Episode 04 /6
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美津穂は演習の計画を練ったひとりではあるが、演習そのものにはほとんど参加していなかった。
というのも、美津穂の任務はイリジウム社との連絡口、言うなれば文官のようなもので、戦闘員ではなかったから、兵器の展開訓練にも参加しないし、かといってヴァルキュライドの運用にも関わっているわけではない。
ではこの演習場でなにをやっているのかといえば、
「こ、こんなことをしていてもよいのでありましょうか……」
宿舎の屋上、普段は立ち入りが制限されているそこに大きなビニールプールを置き、冷たい水で満たされたプールのなかでぼんやりと空を見上げていた。
空は青く、高い。とくに今日は雲もない日で、間近から天を穿つように立ち上がる富士山が美しかった。それを冷たい水に身体を浸しながら眺めるのは最高の気分で、こんなことをしていてもいいのか、という疑問はその快感によって上書きされていく。
まあ、だって、これ以外なにもやることがないのだ。演習に参加するわけでもなく、宿舎で仕事があるわけでもなく。それに澁谷からも羽を伸ばすように言われているし。ちょっと伸ばしすぎているような気はするけれど。
格好は、無論、水着だった。
ビキニではない。なんとなく、それは恥ずかしかった。太ももまでしっかりと覆う競泳水着。もともと水泳は趣味で、イリジウム社との窓口になる前には休日に泳ぎに行ったりもしていたから、その水着をそのまま持ってきたのだった。
もちろん、美津穂ひとりではなかった。
いかに羽を伸ばしていいと言われても、さすがに自分の意思で宿舎の屋上でプールができるほど美津穂は剛胆ではない。それほど剛胆な人間といえば、ひとりしかない。
「はー、気持ちいいわー。やっぱりこんな暑い日はプールに限るわね」
ゴリラの形をした大きな浮き輪に寄りかかり、水面をぷかぷかと浮かんでいる少女がひとり。日和って競泳水着を持ってきた美津穂に対し、乙音はもちろんそんな弱気ではなかった。青と白、マリン柄のビキニ。日焼けしていない白い身体を陽光に晒しながら、長い黒髪を水面に漂わせている。
その近くではもうひとり、イヴがビニールプールの縁に掴まってぱちゃぱちゃと足で波を立てている。イヴは、水着を買いに行く時間もなかったということで、昔乙音が使っていたというスクール水着を着ていた。こちらも色素がうすいのか、肌は透き通るように白く、それを眩しく輝かせながら水遊びを楽しんでいるらしい。
まだ四、五人は入れそうな大きなビニールプールで三者三様、水の冷たさをなによりの贅沢と楽しみながら、それでもやはり美津穂はこんなことをしていていいのかなと思う。
宿舎の前の広場ではいまも演習が続いていた。
先ほど、森に入ったヴァルキュライドが攻撃の訓練をしたときは、プールにいる三人も空気の振動を感じていた。耳が痛むこともあったが、それよりも水全体が細かく振動していて、ヴァルキュライドの放った音波のような振動波がいかに強力な力なのか身をもって実感していた。実感しつつ、それでもやっぱりプールで遊んでいるから、こんなことしていていいのかな、ともなる。
「まあ、どっかで息抜きも必要でしょ」
ゴリラの浮き輪に身体を預けた乙音が言う。
「人生、ずっと緊張してるわけにはいかないし。どこかで適度に息抜きしないと、体力も精神力もなくなっちゃう」
「う、それはそうでありますが……鮫崎さんは大人であります」
「でしょ。自分でもそう思う。イヴ、おいで」
水遊びをしていたイヴが振り返り、水面を泳ぐように、実際は浅いから四つん這いで這い寄っているのだが、乙音に近づく。ゴリラの浮き輪は両腕が環のようになっていて、イヴはそこに掴まった。
