Episode 02

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   月のヴァルキュライド


  Episode 02



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 強靱な葉や茎が生い茂る温室のなかで、ひとりの少女が泣いていた。

 まだ三、四歳の少女の泣き声が温室に反響し、跳ね返ってきたその声にまた一層大きな声で泣き出す始末で、放っておけばそのまま声が枯れても泣き続けるのではないかというくらいだったが、やがてその声がぴたりと止んだ。

 大きな葉の陰から、ひとりの女が顔を出している。少女は女に駆け寄り、足にすがりつく。女は少女を抱き上げて温室を出た。

「あなたがひとりで温室に入ったのよ。泣き虫なのは変わらないわね」

 指先でちいさな涙を拭うと、少女は顔を背けるようにして女の首筋にすがりついた。

 温室は木造の建物の一部だった。床も壁も天井も木でできた家のなかは、どこに触れても軋む音がする。この建物が生きている証だと女は感じていた。コンクリートで固められている、化石のような家とはちがう。木は生き、呼吸をしている。たとえ切り倒されても、だ。だとしたら、木にも魂のようなものはあるかもしれない。木造の家というのは木という生命そのものだ。そこで生きるということは、だれかの腹のなかで生きることにも等しい。

「人間の性かもしれないな」

 部屋の隅にテーブルがあった。テーブルに向かって、車椅子の老人がひとり、座っている。

 老人がゆっくり車椅子を回すと、少女が床に降りたがった。女が少女を下ろし、少女は老人に駆け寄って膝にすがる。老人は少女の頭を撫でながら女を見た。

「すべてを支配し、所有したがるのは人間の性かもしれん。そうでなければ人間という生き物は安心できない。人間は、あらゆる類人猿のなかでもとくに恐怖という感情を増幅させた種なのかもしれない。恐怖とは原理的に未知のものを対象にした感情だ。未来や、自分では触れられないもの、所有できないものに関して、人間は恐怖を覚える。それを克服するために脳は肥大化したのだ。この世から未知を消し去るために。人間はそのためだけに生存し、凄まじい勢いで世界から未知を排除し続けている」

「やがて人間はすべてを知ることになるかしら。それとも、永遠に人間には知り得ないものもあるのかしら」

「どちらもあり得る。人間はすべてを知る得るだろうが、すべてを知ったところですべての未知が排除できるわけではない。人間の想像力は恐怖を克服するために役立っているが、同時に無限に恐怖を生み出す装置でもある。想像力があるかぎり、人間は恐怖から逃れることはできない。たとえ世界のすべてを知っても、まだ知らないなにかがあるかもしれない、と想像するかぎり、人間が真の意味で平穏を得ることはない。あるいは、想像力さえなければ人類はこれほどまでに傷つかずに済んだだろうがね。目の前にある世界をただ受け取るだけの存在ならば――なにひとつ創造せず、なにひとつ想像さえしなければ、人間はいまだに幸福な猿でいられたかもしれん」

「しかし時間は戻らない。人間は猿には戻れない」

「そのとおり。人間は人間だ。人間でないなにものかになり得るとしても、猿にはなれん。大人が、無垢な子どもには戻れないように」

 老人は車椅子を動かし、壁際にあった棚に近づいた。棚にはいくつも写真が飾られている。そのうちのほとんどは先祖のものだった。代々この地を受け継ぎ、貴族として生きてきた人間たち。その家族写真を、老人はひとつひとつ伏せていく。すべてを伏せ終わると、老人は車椅子をくるりと回した。

「時間だ。行くとしようか」

「先生、はじまったの?」

「ああ――世界中の報道機関が一斉に騒ぎ出した。アメリカ、ブラジル、中国、日本、エジプト、トルコ、ドイツ、そしてこのイングランド――八人の巨人に、八人の司令官というところか。ともかく、すべてはいま、はじまった。これから世界は崩壊へ向かって落ち込んでいく。われわれは、それを見届けねばならない。イヴ、おまえもいっしょに行くんだ」

 少女は言葉が理解できないというように首をかしげた。

「香瑠、準備を。イヴを見つけた日本へ行く。おそらく、そこが終焉の地となるだろう――私たちの、あるいは人類の」

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