集合だ!早く集まれ、ぐずぐずするな!」
得点版の下に
「これから秋大会のレギュラーを発表する!」
ざわつく一年生を制 して1軍チームの二年生が真剣なまなざしで監督の言葉を待つ。そして監督が選んだそのチームの中に長谷川 ミコトの名はなかった。
「すごいよ!リョウちゃん、サードのレギュラーじゃん!これまでの頑張りが報われたね!」
練習終了後の更衣室、若い5番のゼッケンを貰った同学年の
「ミコト、あんたさ、悔しくないの?」
親しいチームメイトの努力を労っていたミコトの笑顔が固まった。更衣室の空気が少しずつ重いものに変わっていく。そのなかでリョウが抑揚の無い声でミコトに事実を言い放った。
「三年が抜けて新チームでレギュラー取れなかったの、あんただけだよ」
口ごもりながらミコトが視線を足元に落とす。ミコトの努力を知るチームメイトがそんな言い方しなくても、と言った視線を向けるがリョウは追撃するようにミコトに言葉をぶつけた。
「この際だから言わせてもらうけど、あんたのそのチームを盛り上げようって感じ、鼻に付くんだよね。レギュラーには成れないけどチームのムードメーカーにはなれます、みたいな。レギュラーの枠は決まってるし、そういうの必要ないから。もしかして監督に媚びてる?」
「そんなことない!」
更衣室の真ん中でミコトが大声を上げた。見かねてキャッチャー防具を抱えた
「おい、もうその辺にしとけよ。早く着替えないとまた監督にどやされるぞ」
頬に砂利のついた眉の薄い莉央の顔を見てリョウが開けていた自分のロッカーに向き直る。ミコトが視線を上げるとリョウが取り出した上着を被りながら言葉を続けた。
「ミコトの態度には正直うんざりしてる。仮にも選手なら言葉じゃなくてプレーでチームを引っ張るべきだろ。練習中はみんな必死なんだ。出し抜く訳じゃないけどレギュラーを争ってる。お前は周りにいい顔しすぎなんだよ」
「お先」
3人の間を縫うように着替えを終えた背の高い女の子が無愛想な態度で通り過ぎた。彼女はミコトを一瞥すると後輩にバッグを担がせて更衣室のドアを開けて去っていた。
「
先に出た美紀に続くようにリョウがカバンを肩で担いだ。やれやれ、といった態度で頭の後ろで両手を組んだ莉央がミコトに近づいて言葉を向けた。
「ソフトボール界注目の超大型有望株がこのド田舎のチームにいるとはね。ミコト、あんたも大変だね」
「うん、でも自分で決めたことだから」
自分が決めた選択にミコトは強く頷いた。地元のチームに世界大会経験を持つ凄いピッチャーが入ることは知っていた。ピッチャーはミコトが小学時代から続けているポジション。後悔はしていない。汗と土にまみれて白球を追いかけるグラウンドが中学時代のミコトの居場所だった。
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