「育った環境のせいかも。わたし、ひとりっ子だけど、親が仕事で忙しいからだいたいのことはひとりでやってたし。柏木さんは?」
「自分は姉がひとりいるであります」
「あー、ま、そんな感じする」
「う、甘ったれた感じでありますか」
「じゃなくて、なんていうか、好かれやすい感じ? 他人に警戒されないっていうか、自然と他人との距離感を詰められるっていうか……学生時代とか、モテたでしょ?」
「ぜ、ぜんぜんであります!」
「ほんとかなー。絶対、男って柏木さんみたいな女の子、好きだと思うけどなあ」
「そ、そうでありますか……それを言うなら、鮫崎さんのほうがモテそうであります。美人だし」
スタイルもいいしな、と美津穂はちらりと乙音の姿を視界に入れる。近ごろの若い子は、なぜああもスタイルがいいのか。背はそれほど高くなくても、足はすらりとしているし、腰は細いし、マリン柄のビキニには谷間が。美津穂は自分の胸を見下ろし、いくら競泳水着で締めつけているとはいえ若干フラットすぎやしないかと落ち込む。
柏木美津穂、陸上自衛隊所属の二等陸尉。年齢、二十八歳。今年で二十九になる。正直、いい加減「結婚」という言葉が冗談では済まなくなってきている。
とはいえ現状、なんの兆しも見えなかった。なんの兆しもなさすぎて、焦ることもできない。日々仕事をこなしているだけで精いっぱいで、恋愛云々まで意識を向ける余裕がなかった。まあでも、そのうちそういうことに目がいくときがくるだろう、と思って早数年。このままだと本当にやばいかもしれない、と思いはじめたときにこの大騒動で、婚期はさらに遠のきそうだった。
「ま、美人でスタイルがいいのはたしかだけど」
と乙音は別段自慢するような口調でもなくごく自然にはっきり自慢して、
「そういうの、あんまり興味ないんだ。ほかにおもしろいこと、いっぱいあるし。ヴァルキュライドのこともそうだけど。わたし、知らないことを知るのが好きなの。わからないことが理解できた瞬間ってうれしいでしょ? あの感じが好きだから――恋愛って、だいたいこんな感じなんだろうなって想像できるし。経験はないけど、想像できるなら別に時間を割いてやらなくてもなーって。それより、想像もできないくらいのことがいっぱいあるもん」
「は、はあ、なるほど……やっぱり、大人であります」
「でしょ」
どすん、と音が響く。どうやら森のなかに入っていたヴァルキュライドが広場へ戻ってきたらしい。
ビニールプールの縁に掴まり、屋上から見ると、もうヴァルキュライドの姿が森の奥に見えていた。それが徐々に宿舎のほうへ戻ってくると、改めて巨大なロボットだと感じる。
ヴァルキュライドの頭は宿舎の屋上より高い位置にある。そんなロボットがどすん、どすん、と足音を響かせながら広場に戻ってくると、広場からあっと声が上がった。なにかあったのかと、美津穂と乙音はプールから上がり、屋上の縁から広場を覗く。すると広場ではヴァルキュライドといっしょに戻ってきたらしい貴昭が屋上のほうを見上げていて、
「いやいやいやずるいだろ、それ! おれ仕事してるんですけど!」
「だってわたしたちやることないもの」と乙音は平然と手を振る。「せいぜい暑いところでがんばってよ」
「ぐぬぬ……! いいもん、ヴァルキュライドの視界で覗いてやるもん! ぐへへ、せめて目の保養だ!」
「あとで十分につき千円徴収するから」
「高っ!」
「女子高生の水着姿なんだから、安いほうでしょ」
「いやいや高い……いや、安いのか? わ、わからん!」
ううむと悩む貴昭を放っておいて乙音はプールに戻った。イヴはぱちゃぱちゃとバタ足で水しぶきを跳ね上げている。下を見れば百人あまりの自衛官が炎天下で整列していて、前を見ればふたりの美少女が水遊び、まるで天国と地獄のようだと美津穂は思い、自分は天国のほうへしずしずと戻っていく。
プールの水に浸かる。水もすこし熱され、温くなっていた。しかし外気温よりははるかに低く、身体の熱がすっと取れていく。美津穂はふうと息をつき、それから何気なくイヴを見た。
イヴ。
すぐ目の前で水遊びをしている少女。
一見しても、じっくりと眺めても、ふつうの少女、ふつうの人間にしか見えない。
しかし血液検査では、イヴは人間ではないという結果が出たのだという――美津穂にはそれが信じられなかったが、イヴがふしぎな少女であることもまたたしかだった。
言葉数は多くない。表情もほとんど変わらない。しかし水遊びをしたり、何気ないことに興味を示したりして、そのあたりはふつうの少女とさほど変わらないとも思う。
この少女の正体は、いったいなんなのか。
イヴが顔を上げた。濡れた髪が額に張りついている。乙音がそれを後ろに流してやる。額を出すと、余計に幼い顔立ちに思えた。
髪がうすい茶色なら、瞳もブラウンだった。クルミのような瞳がふしぎそうに美津穂を見つめている。
「あの」
美津穂は揺れる水面を見下ろしながら、言った。
「――あなたは、何者なのでしょうか」
乙音が振り返る。イヴはゴリラの浮き輪に掴まり、ちいさな身体を浮かせたまま答えた。
「私はイヴ――それ以外のことは、忘れてしまったから……答えられない」
「忘れてしまった? それは……記憶喪失かなにか、ということでしょうか」
「記憶は消えてしまう。役目を果たしたら、必要な情報は自動的に失われる。私は情報を出力するために存在しているのではない。私は情報を記憶しておくために存在している」
十二、三歳の少女の口調ではなかった。
美津穂は不意に、目の前の少女が正体不明の怪物のように思えてくる。
しかしその感覚はほんの一瞬だった。瞬きのあいだにイヴはいつものイヴに戻っている。イヴはちいさく首を振り、水の冷たさを楽しむように頭の先まで水に浸かる。数秒経ってぱっと出てくると、イヴは動物のようにぷるぷると頭を振って水滴を飛ばした。
「わっ、ちょっと、水がかかるでしょ――もう、そういうところ、無頓着なんだから。ほら、イヴ、おいで」
乙音がプールサイドに用意してあった大きなタオルでイヴの頭をがしがしと拭いた。そのあいだ、イヴはうーと声を漏らしながらされるがままになっていて、水滴を拭った茶色い髪を乙音は手ぐしで整える。
まるで仲のいい姉妹のようなふたりだった。顔立ちは似ていないが、美人という枠では同じだ。乙音はどちらかというと日本的な美人顔で、顔のそれぞれのパーツがちいさく、整っている。一方イヴは外国人の子どものようで、色白で目が大きい。どちらもいまはまだ美少女という雰囲気だったが、大人になれば美人になるにちがいない。
イヴはぶんぶんと頭を振って髪を散らし、身体を倒して首まで水に浸かる。その状態ですーっと水面を移動し、美津穂の近くまできて、じっと美津穂を見つめたかと思うと、なんの前触れもなく美津穂の胸を掴んだ。
「はわっ――」
イヴは美津穂を離れ、今度は乙音に近づき、乙音をじっと見つめたあと、同じように乙音の胸を掴んだ。そして一言、
「……乙音のほうが大きい」
「さ、そろそろ上がりましょ。あんまり長く入ってると逆に身体が冷えちゃうし。別に塩素も入れてないからシャワーは浴びなくていっか。イヴ、着替えにいくわよ」
「ん」
プールの外で一通り濡れた身体を拭ったふたりは、裸足のままぺたぺたと宿舎のなかに戻っていった。
ひとり、プールのなかに残った美津穂は、そっと自分の胸に触れ、くっ、とちいさく呟いていた。
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